[過去ログ] 邪馬台国畿内説 Part1006 (1002レス)
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200: 03/27(水)09:44 AAS
モモソが~
201(1): 03/27(水)09:49 AAS
邪馬台国=纏向遺跡
投馬国=妻木晩田遺跡
だろうと思う
投馬国が当てはまりそうな規模の遺跡って他にある?
202: 03/27(水)09:50 AAS
前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国・日田出土)を貰い、266年【魏➡晋】の禅譲により後ろ盾(宗主国)であった魏が消滅したことに衝撃を受けた台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立で世継ぎのいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台」(背振【山】南麓舌状【台】地)→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
203: 03/27(水)09:52 AAS
吉備特殊稀代の箸墓に殉葬なし!
204(2): 03/27(水)09:53 AAS
>>199
神武東征ってそんなビックリする話とは思わないけどな
そもそも戦争したのは大和の国に入る時くらいだし
九州で食いっぱぐれて親戚や知り合い頼って東に移動しながら、最後に大和に着いたってことやろ
飢饉や戦争がしょっちゅうあった古代ならよくある話
205: 03/27(水)09:56 AAS
従来の考古学界にはびこっていた非合理的な近畿至上主義イデオロギーに塗れた畿内自生説は神武東征との整合が全く取れず、合理的根拠なくこれを神話だと切り捨ててきた
しかし柳田、寺澤、久住らと同様に纒向調査の結果急速に近畿説の主流になりつつある北部九州(とりわけ伊都国)から纏向への遷都/移動/強い影響を想定する北條芳隆は、以下のように畿内自生説が説明できなかった神武東征伝承と考古学・歴史学の整合を強く意識する
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/maibun/files/download/information_blocks/d14e0537-8587-4fae-afa9-bfd005f66505/value01/value02
「平原・吉野ヶ里から纒向への日の出暦の移設は、倭人社会が経験した歴史の一断面でした。さらにその記憶は、やがて神武東征譚へと昇華し記紀神話に残されたのだと思います。 奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡で使用された伝統的な日の出暦と指標となった龍王山の峯峰は、そののちの奈良盆地の景観設計を大筋で規定することになりました。しかし2世紀後半に発生した「倭国大乱」を経て卑弥呼が女王に共立された段階になると、初期大和王権は、本拠地である首都を北部九州から奈良盆地の東南部に移設した可能性が高く、それが纒向遺跡の成立です。このとき誕生した大型建物Dは、この王権の中枢的な祭礼拠点であり、そこから平原・三雲暦計を基盤とする時間の支配に乗り出すことを意図したのだろうと推測できます。社会の支配に不可欠な暦の移植ですから、この授受関係は神武東征と矛盾しません。つまり私が導いた暦の問題は、原田大六が1954年に提起した東遷邪馬台国説を支持するものとなりました。」
206: 03/27(水)09:56 AAS
従来の考古学界にはびこっていた非合理的な近畿至上主義イデオロギーに塗れた畿内自生説は神武東征との整合が全く取れず、合理的根拠なくこれを神話だと切り捨ててきた
しかし柳田、寺澤、久住らと同様に纒向調査の結果急速に近畿説の主流になりつつある北部九州(とりわけ伊都国)から纏向への遷都/移動/強い影響を想定する北條芳隆は、以下のように畿内自生説が説明できなかった神武東征伝承と考古学・歴史学の整合を強く意識する
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/maibun/files/download/information_blocks/d14e0537-8587-4fae-afa9-bfd005f66505/value01/value02
「平原・吉野ヶ里から纒向への日の出暦の移設は、倭人社会が経験した歴史の一断面でした。さらにその記憶は、やがて神武東征譚へと昇華し記紀神話に残されたのだと思います。 奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡で使用された伝統的な日の出暦と指標となった龍王山の峯峰は、そののちの奈良盆地の景観設計を大筋で規定することになりました。しかし2世紀後半に発生した「倭国大乱」を経て卑弥呼が女王に共立された段階になると、初期大和王権は、本拠地である首都を北部九州から奈良盆地の東南部に移設した可能性が高く、それが纒向遺跡の成立です。このとき誕生した大型建物Dは、この王権の中枢的な祭礼拠点であり、そこから平原・三雲暦計を基盤とする時間の支配に乗り出すことを意図したのだろうと推測できます。社会の支配に不可欠な暦の移植ですから、この授受関係は神武東征と矛盾しません。つまり私が導いた暦の問題は、原田大六が1954年に提起した東遷邪馬台国説を支持するものとなりました。」
207(1): 03/27(水)10:02 AAS
>>204
考古学的な証拠が一切ないものをあった前提で話し始めたらびっくりするでしょ
208(1): 03/27(水)10:05 AAS
>>207
まだでとらんだけかもしれんし、そもそも移動した考古学的証拠ってそんなにでてこんだろ
アレキサンダー大王の大軍勢とは話が違うんだから
209: 03/27(水)10:06 AAS
考古学者の久住猛雄もヤマト王権の成立に対する伊都国の深い関与を想定する
以下、久住のXへのポスト
「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」
210(1): 03/27(水)10:07 AAS
戦争しながら東に移動したならまだいろいろ出てくるかもわからんが、そうじゃないからな
211(1): 03/27(水)10:08 AAS
邪馬台国は○○にあったはず!とかではなく
○○遺跡が邪馬台国だと思う。という言い方をしてほしいよね
宇佐神宮が!とか九州に!とかではなく遺跡名を挙げてくれないと土俵にすら上がれてない事に気づいてほしい
212: 03/27(水)10:09 AAS
考古学的根拠なく、自らの妄信する近畿至上主義イデオロギーに合わないという理由だけで神武東征を否定する旧来型畿内説=畿内自生説の信者
213(2): 03/27(水)10:09 AAS
>>208
であれば出たら言ってくれよ
214(1): 03/27(水)10:11 AAS
>>213
>>210に書いた通りで普通に考えたら何も出ない
215(1): 03/27(水)10:14 AAS
>>213
そもそも東征といっても600キロほど移動しただけやぞ?そんなもんビックリするような話か?
216(3): 03/27(水)10:17 AAS
>>214
証拠がないものをどれだけ熱弁しても通説、定説にはなり得ないでしょ
フィクションを議論に組み込んだらその時点で話す価値がなくなるでしょ
217: 03/27(水)10:19 AAS
>>215
可能かどうかではなく証拠がないものは別けて考えないといけないでしょう
218(1): 03/27(水)10:19 AAS
>>216
普通なら何も出てきそうにもないものを証拠がないと言って切り捨てるのはどうかと思うが
嘘だとするなら、なぜそのような嘘をついたのかも同時に言わないと
219(1): 03/27(水)10:32 AAS
>>216
それでいくなら邪馬臺国も卑弥呼も証拠が全くない
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