[過去ログ] (田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島) 其のニ (1002レス)
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(1): 2019/07/20(土)10:45 AAS
資料の多い九州
邪馬台国卑弥呼や倭人について語ろう

☆前スレ
 (田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
 2chスレ:history

推奨NGワード… 「阿波」「忌部」
2: 2019/07/20(土)11:19 AAS
「萩原2号墓:弥生末期の三重構造埋葬施設を確認」  徳島   @阿波

全国で珍しい「積石木槨」構造が確認された萩原2号墓=徳島県鳴門市大麻町萩原
徳島県鳴門市大麻町萩原の萩原2号墓で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
14日発表した県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。
墳丘は直径20メートルの円丘に、方形の突出部が付いた形態。円丘の中心に棺を納め、15〜20センチの砂岩を積み重ねた壁で囲ったうえ、
その外側に40〜60センチの砂岩を積んで、全体を覆っていた。
埋葬施設は東西6.5メートル、南北4.1メートル。朱を内側に塗った木槨を、砂岩を積み上げた壁2層で覆った構造だったとみられる。
一方、ホケノ山古墳には中間に石の壁はなく、木槨を石で囲う二重構造。
省4
3
(2): 2019/07/20(土)12:49 AAS
中国朱が検出された萩原墳墓群・天河別神社古墳群のある地域を支配していた有力者は

当時、魏と交流していたことが窺える。

その、魏の水銀朱が使われた萩原古墳群から出土の画文帯神獣鏡

同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群から出土の斜縁二神二獣鏡

魏から下賜された鏡は、この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかの可能性が高い。   @阿波 
4: 2019/07/20(土)13:49 AAS
>>3

?製鏡 三角縁神獣鏡は、この斜縁神獣鏡をお手本として、?製したものだろう。   @阿波
5: 2019/07/20(土)13:54 AAS
>>3

仿製鏡 三角縁神獣鏡は、この斜縁神獣鏡をお手本として、仿製したものだろう。   @阿波
6
(1): 東京 2019/07/20(土)18:01 AAS
>>1どこのどなたか判りませんが
スレを立てていただき、ありがとうございます

阿波氏が来ようとも受けてたつ所存でございます
7
(2): 2019/07/20(土)18:14 AAS
前スレより
965: 06/14(金)17:41 AAS
宇治の平等院
もともとは、太宰府の宇治川の近くにあった
966: 06/14(金)19:46 AAS
奈良大仏の土台には
宇佐の小椋山にあった阿弥陀如来の大仏が隠されている
大仏の銅は田川の銅山から供給して大仏を作った
967: 06/14(金)22:43 AAS
なんとなく小倉百人一首を見てみた
省6
8
(1): 2019/07/20(土)18:29 AAS
>>6
>阿波氏が来ようとも受けてたつ所存でございます

いい心がけだと思います。  受けないとか言ってたようだが?   @阿波
9: 2019/07/20(土)18:50 AAS
>>8私個人としては
阿波さんは博識だし参考になるかもと思って
ちゃんと読んでますよ
10: 2019/07/20(土)18:51 AAS
前スレから
982: 07/15(月)05:51 AAS
紀元前の書物「周礼」より
司こう氏は、夫遂を用いて日から明火をとり、
鑑を用いて月から明水をとることを掌る
と書いてある

古代中国では、凹面鏡を夫遂、凸面鏡を鑑(水鏡)と区別していた

オリンピックの聖火をギリシアで白い服装の女性が火をおこすでしょ
あの火をおこすのは凹面鏡、円周8尺位あるかなあ

もしかしたらもしかして
省4
11: 2019/07/20(土)18:52 AAS
読むだけじゃなく、どんどん、議論を深めましょう。   @阿波
12
(2): 2019/07/20(土)19:27 AAS
前スレから
124(1): 2018/11/09(金)23:58 AAS
香春宮の田油津姫は、景行天皇と共闘していた筑紫の梟師すなわち倭王である神夏磯姫の末裔と伝えられています。
神夏磯姫は年代的には壹與(肥前一宮河上神社の淀姫)の直後の倭国(邪馬台国)の女王です。
景行天皇の九州上陸の際に、八咫の鏡を含む三種の神器を掲げて神威を示しました。
田油津姫も、倭国の王の一人であったと考えられます。
当時の倭国(九州北部)には、高良玉垂宮、香椎宮、穴門豊浦宮、岡田宮、箱崎宮など、多くの宮があり、それぞれに宮様、つまり王族がいたのでしょう。
13: 2019/07/20(土)19:43 AAS
>>12
>香春宮の田油津姫は、景行天皇と共闘していた筑紫の

この「筑紫」は、けっして「筑紫国」ではないので、勘違いしないように!  勝手に「筑紫国」と読み違えないように!  とんでも九州説さん。   @阿波
14: 2019/07/20(土)19:48 AAS
>>12
>当時の倭国(九州北部)には、高良玉垂宮、香椎宮、穴門豊浦宮、岡田宮、箱崎宮など、多くの宮があり、それぞれに宮様、つまり王族がいたのでしょう。

九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

分かりやすいのが、明治天皇以前には、九州行幸が一切無いこと。

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。  @阿波
15
(2): 2019/07/20(土)20:19 AAS
>>7
>柿本人麿、彼は古代の邪馬台国や倭国について知っているんだろうなあ
>安倍仲麿、春日に三笠とか興味深い地名の歌を読んでいる
>小倉百人一首に何かのヒントないかなあ

畿内政権が全国の支配圏を確立したのが701年の大宝律令だとすれば、660年頃の生まれの柿本人麿は、倭国が存在していた頃に生まれていて、壮年期に政権交代を経験したことになる。
16
(2): 2019/07/20(土)20:23 AAS
万葉集の冒頭歌(巻1・1)は泊瀬朝倉宮の大泊瀬稚武天皇の歌である「籠もよみ籠持ち(中略)山跡の国はおしなべて我こそ居れしきなべて我こそ座せ」である。
「そこを行くかわいいお嬢さん、どちらの家の方ですか。私こそがヤマトの王であり、この国のすべては私のものなのです(だからあなたも私のものなのです)」と解釈されている。
一般的には泊瀬朝倉宮を奈良県桜井市に、大泊瀬稚武天皇を雄略天皇(第21代)に比定するが、朝倉といえば筑後川流域の福岡県の地名でもあり、太宰府や高良宮にも近い筑紫倭国の中心地である。
後の斉明天皇(第37代)の朝倉橘広庭宮はきちんと福岡県朝倉市に比定されている。
17
(1): 2019/07/20(土)20:29 AAS
>>15

723年 稗田阿礼・粟凡直・柿本人麻呂・太 安万侶 同年に没  暗殺か?   そういう説がある。   @阿波
18
(1): 2019/07/20(土)20:33 AAS
>>16
>後の斉明天皇(第37代)の朝倉橘広庭宮はきちんと福岡県朝倉市に比定されている。

九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。  @阿波
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(1): 2019/07/20(土)20:36 AAS
九州と近畿で地名の多くが重複していることはよく知られているが、万葉集においてはこれを区別する指標として、「天の」という枕詞が使われる。
これは、古事記の国生み神話において「天の」とつく島が倭国の最初の領土を示していると考えられたことと共通し、「天国」と言えば筑紫近辺のことというのが奈良時代における共通の認識だったのだろう。
例えば、単に「香具山」では九州か近畿かわからないが、「天の香具山」であれば九州の香具山になるのである。
日本書紀によれば天岩戸事件の際に一書に曰く「天香山の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ」とあり、天香山は鉱山でなければならない。
九州の中での比定地には諸説があり、香春三山や鶴見岳が比定されており、いずれも銅を産出する鉱山である。
20: 2019/07/20(土)20:41 AAS
>>19
後付けの地名より、

分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。  @阿波
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