土佐藩&土佐勤皇党 (329レス)
1-

251: 05/28(火)18:05 ID:v+SC5y6x0(1) AAS
>>249
確かに、お龍さんが正妻になったのは寺田屋事件がきっかけの一つだったというのは興味深いですね。ただ、いくつか気になる点があるので、純粋に知りたいのですが、教えていただけますか?

薩摩藩邸の規定について: 薩摩藩邸では、本当に愛人・妾は一緒に住めなかったのでしょうか?史料などに基づいた具体的な情報があれば教えていただけますか?
幾島さんの訪問と風紀の関係: 幾島さんが京都薩摩藩邸を訪問したことが、お龍さんたちが正妻になる必要性を高めたというのは、どのような根拠に基づいているのでしょうか?
結婚の経緯: 薩摩藩から正妻になるように求められたという説は、どこから出ているのでしょうか?史料や研究論文などがあれば教えていただけますか?

もし、これらの点について詳しく教えていただければ、お龍さんたちの関係や当時の薩摩藩の様子をより深く理解できると思うんです。よろしくお願いします。
252: 05/29(水)00:11 ID:GjesCsVG0(1) AAS
かの小松帯刀すら愛人は自らの私邸にてかこっていたと思います
253: 05/31(金)23:16 ID:SZUC3ORG0(1) AAS
>>249
興味深い説ありがとう
でもおりょうのあの性格なら、寺田屋事件がなくてもグイグイおしまくって正妻に収まってそうな気がするw

龍馬って、安政五年一月に江戸の剣術修業を終えて帰国してから文久二年初頭に武市の使いで長州に行くまでの丸四年、土佐で何をしてたんだろうな
どの本でもそれをすっ飛ばしてるし、家業の手伝いや剣術指導をしていたという記録や証言もない
本当にただぶらぶらしてニートしてたんだろう
一応水戸浪士が土佐を訪ねてきてその時応対したのが龍馬で「老中の名前も知らないぐらい無知だが好人物だ」と言われてる
254: 06/01(土)03:39 ID:MLnwm3+C0(1) AAS
脱藩浪士なんてそんなもんだろ
255: 06/01(土)06:14 ID:4f8Sf3Fc0(1) AAS
桜田門外の変のあとで極めて困難な時期に命がけで土佐に行って
坂本みたいなのがでてきてさぞかし水戸藩士は落胆しただろうなって思う。

なぜか坂本の天真爛漫さや規格外の大物エピソードになってるけど。
256: 06/01(土)07:25 ID:8Z7FeTR30(1) AAS
しかしどっこい脱藩の時点で既に幕府側には竜馬はリストアップされていたのよね
もちろん彼以外に各藩の脱藩者の中での重要人物というか警戒、あわよくば利用価値の有無含めて
257: 06/01(土)21:25 ID:aWSPvD310(1) AAS
武市は理想主義とか言われるが龍馬のが脱藩したり海援隊作ったり理想主義な感じ
薩摩にしろ長州にしろ藩を動かすのが常道だし
龍馬も結局は土佐藩帰属に戻ってる
258
(2): 06/02(日)07:49 ID:zlF2QVyp0(1/2) AAS
龍馬伝でちょっと触れられてたが、武市が開国主義なら吉田東洋はおそらくためらいなく武市を採用してただろう
河田小龍も岩崎弥太郎も下士なのに東洋に引き立てられた人物
決しておーい竜馬とかで描かれたような差別主義者で頭の古いわからずやではない

水戸と土佐の不幸は、外国とのガチンコ戦争を体験しなかったこと
一度でも体験すれば薩摩長州みたいに攘夷の愚を肌身で悟れる
259: 06/02(日)11:24 ID:zlF2QVyp0(2/2) AAS
家茂って創作では大抵いい人に書かれて勝海舟の理解者とされるがそんなわけない
骨の髄までの幕府独裁主義者だし、勝とはそもそも上洛の行き帰りで軍艦を利用した際の艦長だったってだけで家茂にとってはごまんといる幕臣のなかの中堅官僚でしかない
慶応二年の時点では名前すら覚えていたかどうか

慶喜の尽力に対して全然感謝しないし幕臣にとりなすこともしないし、条約勅許では足をひっぱり最後はあてつけがましく四歳児を跡継ぎに指名してしぬ
260: 06/02(日)12:06 ID:B8plkUxN0(1) AAS
>>258
龍馬伝もお〜い竜馬並みの創作だぞ
龍馬伝だと東洋がやたら龍馬を評価してたが、東洋は龍馬なんて知らんだろうし
東洋が武市と対立して斬られたのは、開国論者だからでなく佐幕派だから
土佐藩が京に上洛できなくなると斬られた
開国論自体は当時珍しくも無い
261: 06/03(月)06:36 ID:a4Ntvssq0(1) AAS
佐幕なら斬ってもいいという危険思想きました
開国思想で命とられることはない?
長井雅楽?

容堂ってなんであんなに悪のレッテル貼られてるんだろうな
家臣の仇討ち遂行、テロリストへの断固たる措置、大政奉還建白と軍勢での威圧拒否、小御所会議で慶喜のために弁論
立派な事ばかりやってる
身分の高い者や生き残った者は悪という拙劣な見方はもう脱却すべき
262: 06/03(月)07:31 ID:igI8x6Bd0(1) AAS
寧ろ東洋が存命であれば容堂はそっちがわの凝り固まった方向へいったかもしれん
佐々木高行が後年それなりの人物とは認めてはいたが一方そのやり口人となりについては承服しかねるみたいな感想を漏らした

あの時代の激動にうまく対処できていなければ他の連中にヤラれていた可能性だってあると
263: 06/03(月)08:21 ID:Qwua0eFJ0(1) AAS
竜馬がゆくでは

容堂は下士の坂本竜馬が大政奉還など主張したのが悔しく
後藤が進言したことにした

みたいに描いてた。いや普通に後藤が主張して進言したんだろうって
思ったわw
264: 06/03(月)16:58 ID:ohSa6LIg0(1) AAS
>>258
龍馬伝では武市半平太と吉田東洋の関係は対立的に描かれていましたね。しかし、実際のところ、二人の思想はそれほど単純に二分できるものではなかったという見方もあります。

吉田東洋は確かに開国論者でしたが、同時に尊王攘夷の志士たちとも一定の理解を共有していました。実際、彼は河田小龍や岩崎弥太郎のような下士出身の人材を積極的に登用しており、必ずしも保守的な思想の持ち主だったわけではありません。

むしろ、吉田東洋は土佐藩の近代化と富国強兵を目指しており、そのために開国が必要と考えていたのでしょう。その意味では、武市半平太の攘夷思想とは異なっていたものの、最終的な目標は一致していたのかもしれません。

水戸藩や土佐藩が外国との戦争を経験していなかったことは、確かに彼らの攘夷思想に影響を与えたと考えられます。しかし、それが必ずしも愚かな考えだったとは限りません。むしろ、彼らが理想とした「真の攘夷」を実現するためには、外国との交渉や外交を通じて国際社会における日本の地位を高めることが必要だったのかもしれません。
265: 06/03(月)19:59 ID:tBZjXiiL0(1) AAS
開国論自体は、当時は珍しくも無い
松陰や暴れる前の初期、高杉でも、和親条約の段階では、唱えてたたわけだからね
龍馬物だと龍馬だけ、柔軟に開国論を理解できたみたいにされるが
攘夷派は開国論も理解した上、やはり攘夷が必要という考えだから
龍馬にしても、勝の元で開国論に変わったと創作されてるが、長州の攘夷の戦いを全力応援してるしね
266: 06/03(月)23:29 ID:dOQ/43Xe0(1) AAS
土佐藩って最大のキーパーソンだろ?

味方についた側が勝利する最強の第三勢力
267: 06/04(火)03:16 ID:6HLuqRGe0(1) AAS
土佐藩こそ日本の行く末を決めている最終決定者
268
(2): 06/04(火)12:47 ID:/LLcHE1O0(1) AAS
思えば豊臣の中老格が家康側に取り入り更に土佐一国という云わば幸運みたいなものが幕末にも少しだけ表面化したみたいな感
毛利も領地没収からの生き残りやし島津は島津で敗走からのソレやしね
269: 06/05(水)13:39 ID:l3PJ1YPv0(1) AAS
武市半平太の早すぎる死は、日本の歴史に大きな"What if"を残した。もし彼が処刑されずに長生きしていたら、明治維新後の日本は全く異なる方向へ舵を切っていたかもしれない。

彼の思想と行動力は、土佐藩のみならず、日本全体を揺るがすほどの力を持っていた。尊王攘夷を掲げ、倒幕運動を推進した彼こそ、新しい時代のリーダーとして、明治政府を導くべき人物だったと断言できる。

しかし、運命は残酷にも彼を奪い去ってしまった。慶応元年(1865年)、わずか36歳という若さで獄死した武市半平太。彼の死は、土佐藩にとってのみならず、日本全体にとって大きな損失であった。

もし彼が長生きしていたら、土佐藩は明治政府の中核を担い、より大きな影響力を持っていたことだろう。彼の思想に基づき、より革新的な政治体制が築かれていたかもしれない。

歴史に"What if"はない。しかし、武市半平太の早すぎる死は、私たちに多くのことを考えさせてくれる。
270: 06/05(水)14:21 ID:o34UwCHh0(1) AAS
>>268
気持ち悪いAIもどきキタ
1-
あと 59 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.005s