試合に負けて、勝負に勝つ (257レス)
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(64): 2014/06/01(日)23:02 ID:PvURCNGSo(1/2) AAS
大東亜戦争はこれだよな!!
238: 1 インパール31 2014/07/03(木)20:24 ID:TFeTYxIDg(1/3) AAS
やっとシーンに到着して、本隊の来るのを待ったが、ここも食糧がなく、小屋の中から犬も射殺して食べた。ビルマは皆野犬であり、特に赤犬の方が美味いと云ったものである。漸く本隊が到着した時は、行李の馬が四、五頭、(※ライマナイ)出発時は約三十頭位と思う。日本馬は一番早く病気で倒れ、チャン馬(※中国の馬)は丈夫で粗食に堪え肉も落ちず一番戦争には適したと思うが皆途中で食べて了ったのである。
239: 1 インパール32 2014/07/03(木)21:01 ID:TFeTYxIDg(2/3) AAS
テイデム(※インドービルマ国境を越えて南進50kmくらいか)に来た時は、患者達が、松林の中にあちこちに居て、馬鈴薯程もある大きな松露を飯盒に入れて、歩いて居たのには驚いた。それでも食べる物のあったのはよい方で、馬糧だった大麦のザラ引いたのを人間の糧株に貰ったがこれを飯盒の蓋で炒って噛んで見たが、こればかりは飲みこめなかった。愈愈食糧のない時は馬を殺して、馬の肉をよく食べたものである。ガロン缶に下げるように手をつけてトロ火で一日も煮て居ると、コンビーフのようにやわらかくなり、それに塩をつけて食べたのである。
240: 1 インパール32 2014/07/03(木)21:03 ID:TFeTYxIDg(3/3) AAS
※間違い

敗退はカローを経て泰緬国境のアナクイン迄、ここで終戦の報を聞くのであるが、途中タウンタ(※メイクテーラ北西のチンドウィン河付近)近くのアヤドウでは敵戦車の襲撃に会い、行方不明者が大分出たが、おそらく戦死したであろう。小兵は幸い前の晩、本部の書類輸送で出発したので無事だった。この前日だったか敵のジープを分捕り、大西隊長と地図があった、タバコがあったとやっているうちに、敵の偵察機が飛んで来て、間もなく迫撃砲を打ち込まれ、伏せて居る囲りに破片の散る砂煙り、とうとうそれ迄大事にして居た、妻子の写真も入って居た背嚢を棄てて、銃と帯剣だけでやっと逃げ延びたのである。やっと夜になって咽喉が渇いて仕方がないので、近くの溜り水を汲んで、飯盒で沸かして飲もうとしたが、沸騰すると皆吹き出して了って、全く飲めなかった。翌日夜が明けて見たら牛糞まじりの泥水であった。
241: 1 インパール33 2014/07/04(金)21:28 ID:V6zOSlnPf(1/3) AAS
次はメークテイラ会戦である。(※イラワジ会戦で検索)メークテイラ湖の辺に一晩中砲撃を喰い、この時も生きた心地がしなかった、幸い砲弾は伏せて居る後の湖の中へ落ちて、我々一同無事であった。漸く砲撃の下火になった明け方、縄田准尉の指揮下、メークテイラの飛行場でガソリンのドラム缶か、ボーン、ボーンと破裂する明りを頼りに脱出したのであった。
242: 1 インパール34 2014/07/04(金)21:46 ID:V6zOSlnPf(2/3) AAS
カローを十八年の九月に出て、アナクインでの終戦迄、約二年、六十八日間のライマナイを除いては、殆ど毎日々々行軍である。一斗の米を背嚢に入れて山を登って下ると、一日という事もよくあった。登るよりも下りが足に来てよく杖をついて歩いたものである。部落を見付けて部落へ入ると、補充に寝ずの籾搗である。籾を搗いて丸い箕であおって、籾と米の選別が又大変であった。後からビルマ人にダー(※不明)でやられて死んだ者もあったと聞いて居る。
243: 1 インパール35 2014/07/04(金)21:47 ID:V6zOSlnPf(3/3) AAS
行軍して居て鶏の鳴き声を聞いて、部落が近いと思って喜んだ事もあったが、それは野鶏(※=キジ)であって、道路へ出て牛糞馬糞の中の食べられるものをあさって居り、だまされたものである。よく飛んで普通の民家の屋根などへ飛び上り、樹上で夜を過すのである。又部落民の小屋へ入って休もうとしたら、無数のノミの襲撃ゲートル(※脛に巻く布)へ真黒になってハイ上って来たのには、驚いて逃げだした事もある。
244: 1 インパール36 2014/07/05(土)20:31 ID:4NHCejCld(1/2) AAS
三十二才で召集され、三十六歳の復員迄、あとの補充がないから初年兵である。しかも輜重兵、作戦間は馬を一頭づつ当てがわれ、行軍中、小休止と号令が下っても、身体一つならその場で尻をついて休めるが、馬を持って居ると人間よりも馬優先、水飼いをしなくてはならず、山間の場合など一粁(※キロメートル)もあろう谷間へ下って行って、水?へ水を汲んで来て飲ませなくてはならず、やっと水を飲ませ終るともう出発であるから、自分ら休む暇がない、馬では随分苦労もしたが、助けられたりもした。ライマナイに居る時など、下の部落から籾を持って来るにしても、馬がなくては到底運ぶことなど不可能な事であった、馬と云えば落下傘部隊に後方遮断された時などその後方に出るため一晩中馬の尻尾につかまり乍ら密林の中を、しかも急坂の上り下り「ヒヨドリ越え」とはこんな事かと思った事もある。途中馬を二頭位落したが、その転落する音が今でも耳の奥に残って居る。
245: 1 インパール37 2014/07/05(土)20:48 ID:4NHCejCld(2/2) AAS
病気では一番苦しかったのが、泰緬国境のアナクインでのテング熱(※蚊を媒介とした感染症)である。薬はなし唯寝て居るより他にない、戦友に粥を炊いて貰って口まで持ってゆくのであるが、つき返して来てどうしても口に入れる事が出来ない。一週間そんな状態で居たら、日本が負けたとの報が入り、タイ国へ移動する事になったが、フラフラの状態でやっと汽車に乗りこんで、ナコンパトン(※タイ国・バンコクの西)に着いたのであった。
246: 1 インパール38 2014/07/07(月)19:38 ID:5dCRJ5B2a(1/6) AAS
いろいろ思い出はあるが、マラリア患者であろうか、川へあと一歩というところで、飯盒を手に持って息絶えて居た兵もあった。飢と病気でやっと水のありかに近づいて、いま一歩というところで力を尽きた兵隊、妻子もあったろうにと思うと不憫であった。
247: 1 インパール39 2014/07/07(月)20:00 ID:5dCRJ5B2a(2/6) AAS
カローを出てから約二年間、ライマナイの六十八日間を除いては、殆ど毎日毎日の行軍であるから、風呂(とは云ってもドラム缶の風呂であるが)は勿論水浴すら出来ない。だから肌着はシラミの巣であって、時折、飯盒で襦袢袴下等を煮沸して卵を殺したものであるが、何しろ飯盒であるから襦袢袴下別々でないと出来ない。
後方から何の補給もないから、トイレ(勿論野大)へ行ってもちり紙一枚、新聞一枚すら無い事も屡屡、止むなく木の葉で済ますのが普通である。
248: 1 インパール40 2014/07/07(月)21:12 ID:5dCRJ5B2a(3/6) AAS
※ラストスパートですたい。

敗退の途中衛生兵の菅井(※仮名)とは気が合って、よく行動を共にした。何処であったか場所は忘れたか、夜になると二人で近くにあった野戦倉庫へ忍び込んで、野菜類をかっ払って来て食べたこともある。復員して知ったが、その野戦倉庫には義理の兄が居たとの事だった。菅井とは死ぬ時はせめて畳の上で死に度いと、よく話し合ったものである。幸い二人とも復員したが、菅井は間もなく死んだそうである。畳の上で死ねたのだから、思い残す事はないかも知れないが、二人で語り合う機会もなく残念である。
249: 1 インパール41 2014/07/07(月)21:14 ID:5dCRJ5B2a(4/6) AAS
インパール作戦の犠牲者は十五万といわれるが、その殆どが病死であり、実際の戦闘で死亡したというのはその一割か二割ではないだろうか。雨季を目がけての作戦の強行、人間の生命の尊さを知って居たであろうか。軍部のうぬぼれが、遂に悲惨な結果になったと言わざる得ない。ビルマに居るうちに一度も友軍機と(思われる飛行機を)確認出来た事はなく、完全に制空権を握られても尚、戦争を強行しようとしたあたり、うぬぼれが如何に危険であり、恐ろしいかを実証したものといえよう。もう二度とあの悲惨な戦争はあってはならない。我々だけの経験で沢山である。
250: 1 インパール※補足 2014/07/07(月)21:17 ID:5dCRJ5B2a(5/6) AAS
※手記は以上で終わりです。

以下は、タイ国国境付近のアナクインに至るまでの年表です。

昭和20年6月15日 泰緬鉄道によりアナクイン到着。宿舎建設と病院開設。

昭和20年6月15日 竹の家と筍の食事。マラリア、脚気、下痢患者多発。現在地死守の命、刺突爆雷訓練。(※戦車への特攻)

昭和20年8月15日 終戦。
省11
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(1): 2014/07/07(月)21:47 ID:gHmHKtDDk(1) AAS
長々と書いてくださりありがとうございました
大変面白く拝読させていただきました
252: 1 2014/07/07(月)23:03 ID:5dCRJ5B2a(6/6) AAS
>>251
素直にありがとうございます。
253: 2014/07/08(火)07:52 ID:DBzn3g9VF(1) AAS
いっちさん、お疲れさまでした
254: 1 2014/07/08(火)20:28 ID:cexYa6HAH(1) AAS
出来れば皆様の感想を聞きたいです。

3回目を読んだ私は、じいさんはやっぱりお茶目だなーです。
ダイナマイト舐めちゃうとかね〜
255: 2014/07/10(木)22:48 ID:T8ADuy1NE(1/2) AAS
インパールはいろいろと過酷だったとぼんやり聞いていたけど、
こうやってそこに実際にいた人の手記をみる事が出来てよかったです
戦闘以外のリアルな過酷な状況を少し知ることができました
食糧もなく、水もなく、衛生状態も悪く、命を狙われながら、援軍もない行軍が
いかに苦しいものであったか想像しかできませんが
今まで以上に先人たちを敬わずにはいられません
(適切な日本語がわかりません)
256: 2014/07/10(木)23:03 ID:T8ADuy1NE(2/2) AAS
と、自分はインドと南米を旅行したことがあって
シラミ、ダニ、南京虫、蚊には随分苦しめられたので
それを思い出しながらお祖父様の手記に書かれていることを
重ね合わせて読んでいました
げっそりしました、気がふれそうでした。
自分は好きで行った旅行ですが、彼らは誰一人として
行きたくはなかったのだろうと思うと泣けてきました
257: 2014/07/13(日)21:37 ID:SN5T73epO携(1) AAS
>>はっち
ありがとう

当時の過酷な状況下でも任務を遂行した先人を誇りに思って下さい。
かつ、一般人が任務遂行できたことを誇りに思って下さい。
むしろ、知らなかったもしくは知らな今の我々の無知を嘆いて下さい。

現在の東南アジアや欧米の日本の評価一つ取っても、現代社会に於いて日本を過小評価することはないと考えます。
教育や報道の問題が有りつつも、日本が平和な国家を作り上げてきたのは事実なのですから。

日本が本当の意味での大東亜戦争を集結させるのはこれからです!!

泣くのは今日だけ!!
省1
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