[過去ログ] 邪馬台国畿内説 箸休め (418レス)
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1: パクリ1 ◆zDcsAEpKdA 2018/10/31(水)17:42 AAS
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
2: パクリ1 ◆.KFUQZuDEI 2018/10/31(水)17:44 AAS
◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
3: パクリ1 ◆.KFUQZuDEI 2018/10/31(水)17:45 AAS
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
4: ぱくり1 ◆.KFUQZuDEI 2018/10/31(水)17:48 AAS
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

キナイコシのくだらんテンプレができるまでの箸休めです

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 キナイコシは夜中に論破済みの新スレ立てるでしょう 
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
5: パクリ1 ◆.KFUQZuDEI 2018/10/31(水)17:51 AAS
追記
なおここでのカキコミは
できる限りキナイコシの新スレに張り付けさせていただきます
6
(3): 2018/10/31(水)17:59 AAS
箸墓は卑弥呼の冢に前方部が付けたされたのではなく、丸ごとすっぽり覆い尽くす形で、上から(当時流行りの)前方後円墳(台与の墓)として造られたものである。
つまり、後円部にトレンチを入れて発掘調査すれば、その中からマトリョーシカ人形のように卑弥呼の冢(金印「親魏倭王」と殉葬者奴婢百余人)が出てくるのである。
7: 2018/10/31(水)18:00 AAS
箸墓から埴輪が出土してるな

埴輪は、3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅した

埴輪の起源は、弥生時代後期後葉の吉備地方の首長の墓であると考えられている弥生墳丘墓(例えば、楯築墳丘墓)から出土する特殊器台・特殊壺(特殊器台型土器・特殊壺型土器とも呼称される)であるといわれている。

箸墓からも宮山型特殊器台・特殊壺が出土されている
8: 2018/10/31(水)18:03 AAS
>>6
希望的観測は根拠とならない
9: 2018/10/31(水)18:06 AAS
>>92
>大和弥生社会の展開とその特質 寺沢薫 (纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。<

この「新生倭国の誕生」という文言は、
邪馬台国畿内説 Part392の>>996で、
これは寺澤氏の論文の一部をコピーして、ここに転載したものということか。
とすると、UiepmfCeDjqf氏がテンプレの中で使っていた「新生倭国の誕生」と、この寺澤氏の論文コピーの(「新生倭国」の誕生)が一致しているのだから、
UiepmfCeDjqf氏は寺澤氏と同一人物ということになってくるじゃないか。
と指摘されており、
省3
10: 2018/10/31(水)18:10 AAS
2011/2/24付

>奈良県桜井市の国史跡、茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(前方後円墳)を調査中の同市教育委員会は24日、4世紀末の「盾持人(たてもちびと)埴輪(はにわ)」が出土したと発表した。
人をかたどった埴輪では最古という。これまで謎とされてきた人物埴輪の登場の経緯や、埴輪を使った古墳祭祀(さいし)の変遷を解明する重要な手掛かりとなりそうだ。



纒向の埴輪が最古とならないのはなぜか
箸墓は5世紀か
11: 2018/10/31(水)18:10 AAS
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
省1
12
(1): 2018/10/31(水)18:13 AAS
邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある巨大な前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」
(奈良県桜井市)の墳丘部から、吉備地方(現在の岡山県)で主に出土する特殊な土器や、
最古型の埴輪などの破片が三千点以上出土していたことが平成12年5月17日(水)、宮内
庁の調査でわかった。
13: 2018/10/31(水)18:19 AAS
桜井の埋蔵文化財センター
VS
桜井市の纏向学研究センター
14: 2018/10/31(水)18:21 AAS
>>6
何々?箸墓がトヨの墓で、その中にタイムカプセルのように卑弥呼の冢が埋まってるってか???
盗掘を恐れてか?
15
(1): 2018/10/31(水)18:24 AAS
九州から径百歩の塚が見つからない 残念無念
16: 2018/10/31(水)18:40 AAS
>>15

径の古代の意味は
みち。こみち。じゃないだろうか?
17: 2018/10/31(水)18:41 AAS
>>92
>>1里=300歩は、里歩系の中での決まりであるからだ。<

>よくザラコクは魏代には周制に戻したとか言ってるが、
その周代の里步系でも、一步=六尺≒1.35メートルの複歩だよ<

周朝の当初は、一寸千里の法という「尺寸系と里歩系との関係」を示す法が使われたのだから、
それと1歩=300歩に拠って、
1歩≒25.5m(≒1尺)という短歩換算規定であったのだ。

>そして里は約405メートルで田圃の広さじゃないよww
田圃には「田」という別の字があるんだから、里が田の大きさのはずがないだろ?
漢字を分解して意味を捏造する試みは無駄ww <
省9
18: 2018/10/31(水)18:49 AAS
>>6
箸墓(280年〜320年)が台与の墓なら、築造年代が合うな…
でも卑弥呼の冢(248年・直径150m)が(当時の「今風」前方後円墳にするため?盗掘を防ぐため?)その地中に埋まってるなんて説、初めて聞いたw
箸墓以外に、これまで具体的な「卑弥呼の冢」候補はなかったけど、箸墓墳丘の中に埋まってるなら、見つからなかった理由も取り敢えず納得
19: 2018/10/31(水)19:09 AAS
>>94
>澤先生の立論の基礎だよ そして、古墳時代の倭国の中心は大和王権であることが疑いない
そして纒向遺跡の建設開始が3世紀前半初頭なのも確実<

大和弥生社会の展開とその特質 寺沢薫 (纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
省5
20: 2018/10/31(水)19:23 AAS
まとめると、
瀬戸内海の特産品・塩と桃の販売で得た財力で、吉備王家(楯築)が大和王家(唐古鍵)を征服して建てたヤマト王権(魏志倭人伝「邪馬台国」)は、
卑弥呼の代で倭国大乱(大陸では前漢王朝を滅ぼした黄巾の乱)の原因である大飢饉を解決できなかった北部九州の歴代倭王・奴国王家(王なし)をも従えて(ヤマトの備蓄食糧を大量供給)、倭国の盟主に共立され、魏帝から親魏倭王と認められる。
吉備王家(鬼道=呪術)卑弥呼の死後、楯築墳丘墓に似た直径150m円墳(冢)を築いた(248年)。
跡を継いだ吉備王家・台与の死後、卑弥呼の冢(150m円墳)をスッポリ取り込む形で、最初から前方後円墳として設計された現・箸墓を築いた(280年〜320年)。
箸墓の地下に埋められている卑弥呼の冢の比定を巡り、現在の百家争鳴状態に至る。
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