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131: 闇夜の鮟鱇★ 2015/01/13(火)11:59 ID:???0 AAS
  ●●●芭蕉句を添削する●●●(4/9)

で結局、気づいたのは捨て子が社会現象になる為には、
一定の社会的条件が必要だったのではないかということですね。
先ず、第一には十分に温暖な気候でないと、
捨て子はすぐに凍え死んでしまうような気がします。
その点では、中国の華北地方のような寒冷地では、
捨て子は起りにくかったのではないでしょうか。

そして、第二には捨て子を拾って育てられるだけの状況、
つまり、社会的な余裕が不可欠だったかもしれませんね。
例えば、戦乱続きで庶民が食うや食わずの状態の場合、
捨て子を育てるどころではなかったでしょうからね。
そうした条件が揃って、社会に一定の余裕が生まれた時、
『誰かが拾って育ててくれるかもしれない』という期待が生じ、
育てられない子供を捨てる、という風潮が一般化したんでしょうね。

但し、更に調べてみると『ローマ時代の捨て子は、
奴隷として育てられた』という話が出てきました。
他方では、産業革命後のヨーロッパでも捨て子が頻発し、
彼らは修道院で育てられていたという話があります。

その時、プロイセンのフレデリック大王が修道士に命じて、
『赤ん坊と一切目を合わせずに育てる』という実験をした所、
育つ前に皆死んでしまった、なんていう嘘みたいな話もありました。
こうなると、捨て子も単なる実験材料に過ぎなかったようですね。
  フレデリック大王の実験とネグレクト
  http://www.glico.co.jp/boshi/futaba/no71/con05_05.htm

日本の場合は特に、長い戦乱が終わって江戸時代になると共に、
人命を大切にする風潮が急速に高まった、という事情もありそうです。
しかし、産業革命には尚遠い日本で、既に捨て子が頻発したとすると、
ちょっと不可解ですが、何か仏教教義に変化でもあったんでしょうか。

因みに、野ざらし紀行の旅が1684年ですが、その3年後には、
将軍綱吉による生類哀れみの令が出されている分けですね。
そして、実はその一部として捨て子禁止令が含まれていて、
この禁止令だけは、綱吉の死後もずっと維持されたんだそうです。
ひょっとすると、芭蕉のあの句がひとつの引き金となって、
そうした禁止令が生み出された、と考える可能性もありますよね。

それに比べると、少し時代を逆上って、例えば平安時代に、
捨て子禁止令があったという話は見当たりませんからね。
当時は育てられない子供は即、間引きされたんでしょうね。
少し前の戦国時代には、そこいら中に死体がゴロゴロ転がっていても、
何とも思わなかったんでしょうし、捨て子を見殺しにしたと言っても、
現代的な感覚からは、到底たどり着けない時代感覚があった気がします。

ひとつ気になるのは、当時の東海道にどれだけの人通りがあったかですね。
奥の細道でも、北陸道の市振の関では、同宿した遊女から、
『後を付いて行かせてくれ』とせがまれたという話がありました。
その時『自分たちは寄り道が多い。他の通行人に付いて行けば、
何とか目的地に着けるだろう』と諭して断ったという話が出てきます。

幼児を育てるとなれば、母乳の出る母親が必要だった分けで、
芭蕉たちも、他の通行人に捨て子を託したと考えるのはどうでしょうか。
もっとも母乳というなら、食い物を投げ与えるのは矛盾しますかね!?
ただ、もし通行人が十分多ければ、捨て子には既に人だかりが出来ていて、
芭蕉たちは、それを後ろから覗きこんだだけだったかもしれませんよね。
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