[過去ログ] 秦氏はどこから来たか 4 (1002レス)
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76: 2020/04/06(月)16:28 AAS
2003年に流行したSARS(SARS-CoV)では、日本人の感染者はゼロでした。

 民族による偏りが大きい事に気づいた台湾の研究チームが調査した結果、
HLA型が HLA-B46、HLA-B54(中国南部、香港、台湾に多い)に感染し、
HLA-B46のみ重症になる事が判明したそうです。

 SARS(SARS-CoV)で感染するといわれていた、HLA-B46、HLA-B54は、
日本人でも HLA-B46 は全人口の5%、HLA-B54 は7-10%程度いて、

 近畿から九州に多いとの事なので安心というわけではありません。
ただ、もし日本で大流行する事になったとしても
約90%の日本人は重症化しにくい? のかもしれません。
77: 2020/04/06(月)16:36 AAS
>>75
三つ巴のマークは秦氏も好んで使ったものだな

秦氏は神社の鳥居すら三つ巴形に並べた
78: 2020/04/06(月)16:58 AAS
>ともかく、片仮名の「コロナ」の文字が読めて、
>ギリシャ・ラテン語の「王冠・光冠・君主」の意味を知ってる者たちとは??
>彼らが秦・前漢時代に甲骨・篆書文字の意味などを基に隷書漢字を整理して行った。

片仮名のルーツとなる古ヘブライ・アラム文字
http://www.historyjp.com/images/1208_5a.jpg

クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/
79: 2020/04/06(月)17:09 AAS
秦氏と云えば、八幡神社をはじめ色んな神社に関わり
神紋として多くの神社は「三つ巴紋」を使ってる。
秦氏は「三・参・山」の絡みがあり「参まいる」神社にお参りも意味深。
80: 2020/04/06(月)17:29 AAS
クレタ島と云えばミノア文明で牛頭信仰の島で、日本の牛頭天王と関係あるかも。
「牛頭リュトン」 紀元前16世紀のもので、ミノア文明の牡牛信仰に基づいている。

彼らは甕棺墓、S字形の渦巻紋の文化も持ってる。 埴輪文化もある。
http://yuuhis.travel.coocan.jp/queenelizabeth.hp/queen9cretemuseum.htm
81: 2020/04/06(月)17:40 AAS
おまけに、近畿・中国地方に多く分布している、家形陶棺までミノア文明にはある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%A3%BA
82: 2020/04/07(火)22:42 AAS
ギリシャ人はタコがが好きでヨーロッパで珍しい。
83: 2020/04/10(金)21:03 AAS
アレクサンドロス/アレクサンドロスの東方遠征
(現在のウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、アフガニスタン北部)

ギリシャ・マケドニアの王で前334年に東方遠征を開始、
前330年にペルシア帝国を滅ぼして東西に及ぶ大帝国を建設した。
征服した各地にアレクサンドリアを建設、ギリシア人を入植させ、ヘレニズム世界を現出させた。
前323年にバビロンで死去、その後、帝国は後継者たちによって分割された。

バクトリアはアム川上流域、現在のアフガニスタン北部から北西インドを支配した国。
アレクサンドロスの遠征に従って来たギリシア人が建てたヘレニズム諸国の一つ。
前4世紀後半にアレクサンドロス大王は、東方遠征でアム川(現在のアムダリア川)流域を
征服し、バクトリア、ソグディアナにギリシア人を入植させ、支配を行った。
84
(1): 2020/04/10(金)21:05 AAS
秦国は(紀元前778年 - 紀元前206年)からの中国の王朝で
周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて全土を統一、
紀元前206年に滅亡した。 統一から滅亡までの期間を秦朝、秦代と呼ぶ。

>この秦国の中へ、アレクサンドロスの東方遠征軍の子孫たちが
>多数傭兵や官僚、交易商人の形で浸透し、のち王室を簒奪するまでに成ったんだろ。
85: 2020/04/10(金)21:15 AAS
>コチラは海洋民とのつながりが見られる。

古代シリアの五個口の壺 (日本では子持ち土器)

古代シリア・アラム人ハマー遺跡出土とされている
時代は紀元前2世紀巾約18cm、高さ約20cm
https://2.bp.blogspot.com/_eADIlkTl05g/S66bOR1Q1bI/AAAAAAAAAzI/Sz4DL06CZAU/s400/syria.jpg

これと同様の壺が古代南インド・タミール地域の墓から出土したもので
楽器を模した副葬品とされています高さ約40cm
https://1.bp.blogspot.com/_eADIlkTl05g/S66bHpgOBMI/AAAAAAAAAzA/lx3gkxbhfdI/s400/tubo031.jpg
これはインドで今でも使われている楽器です
こちらの方が古代シリアから出土したものと似ていますか・・
省9
86: 2020/04/10(金)21:37 AAS
そして、秦王朝の係累者や支える家来たちが
朝鮮半島南部に辰王国を起こし後の新羅地域に辰韓国を樹立した
彼らは自分たちを「邦」の人と呼び、
ローマ文化を取り入れ金銀やガラス、ヒスイ、などの加工に匠だった。
87: 2020/04/10(金)21:47 AAS
>ハイテク集団、秦氏が残した数々の遺物。

ローマ文化王国−新羅
https://lh3.googleusercontent.com/proxy/XJoK8kDuBUa9Uo0juBG9CSPKcjsic7ThwI6Cv5x76EZVcrg5jhlPBUEA2tWOJ7-pYLJHHXQohocfsirP8z4iFjwp0LiswKAt7rNT8Q
https://image.honto.jp/item/2/360/0256/2216/02562216_1.png
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/017/787/58/N000/000/002/139108501934625655226_sira07.jpg
https://lh3.googleusercontent.com/proxy/UhH-5lw5x_lw0g5QE5ZSyPa_kjOdyG0NHxLmJuWQGPsJXZZ1T35De-tOxIB-bZMyBbS8-2xep8MB-Wp-R60kHhc
88: 2020/04/10(金)22:01 AAS
>この平安時代の大鎧とアレキサンドロス大王の甲冑が良く似てるのが不思議。

アレキサンダー大王
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/4d/74b33a8c326386fb10617f0bf2557d03.jpg
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/61093HLYu4L._AC_SY400_.jpg

平安時代の大鎧
https://stat.ameba.jp/user_images/20151012/01/seii-taishougun1083/25/56/j/o0600052613451230746.jpg
89: 2020/04/11(土)08:32 AAS
>>84
アフガニスタンからでもどんだけ咸陽から離れてるか分かってんのかエテ公?
90: 2020/04/11(土)15:46 AAS
中国甘粛省 者来塞村 ―古代ローマ人の末裔たち―

紀元前53年、強大な古代ローマから4万人の兵が、クラッスス統帥に率いられ出征し、
パルティア国(現在のイラン)にて広大な土地と大量の金銀財宝を略奪した。
しかしながら一年後、敵に包囲されて、惨敗し、生き残った部隊は、アルバニアへ向けて退却した。
だが、またしても彼らは不意をつかれ、ペルシャ軍に囲まれてしまった。
激戦を経て、クラッススの長男が指揮する第一師団6000人が幸いにも壊滅状況から逃れた。

数年後、ローマ帝国とパルティア国は和議の条約を結び、互いに捕虜の返還を始めた。
捕虜返還が終わったのち、ローマの人々はひどく失望することになる。
当時、敵の包囲を突破した第一個師団が、影一つ残さずして、消え去っていたからだ。

第一師団の消失は、ローマ史上、懸案事項として、千数百年来、
省1
91: 2020/04/11(土)15:51 AAS
歴史学者・関意権は、研究を進めるうち、中国において、この懸案事項についての
新たな歴史的解釈を発見した。
2000年前、敵の包囲を突破したローマ帝国第一師団の数千名が、前漢軍の捕虜となり、
中国西部へ送られたというのである。

中国の歴史書(漢書・陳湯伝)には次のとおり記載されている。
紀元前36年、漢西域、最高長官である甘延寿と、副校尉である陳湯が、
4万人の精鋭兵を率いて西域を出発し、匈奴を討伐した。
この出征中、彼らは匈奴軍の配下に、きわめて奇異な傭兵部隊がいるのを見た。
ある歴史学者は、そのとき陳湯が見た傭兵部隊は、
かつて匈奴に降伏したローマ軍であると考えている。
省2
92: 2020/04/11(土)16:00 AAS
歴史書には、甘延寿と陳湯はローマ人を捕虜として中国へ連れて行き、定住させた、とある。
そして漢政府は、特別な県を設置した。それが、すなわちリチェン県である。
また同時にリチェンの町を整えた。リチェンというローマ国を指す言葉を県名とした理由は、
一つしかない。 そこにローマ人を定住させたからである。

古代リチェンの遺跡さえ見つかれば、リチェンとローマ人の関係が紐解ける。

20世紀80年代、関意権は蘭州を出発し、河西回廊をに沿って西へ、
歴史書に書かれていた甘延寿の軍隊が通った道を進み、
ローマ人が定住した形跡について実地調査した。

1996年、蘭州大学歴史学部教授、陳正義の協力のもと、関意権と彼の長男、関亨は、
大量の地方歴史書を調べ、50万字の研究文書を整理し、
省1
93: 2020/04/11(土)16:03 AAS
親子は、甘延寿がローマ人捕虜たちを定住させた地が、
今日の甘粛省永昌県であることを、突き止めた。
甘粛省永昌県者来塞こそ、関親子が長年探し求めていた、古代リチェンの町であると、
ローマ人捕虜たちが定住した地であると、出土する文物の一つ一つから証明された。

者来塞の村民たちは、中国語を話し、漢族に属するとされているが、
400名のうち、200名がヨーロッパ人のような顔だちをしている。
先ごろ、中国科学院古人類研究所の研究員が、者来塞の村民300名に対して
DNA分析を行ったところ、この村の人々は確実にヨーロッパ人の血を引くことがわかった。

(人民日報海外版、2002年1月25日より)
94: 2020/04/11(土)16:11 AAS
者来塞村に住む古代ローマ人の末裔

甘粛省永昌県の県境にある「者来塞」という村は、もともと異国情緒をおびた
古代の砦であった。20世紀に入り、砦はしだいに残骸と化していった。
しかし、どのような変遷を遂げようとも、者来塞の人々は、彼ら固有の民族習慣を保ち続けた。
ヨーロッパ人が作るピザに似たパンを食べ、牛への伝統的な崇拝を続け、
祝日には牛の頭に似せた供え物を作り、手に赤い布を翻し闘牛の祭りを催してきた。

村人たちの中には、代々、ヨーロッパ人に非常によく似た容貌を持つ者がいる。
背が高く頑丈な体つき、高い鼻、深い窪みのある目、褐色でウェーブがかった髪、
比較的長い体毛、赤みを帯びた肌をしている。
95: 2020/04/11(土)16:29 AAS
漢王朝以前の古代中国山東省、黄河下流には、白人の国が存在していた?!

現在の漢民族は唐時代に民族の基礎が形成されており、
現在のイタリア人と古代ローマ民族以上に別物といわれています。

古代漢族は、現在の中国と違った文化をもつ謎の多い民族です。
そんな漢民族ですが、最近の近代的な考古学的手法の発達により、
遺骨やミイラのDNA分析の結果が断片的に報告されるようになってきました。
2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、
中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、

約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある
春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得た
省5
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