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93: 闇夜の鮟鱇★ 2011/09/30(金)10:45 ID:???0 AAS
  ●●●東歌の起源について●●●(3/3)

彼が死にのぞんで作ったという歌の詞書きに『臨死自傷』
という表現があるのも、その傍証であるという話が出ていました。
因みに、これが梅原猛氏の説の一部なのか、このサイトの人の意見なのか、
日本語の文章表現が甘いので良く分からない点がネックですけどね。
こうなると、気になるのはその刑死の理由ですよね。(^^;)
私が前に書いた内容と照らし合わせると、これはやはり、
女性問題以外にあり得ないだろう、というのが私の印象です。

実は『人麻呂は持統・文武の両天皇に仕えた』
と同じサイトに書いてあります。
ということは、つまり『女帝の持統天皇の時代に、宮女を相手に、
恋を繰り返していた人麻呂が、次の文部天皇の時代になっても、
その女癖が抜けなかった』と考える手がありますね。

その結果、うっかり文武天皇の女に手を出してしまい、
それが元で刑死した、考えると辻褄があうように思います。
ひょっとすると、前述した歌の『ただにあはぬかも』の女が、
文武天皇の宮女だったのではないでしょうか。(^^;)

因みに、古典講読では、その熊野の歌に関して、熊野船というのが、
当時は特別な意味を持っていたことが語られていましたね。
日本の各地で、その熊野船が用いられていて、
遠くから見るだけで、熊野の船と分かったんだそうです。

ということは恐らく、当時の明日香に渡ってきた渡来人の中で、
造船技術を持つ技術者が熊野地方に定着したのではないでしょうか。
そして彼らが大陸の先進的な造船技術を用いて作ったのが、
問題の熊野船である、と考えるのが良いように思います。

その意味で、熊野船は古来からある日本の船とは、
構造的にも外形的にもかなり違っていたんでしょうね。
そうしたすぐれた造船技術や操船技術が熊野にもたらされたことが、
平家物語の時代に熊野水軍が活躍した一因なんでしょう。

それから、更に少し前の古典講読では、有馬皇子の作品が出てきましたね。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%96%93%E7%9A%87%E5%AD%90
  磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
  家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
その場合、私が昔から気になっているのは、
特にこの二首目の歌が、良く教科書に出てくる事なんですね。
はっきり言って、一首目はまだしも、二首目の歌は、
どこからどうみても下らない、というか何の技巧も工風もない歌ですよね。
『だから何なんだ』といった感じの愚作ですから、わざわざ教科書に、
どうしてこんな下手な歌を乗せるのか、私は理解に苦しみました。

まあ、彼が刑死に向かう途中、その旅のわびしさを詠んだ、
と見れば多少の感慨も沸くんでしょうけど、この歌は、
万葉集全体で見ても一二位を争う駄作でしょうね。
近頃は小学生だって、もう少しましな短歌を作りますからね。
実は、このサイトに『これらの歌が実は、彼自身の作ではなく、
後世の人が有馬皇子に仮託して詠んだものである』
とする折口信夫の説を見つけたんですけどね。

でも、以上の点を考えると、私には全く賛成できません。
なぜなら、もし後世の人が仮託して作ったものなら、
その人には、少なくとも最低限の歌の素養があったはずで、
こんな駄作を作るとは思えないからです。
つまり、こんな駄作がそのまま残されているということ自体、
『当人が作った歌だったから』という以外の理由は考えられませんよね。
この有馬皇子という人も、大した人物ではなかったんでしょう。
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