【新田楠木】後南朝スレ4【西陣南帝】 (258レス)
1-

46: 06/05(水)12:42 AAS
後醍醐天皇(建武政権)は、自ら武家社会を統括するならば、鎌倉幕府が認定した土地所有関係を継承した上で、倒幕に功績のあった者に新たに恩給を与えるべきであった。武家社会運営の難しさと複雑さを理解しないまま、公武合体政権を軽々につくり上げてしまったのではないだろうか。源頼朝や執権北条氏がどれほど苦労したかを理解していれば、このような軽率な行動は取らなかったはずである。
47: 06/11(火)08:51 AAS
後醍醐天皇の突出した個性が、その後の長い混乱の一因となった可能性はあるな
48: 06/18(火)23:01 AAS
結局、後南朝って何をしたかったんですかね…?
49: 06/21(金)01:02 AAS
楠木正成、忠臣として歴史にその名を刻む

江戸時代、儒学の影響を受け南朝正統論が興隆。楠木正成は忠臣の象徴として再評価される
長らく議論が続いてきた「南北朝正閏論」。どちらの朝廷を正統とするのか、意見が対立していました。しかし、江戸時代になると儒学の影響を受け、南朝正統論が盛んになります。そして、後醍醐天皇のために命を懸けた楠木正成は、忠臣の代表として再評価されることとなったのです。

各地で楠木正成への祭祀が実施され、尊王思想の広まりにも影響
この再評価は大きな影響を与えました。各地の藩では楠木正成を祀る祭祀が実施され、尊王思想が盛んになり、後の明治維新へと繋がっていくのです。(春山明哲「靖国神社とはなにか -資料研究の視座からの序論-」『国立国会図書館月刊誌レファレンス』666号、2006年7月)

水戸黄門こと徳川光圀、湊川神社に墓碑を建立
この動きの中で、重要な役割を果たしたのが、水戸黄門として知られる徳川光圀です。南朝正統論を唱え、『大日本史』を編纂した光圀は、楠木正成を深く敬い、1692年に湊川神社に墓碑を建立しました。その後も墓域は整備され、楠木正成は忠臣の象徴として人々の崇敬を集める存在となっていくのです。
50: 06/21(金)01:08 AAS
南北朝正閏論:歴史学者による解説

はじめに
本書『日本歴史解禁』から、第4編「建武中興と南北朝」第10章「南北朝正閏の論」を取り上げ、現代の言葉でわかりやすく解説します。

南北朝正閏論とは何か
南北朝正閏論とは、14世紀に起きた南北朝時代に、どちらの朝廷が正統な天皇家なのかを巡る議論です。

北畠親房の神器論
南朝側の論客である北畠親房は、『神皇正統記』を著し、神器の所在こそが皇位の正統性を示すと主張しました。しかし、その論理は学問的には根拠が弱く、インチキであると批判されています。

武力と理論の戦い
武力面では南朝が優勢でしたが、理論面では北朝が劣勢でした。神器論は北朝にとって不利な論点であり、皇位継承問題についても明確な論理を打ち出せませんでした。
省8
51
(1): 06/21(金)02:12 AAS
こんな場末までAI荒らしかよ。
52
(1): 警備員[Lv.34] 06/22(土)11:37 AAS
南朝を正統としたのは日本の歴史の汚点だね
北朝正統でよかった
53: 06/23(日)00:21 AAS
南朝の復活希望
54: 06/29(土)13:58 AAS
南北朝時代における南朝の姿を鮮やかに映し出す鏡として、『新葉和歌集』は貴重な史料として注目されています。勅撰和歌集とは異なり、南朝皇室や公家を中心とした歌人たちの歌を収録しており、戦乱の世を生き抜いた人々の心情や思想、文化を直接窺い知ることができます。

和歌の内容からは、南朝独自の政治組織や制度、地方との関係性を読み解くことも可能です。例えば、後村上天皇や宗良親王らの歌には、南朝朝廷の運営や理念に関するものが多く見られます。また、各地の守護や豪族との交流を詠んだ歌からは、南朝と地方との複雑な関係性が浮かび上がってきます。
55: 06/29(土)20:22 AAS
>>51
あちこちでAI、AIって書き込みすんなボケ
お前がやってるのは立派な荒らしだぞ
56
(1): 07/01(月)20:35 AAS
14世紀、日本史に深い爪痕を残した南北朝時代。しかし、南朝の実態は謎に包まれてきた。室町幕府に対して劣勢に立たされながらも、吉野山中に長きにわたり存続できた理由は何か。
57: 07/02(火)10:11 AAS
尊氏が南朝をほろぼす気がなかった+足利家の内紛を利用できた
南朝にとって尊氏は逆賊どころか、恩人だよ
58: 07/04(木)20:18 AAS
後醍醐の子孫でいいなら、後村上の兄たちの子孫がいてもおかしくはないな
59: 07/07(日)20:19 AAS
全然下がらんな
食欲ないから分からないけど
60: 07/07(日)23:42 AAS
古来より皇位の象徴とされてきた三種の神器。しかし、近年その所在に関する驚くべき事実が明らかになった。なんと、三種の神器だけでなく、皇室ゆかりの秘仏である二間本尊までもが、南北朝時代において南朝に持ち去られていたというのだ。

この衝撃的な発見は、従来の北朝こそが正統な皇統という歴史認識を覆す可能性を秘めている。一体なぜ、南朝はこれほど重要な宝物を持ち去ることができたのか? そして、それは何を意味するのか?

まず、当時の情勢を振り返ってみよう。鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が開始された。しかし、足利尊氏の反乱によって朝廷は瓦解し、北朝と南朝に分裂する。

一般的には、北朝が正統とされ、南朝は朝敵とみなされてきた。しかし、近年発掘された文書や考古資料から、南朝が想像以上に勢力を誇っていたことが明らかになっている。

そして今回、新たに判明した三種の神器と二間本尊の所在は、南朝が正統な皇統であることを示唆する重要な証拠となる。なぜなら、これらの宝物は本来、北朝が所持するはずだったからだ。
61: 07/08(月)01:40 AAS
後亀山法皇の京都帰還以降の応永末期に即して言うと,幕府にとってはやはり将軍に対して自立心の強い鎌倉府の主・鎌倉公方の支配下にある関東が,最大の要注意地帯だった
62: 07/10(水)17:41 AAS
「一味散々(1333年)、建武の新政」。元弘3年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し天皇親政を行いました。しかし政治は混乱、ついには国内が2つに分裂する南北朝時代へ突入します。南朝の後醍醐天皇が吉野に潜んだことから、奈良県南部は南朝史がいまも息づいている地。
63
(1): 07/10(水)17:42 AAS
南朝の拠点として知られる奈良県の笠置山は、千早城とともに南朝史を語る上で欠かせない存在です。南朝方の拠点となった吉野からほど近い南都は、南朝の文化や政治の中心地として栄えました。一方、四條畷の戦いは、南朝方の楠木正成が北朝方の圧倒的な兵力に対して奮戦した戦いとして知られています。これらの史跡を巡ることで、南北朝時代の激動の時代を肌で感じることができます。
64: 07/10(水)17:55 AAS
吉野は、南朝朝廷にとって単なる避難場所ではありませんでした。吉野の地の特性を活かし、積極的に戦略を展開することで、南朝朝廷は存続することができたのです。また、吉野での経験は、南朝の人々に強い精神力と文化的な感性を育みました。
65: 07/10(水)17:58 AAS
鎌倉幕府の権威が揺らぎ、戦乱の世を迎えた南北朝時代。そんな激動の時代に現れたのが、型破りな振る舞いをした武将たちでした。彼らは「婆娑羅(ばさら)」と呼ばれ、その奇抜なファッションや自由奔放な生き様で当時の常識を覆しました。

『太平記』には、そんなバサラ武将たちの活躍が鮮やかに描かれています。特に有名なのが、佐々木道誉(ささきどうよ)です。派手な衣装を身にまとい、豪快な性格で知られた彼は、まさにバサラ大名の代表格と言えるでしょう。

他にも、赤松円心(あかまつえんしん)や新田義貞(にったよしさだ)など、個性豊かなバサラ武将たちが登場します。彼らは従来の秩序に縛られることなく、自らの信条を貫き戦い抜きました。

『太平記』バサラぶりの時代は、まさに英雄たちの時代と言えるでしょう。彼らの生き様は、現代人にも勇気と希望を与えてくれます。
1-
あと 193 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.008s