[過去ログ] ★★★ 在日朝鮮人の歴史 Part4 ★★★ [無断転載禁止]©2ch.net (689レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
13
(1): 2016/05/07(土)23:52 ID:SqE/IQuC0(1/2) AAS
月刊WiLL:2016年2月号
ある編集者のオデッセイ「魔都・上海の街で考えたこと㊳」 堤堯
http://www.fujisan.co.jp/product/1281681159/b/1313631/

 日米間に戦雲が兆してきた1941年4月頃、日米諒解案なるものが双方で交わされた。実はこれ、二人の米人牧師が駐米大使・
野村吉三郎にもたらしたもので、間を繋いだのは駐米の陸軍諜報部大佐・岩畔豪雄だ。
 諒解案の内容は至極穏やかなもので、これを受け取った外相・東郷茂徳は、これなら何とか日米間で話し合いがつくと思案し、
この線で交渉を続けるように野村に指示する。
 実は二人の牧師は米国政府の情報部員で、諒解案はまったくのフェイク(偽造)だった。
 のちに岩畔が書いた手記によれば、野村も岩畔もフェイクと気づいていたが、穏やかな内容の諒解案を示せば日本側に高まる
戦意を和らげ、頭を冷やして交渉を進めることができると考えたとある。にわかには信じがたい話だ。
     (中略)
仮に野村が「良かれと思って」、ニセモノと知りつつ諒解案に固執したとしても、それをニセモノと見抜けず、それをベースに延々と
実りのない交渉を継続した外相・東郷もまた同罪ではないのか。要するにアメリカは戦争準備の時間稼ぎのために、日本を
ニセモノの交渉案でベビーして(あやして)いた。
 東郷は開戦時と終戦時――日本現代史で最も重要な時局に、二度にわたって外相を務めた。当時の日米関係史を読むほどに、
はたして東郷がこの時期、二度の外相に適任だったのか、とつくづく考えてしまう。
 東郷は韓国からの渡来人の末裔で、本名は朴茂徳。東大法学部に進学する折、東郷茂徳と改名した。誠心誠意の人物として
知られるが、あえていうなら朝鮮民族のDNAのせいか、いささか短気なところ、短絡的なところがある。
 たとえば東郷はハル・ノートを突きつけられたとき、「頭の中が真っ白になった」と記し、こんなものを受け入れれば先人らが
積み重ねた努力がすべて無に帰す、こうなれば戦争もやむを得ない……といった意味のことを縷々と記している(『時代の一面』)。
     (中略)
 事実、野にあった幣原はハル・ノートの次第を知り、「これは最後通告ではない。交渉の余地はある」と廟堂に進言している。
吉田茂に至っては、東郷に辞任を勧告した。辞任の次第によっては、開戦に走る東條政権を倒閣できる。対して東郷は「いや、
事ここに至ったのは自分が交渉した結果だ。他の者に開戦の詔書に副書させるのは忍びない」といった意味のことを言って、
吉田の勧告に応じない。
 東條も東條で、ハル・ノートを公にしない。これを公表すれば、事態は変わったかもしれない。
     (中略)
「なぜハル・ノートを公表しないのか」
 と問われた東條は、
「公表すれば、国民はこれを受け入れる。そうすれば、中国戦線で散った十万の英霊に申し訳ない」
 それが東條の答えだ。時の首相も外相も短絡に過ぎる。東郷は終戦時においても、短気を起こした。ポツダム宣言の扱いに憤激
して、外相を辞任すると言い出す。辞任すれば鈴木貫太郎内閣は瓦解し、新たな内閣を組閣しなければならない。その間、ソ連、
支那、イギリスらが攻め寄せる。下手をすれば日本はドイツ、朝鮮のような分断国家になっていた。
 東郷の辞任を押し留めたのは陸相・阿南惟幾だ。
1-
あと 676 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.009s