無差別級 (157レス)
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99: 闇夜の鮟鱇★ 2011/11/04(金)10:51 ID:???0 AAS
  ●●●万葉集の極彩色●●●(6/6)

結局、当時の下着と上着の差は、その材質や厚さの違いだけで、
さしたるデザインの違いがあったわけではないんでしょう。
多分、下着としては、無地で柔らかい物を身につけ、
上着の方は、厚くて模様が付いていたりするわけでしょうね。
その場合、金持ちほど沢山の着物を重ね着する分けで、
その発展形が平安時代の十二単になるのかもしれませんね。

その場合、下着の紐を解くということには少し別の意味があるわけです。
これはもっと後の平安時代の話ですが、男女が共寝をする時には、
互いの着物を下に敷いたり掛けたりして、夜具の代わりにしたそうですね。
空蝉の場合も、夜具代わりの着物を残して逃げ出したわけですしね。

つまり、当時はまだ専用の寝具などというものはなくて、
互いの着物を夜具の代りにしていたようですね。
その意味では、起き出す時に間違えて相手の下着を着る、
ということもあったでしょうし、男女が下着を交換するという風俗も、
現代人が考えるほど不自然な事ではなかったんでしょう。

遣新羅使の後に並ぶのは、中臣宅守と狹野茅上娘子の相聞歌ですね。
この場合も、狹野茅上娘子は宮女で、二人の関係に怒った天皇が、
中臣宅守を越前に流刑にしたんだそうです。
その場合、流刑にする時は当然、女を同行することが許されないのに、
二人の手紙のやり取りを仲介するのが許されたのは、不可解ですけどね。

一説によると、万葉時代の後半には重婚を禁止する傾向が強まり、
この場合も、中臣宅守はその禁を犯したのだという話がありました。
  中臣宅守と狹野茅上娘子:天平の悲恋
  http://blog.hix05.com/blog/2007/04/post_180.html
当時の天皇は仏教に深く帰依した聖武天皇ですから、或いは、
邪淫を禁ずる仏教思想に影響された面があるのかもしれません。

ただ、流刑になったのが739年であるのに対し、763年には、
彼が都で出世した記録があるそうですから、少なくとも24年後の、
淳仁天皇の時代には、都に帰っていたことになりますね。
その場合、彼の流刑が許された理由が気になりますが、
天皇が変わったせいというよりも、狹野茅上娘子と交わした恋歌が、
一定の評価をされた結果である、と考えるのが良いような気がします。
その場合、これまた一種の歌徳説話ということになりますね。(^^;)

それから、以前に書いた件でちょっと気になることがありました。
例の人麻呂の熊野の歌で百重成を『ももへなす』と読みましたが、
前後のつながりからして、ここは『ももへなし』とすべきでしたね。
つまり『みくまのの うらのはまゆふ』は百重を導く枕詞で、
『ももへなし こころはおもへど ただにあはぬかも』と続く、
と見る方が、歌としては自然でしょうからね。

最後の『だだにあはぬかも』の『かも』を『鴨』と書いた点からして、
もし、ここを敢えて『ももへなす』と読ませたければ、
百重成でなく百重茄と書いたんじゃないでしょうか。(^^;)
あるいは、百重梨とすればむしろ、誤解が無かったでしょうね。
当時、茄や梨があったかどうかが問題かもしれませんが……。
因みに、鴨なんていう字を当てた所は少しふざけている感じもあり、
キョンキョンあたりが聞いたら喜びそうな気がしますね。

実を言うと昔、あの人が言っていたことなんですが、
気象観測システムのアメダスという名前を子供の頃に聞いて、
『何をふざけた名前をつけてるのか』と思ったそうですね。
ところが、大人になって、それがAMeDAS、つまり、
『Automatic Meteorological Data Acquisition System』
の省略形であると知って納得したそうですが……
実を言うと、この手の省略名なんていうものは、
本当の所はどうにでも、でっちあげる事ができるんですよね。
ですから、これはやはり当初、ふざけていると考えたのが、
むしろ、アタリだったんじゃないでしょうか。(^^;)
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