多利思比孤は任那人だった! (319レス)
1-

88: 05/19(日)05:32 AAS
>>84 >>71 〜 > >68
出典元を付記してもらえると正誤探索にありがたいのだが
原典は『新姓氏録』でよいのかな?
89: 05/19(日)10:05 AAS
です
新撰姓氏録
90: 05/19(日)13:41 AAS
>>84
都怒我阿羅斯等は敦賀市氣比神宮の境内社角鹿神社の御祭神だが
日本海沿海の久麻加夫都阿良加志比古神社(七尾市)の御祭神でもある。
神吾田津姫を祀る阿良須神社 (福知山市)も社地名と古伝から実の御祭神は
亦の名を阿利叱智干岐>>84とする都怒我阿羅斯等ではないか?
91
(1): 05/25(土)08:28 AAS
任されたってえかその場合だと勝手に宣伝してるだけだな
92
(3): 05/25(土)23:54 AAS
>>1
この文章、なんか変じゃない?

まず、「継体天皇、上多利(オコシタリ)、下多利(アロシタリ)を含む任那四県を百済に割譲」ってあるけど、これって本当なの?確かに『日本書紀』にはそう書いてあるんだけど、最近の歴史学の研究では、この記述は事実ではないって説が有力なんだよね。

そもそも、任那四県って場所自体がどこだったのか、実はよくわかっていないんだ。もしかしたら、多利という地名も、実際には存在しなかったかもしれないんだよ。

それに、多利思比孤って名前も、ちょっと怪しいよね。百済の官職名としては確かに存在するんだけど、任那の統治を任された皇族出身の地方官なんて、聞いたことないんだよ。

そして、第一回遣隋使が「倭国中央に無断で派遣された任那倭人による使節」ってのも、ちょっと考えにくい話だよね。だって、任那って、そもそも倭国の一部だったはずなのに、なぜわざわざ無断で遣隋使を派遣する必要があったんだろう?
省1
93
(1): 06/02(日)15:00 AAS
>>2 >>92
『隋書』倭国伝記事に拠れば倭王の派遣した第一回遣隋使>>92がAD600年に来朝して
伝えたのは「倭王姓阿毎、字多利思比孤、号阿輩鶏弥・・・」
3句目「阿輩鶏弥ト号ス」は大王(オホキミ)がアハケミと隋人に聞こえたか?
謁見席上で問われた使者が以下を奏上。
「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天が未だ明けざる時に出でて
政を聴き、跏趺して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねむ」
「兄」と言ったのは任那側の王などでなく「天」なんだが?
遣隋使の書簡>>2って何国の誰が何国の誰宛てに送った書簡のことで出典は何なんだよ?
94: 06/05(水)00:03 AAS
天て夜空(星座)?
95: 06/05(水)00:21 AAS
地図もGPSもない時代だと昼間より夜の方が正確に海上移動できた?
96: 06/05(水)08:37 AAS
日出ずる前の倭王
97: 06/05(水)10:43 AAS
星を見(聴き)てまつりごとを行うのが鬼道?
98: q 06/05(水)18:42 AAS
https://dec.2chan.net/up/src/f138079.png
99: 06/05(水)19:54 AAS
一晩中天体観測してるのは今年の大河の安倍晴明
陰陽道だね
100: 06/05(水)21:56 AAS
生成AI丸出し。
などと容易に看破できるんだからAIもまだまだ未発達だな
101: 06/06(木)19:26 AAS
>>93
AIのトンデモ文をまたAIに纏めさせたか。
トンデモ度が増幅しているな。
暇潰しの遊びとしてはアリかもしれないが。
102
(2): 06/10(月)07:18 AAS
>>92
>任那四県って場所自体が・・・よくわかっていないんだ・・・多利という地名も、
>実際には存在しなかったかもしれない・・・・・
『紀』に記された任那四県上/下哆唎が存在しなかったというのは誰の説で理由は何?
任那四県の所在地は百済に近い弁韓(現在の慶尚南道か全羅南道)の地だよ。
上/下多利>>1という用字が何処からの引用なのか不記載だが継体天皇『紀』512年
任那四県「上哆唎(オコシタリ)・下哆唎(オロシタリ)・娑陀(サダ)・牟婁(ムロ)」と続く
513年己汶(コモン)・滞沙(タサ)の6邑の百済領化は南下高句麗に押された百済の伽耶侵食の
事実を伝えている記事だろうね
103: 06/12(水)10:04 AAS
>>102
お、これがAIかぁ。よく出来てるね。
駄文がずらずらと書かれてるだけで、何とも思わん。
104
(1): 06/18(火)14:50 AAS
扶南国は、東南アジア大陸部で最も古く成立した国家とされています。紀元後1世紀末ごろにメコン川下流域に建国された古代国家です。

扶南の語源は諸説ありますが、オーストロアジア語族のモン・クメール系言語で「山」を意味する「プノム」を写したものと考えられています。扶南国は、モン・クメール系の民族が主体だったと考えられています。

3世紀前半には、大月氏(クシャーナ朝)に使者を派遣し、中国の三国時代の呉からは通商使節が来訪していました。

法律用語や官僚機構で使用されていた公用語はサンスクリット語でした。扶南国は、7世紀にクメール王国によって滅ぼされるまで、東南アジアの歴史において重要な役割を果たした古代国家でした。

1942年、フランス人のマレル氏によってオケオ遺跡(オクエオ)が発見されました。この発掘調査によって、扶南国がインド、ローマ帝国、後漢などと交易を行い、繁栄していたことが明らかにされています。
省1
105
(2): 06/27(木)02:47 AAS
>>80
>日本語に助詞シはないからタリ・シ・ヒコでなく・・・・
日本語助詞ノの古語助詞は睫毛(マツゲ)=目+ツ+毛の例のように「ツ」だから
タリ・ツ・ヒコか省略形でタリ・ヒコとされるはず
106
(2): 06/27(木)02:53 AAS
>>105
日本語助詞ノはスサノヲ=須佐(スサ)・ノ・男(ヲ)例にみられるように古くから
使われていたのではないか?
107: 06/27(木)08:57 AAS
>>106
スサノヲの別名「須佐之男命(スサノオノミコト)」における「ノ」は助詞として機能しているように見えます。しかし、この「ノ」が古くから助詞として使われていたと断言するのは難しいです。

まず、「須佐之男命」は神代の名であり、表記が確定したのは奈良時代以降と考えられています。そのため、「ノ」が助詞として使われていた時期を特定することは困難です。

さらに、「須佐之男命」の「ノ」は、単に名詞を繋ぐ接尾辞である可能性もあります。古代日本語では、名詞を並べる際に「之」や「所」を用いることが一般的でした。「須佐之男命」も同様の用法であり、「ノ」は助詞ではなく接尾辞として機能していた可能性があるのです。

もちろん、「ノ」が助詞として用いられていた可能性も否定できません。しかし、現時点では断定的な結論を出すのは難しいと言えます。
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