[過去ログ] 兵庫県議 野々村 政務費不正で泣き乱 (938レス)
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847: 01/25(木)00:39 ID:FIjkZmOB0(1/9) AAS
神武天皇の東征は、高句麗建国に似てます
三足烏は高句麗王室の紋章とも言われてます
西暦668年、高句麗が滅亡し大勢の高句麗人が渡来した様です。
渡来した高句麗人は、数万人とも言われています。
672年、壬申の乱発生
皇弟・大海人皇子(天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反乱を起こし、反乱軍の大海人皇子が勝利するという珍しい内乱です
この時味方したのが、高句麗の移民たちだと言われてます
高松塚古墳やキトラ古墳は、埋葬者が未だ不明ですが、四神獣に北極星という道教の構図で皇帝を表してます
高松塚古墳やキトラ古墳は、日本の古墳として極めて異質ですが、世界遺産である北朝鮮の高句麗古墳群の様式に酷似してます
三種の神器の一つである、八咫鏡は伊勢神宮に収められてます
省14
848: 01/25(木)01:15 ID:FIjkZmOB0(2/9) AAS
殷王朝が、「中華思想」を「国是」とする周王朝に滅ぼされる迄、
中国(殷)はむしろ夫余の「属国」と言った関係でした。
しかし、秦の始皇帝による全中国の統一以後、これらの事実は悉く葬り去られ(これが世に言う所の「焚書抗儒」の一端です)
その後、夫余は一体どうなったのでしょうか? 「夫余」は、朝鮮史に登場する「檀君朝鮮」と同じ国なのですが、王朝交替の中で、「高句麗」と国名を変えます。

実は、夫余にはもう一つの系統があるのです。そのもう一つの系統は朝鮮半島を南下した一派で、「南夫余」と呼ばれていました。
この南夫余は朝鮮半島南部に定着し「百済」を建国したのですが、中には更に南下し対馬海峡を渡って、日本に来た者もいました。
そして、その時、日本に渡った南夫余の王・依羅が、崇神天皇になった共言われているのです。
849: 01/25(木)11:55 ID:FIjkZmOB0(3/9) AAS
夫余の王になぜ「濊王之印」が授与されたのか,だが,夫余が濊から発展してきたという説(白鳥庫吉/三上次男)と,濊や濊貊は夫余・高句麗を含んだ諸族の汎称という説(三品彰英)がある
850: 01/25(木)15:36 ID:FIjkZmOB0(4/9) AAS
三韓の”韓”と戦国の七雄の”韓”はルーツが同じだが、どっちかが起源ということではない
西周の初期に今のペキンのすぐ南(現在の地名では「固安」)に「韓」という都市国家があって、
それが「ふたつの韓」の共通の起源にあたる。(周の武王の弟が侯爵として封建されたもの)
周の成王の時、今のペキンには燕が建国されて入れ替わりに韓侯は山西省の西南(韓原)に国替えになった。
その時に都市国家の市民は移動せず取り残され「韓」を姓として河北省方面に散らばった。
だから後世まで河北省には韓という姓が多かった。
項羽と劉邦の時代に燕王を称した「韓広」なる人物もこの韓氏の一人。
戦国時代の「韓」というのは。
この西周時代の韓は、山西省の西南(韓原)に移転した後、前757/756年には晋に滅ぼされてしまう。
その跡地は、晋の公室のひとり、「萬」なる者に封領として与えられた。
省20
851: 01/25(木)15:43 ID:FIjkZmOB0(5/9) AAS
魏略が拾ってきた伝承では箕準(箕子の子孫)が馬韓に入ってきて王になるわけですが
なぜか子姓でも箕氏でもなく(すでにそこは韓だったから)韓氏を称したということになっています。
(箕子到来伝説には史実性はまったくありません)これは中国系の人々が箕子にこじつけた頃には
すでに「韓」の名は自明で韓の由来を説明できなくなっていたということでしょう。
箕準とされた人物は実はもとから韓氏をなのる中国系の人物で、真番郡廃止後、
一時的にせよ現地をとりまとめて王となったのでしょう。
でなければいくら中国系の人々が有力でも韓が真番にかわって地名になりことは考えにくいし
一方、魏略所載の伝承から箕子伝説をさしひくときわめて整合的であるように考えられます。
「韓」は半島の南半分だけをさす言葉としてはAD44年から。
(魏略所載の説話伝承まで認める場合にはAD21±1年だが、正式には後漢書記載のAD44年から)
省18
852: 01/25(木)18:18 ID:FIjkZmOB0(6/9) AAS
中華思想の基で中国王朝は周辺諸民族を他者化(自他の区別をつけるもの)し、
夷狄(文明化しない野蛮人)、禽獣(獣に等しい存在)と蔑む一方、冊封体制(事大朝貢体制)
によってその世界観を具現化し、また同時に夷狄の教化に当たった。

中国王朝のこうした世界観は周辺諸国では否定的に受け取られることが多く
日本でも聖徳太子の書「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」のように、日本の天皇と中華皇帝を対等に扱う書簡を送ることや、
南北朝期の懐良親王が明の太祖からの朝貢を促す書簡を無礼と見なし、使者を斬り捨てたことに表れるように、中華中心の華夷観を否定し対等外交を志向する向きが強かった。
それに対し朝鮮では中国王朝に従い、積極的に中華文明つまり儒教及びそれに伴う華夷観を受容し、
中華に同化することで自国の格上げを図る道を選択した[注釈 1]。朝鮮は本来の華夷秩序においては夷狄に相当するものであったが、自らを「中国王朝と共に中華を形成する一部(小中華)」と見なそうとしたのである
853: 01/25(木)22:21 ID:FIjkZmOB0(7/9) AAS
ラグビーはラグビー能力を争う大会であり、日本人らしさを争う大会ではないからでは?
純血の日本人の中でも、外見•振る舞い共に日本人らしくない方もいるだろう。日本人であるに間違いないが、一般的な(社会通念の)日本人らしさが求められる大会で負けても仕方ないでは。優劣ではなく、基準の問題
854: 01/25(木)22:43 ID:FIjkZmOB0(8/9) AAS
百済に赴き、天皇の詔書をうけたまわった」と書いている。欽明2年4月に、天皇は百済にいたわけだ。
(そして日本書紀はそれをはっきり書かず、誤魔化しながら、しかしよく考えて読めばわかるように書いている。)
欽明天皇の息子は敏達天皇だが、敏達天皇が即位前(つまり幼少期)に住んでいたのは百済大井宮。
やはりよく考えて読めばわかるように書いている。
(日本書紀では百済王族が倭国に来ることを「人質」と主張している。それゆえ天皇家の皇子が百済にいたと書くことはできない。)

さらに敏達天皇の息子に押坂彦人皇子がいる。(第一回遣隋使の首謀者「アマタリシヒコ」である
押坂彦人皇子は若いころ、王都から遠い「水派宮(みまたのみや)」に居していたとされている。水派宮とはその読み名の通り、任那宮である。
押坂彦人皇子は生没年や事績が記紀に記されていないが、一方で「皇祖大兄」と記されていたり、「バカでかい墓があった」と記されていたり、とにかく莫大な財力があったことがいろいろな記述に残っている。
百済、旧任那地域、倭国の3ヵ国をまたにかけて、かなりビジネスを広げていたのだろう。
生没年が記されていないのは、倭国以外で生まれ、死んだからだろう。当時は外国との情報伝達に、年単位の時間がかかっていた。生没年を特定できないのは仕方ない
855: 01/25(木)22:49 ID:FIjkZmOB0(9/9) AAS
初め百済大井宮(くだらのおおいのみや、大阪府河内長野市太井・奈良県北葛城郡広陵町百済・大阪府富田林市甲田・奈良県桜井市など諸説あり)を皇居とした
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