野々村元県議の今後を考える7 (992レス)
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218: 03/08(金)20:18 ID:I98pxl9u0(11/14) AAS
 日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて、中国や朝鮮に学び、向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念が抜きがたくあります。
特に戦後、この見方が浸透しました。
隋からも裴世清をはじめ位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきています。
唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきています。その人数がまたすごいのです。
たとえば、天智天皇8(669)年には2000人が来ています。天智天皇10(671)年にも2000人来日、という具合です。
ほかにも、当時新羅は日本に高い関心を抱いていたようで、30数回も来ています。
いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回来ているのです。
遣隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かったのです
では、彼ら(「遣日使」)は何のために日本にやってきたのでしょうか。ほかでもありません。
日本の文化を摂取するために来たのです。経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。8世紀後半になると日本は金も産出するようになり、日本への関心はさらに高くなりました。
文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。
奈良時代、日本も唐もその他の諸国も文化的には対等で、相互に学びあい、物を交流させていたのです。だから、遣隋使や遣唐使と呼ぶのが誤解のもとなのです。正確には交流使というべきだと思います。
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