[過去ログ] なぜ古代天皇は100歳を超えるのか [無断転載禁止]©2ch.net (987レス)
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(12): 2016/11/17(木)05:37 AAS
出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。

記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。

白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
ヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢していた…

ものすごくみじめです。
自尊心がズタズタです。

彼らは古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
時代を古く古くすることでごまかしました。
省6
2: 1 2016/11/17(木)05:38 AAS
本文が長くなり過ぎたので

PS

纏向遺跡は「筑紫、吉備、讃岐、播磨の要素(寺沢薫)」ですから、
九州〜瀬戸内勢力をともなってヤマト入りしたニギハヤヒ(物部集団)の遺跡でしょう。
桜井市には物部氏の痕跡が無視できないほど多数存在します。

あんなところに卑弥呼はいません。

邪馬台国とはヒメタタライスズ媛のお住まいになられた奈良県御所市です。
3
(1): 2016/11/17(木)05:41 AAS
何が言いたいのかよくわからない
4: 2016/11/17(木)05:56 AAS
>>3

理解できないのは君の問題なんで知らん
5
(1): 2016/11/17(木)06:03 AAS
弥生時代の硯が発見されたことと、
記紀の編纂者が考えていたであろうことと、
白村江の話と全然関係ない時代の生口の話と、
天皇の年齢が長寿なことと、
卑弥呼の居場所と、

これらに何の関係があるのか、論理的に説明してほしい
私には理解できない
6
(3): 2016/11/17(木)07:13 AAS
>>5
はい、ちょっと本文を端折りすぎました。

硯の発見で2世紀以降の王統譜はおおよそ伝わっていただろう、
それならスサノオの実年も把握してたであろう、
それが師升であることもわかってただろう、
ならばスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代であることも分かり、
記紀編纂者たちは卑弥呼が誰かも分っていただろう

という事です。

纏向遺跡の部分は箸墓が卑弥呼の墓で決まりのような風潮があるので、
それは違うだろうという私の個人的意見です。
7: 2016/11/17(木)07:41 AAS
http://japanhistory.link
8
(1): 2016/11/17(木)12:05 AAS
箸墓の埋葬者が孝霊天皇の皇女でその人物が卑弥呼で
卑弥呼と同時代の天皇が崇神天皇かというとやっぱり
違うのではと思う。孝霊天皇の即位年は「辛未」とされ、
これは崇神天皇が卑弥呼の時代の人物なら191年、
卑弥呼より後の西暦300年頃の人物なら251年
だけど、孝霊は景行天皇の皇后、播磨稲日大郎姫の
祖父とされ(したがって日本武尊はひ孫、仲哀天皇は
玄孫に当たる。播磨稲日大郎姫が景行の曽祖父の従妹
というのは不自然)、日本武尊と年齢が近く景行〜仁徳
の五代に仕えた武内宿禰が孝霊の玄孫であり仁徳天皇の
省8
9: 2016/11/17(木)12:34 AAS
>>8
>倭迹迹日百襲姫命も卑弥呼の死後に誕生した可能性が高い
と思うんだよな。

賛成。

>神武天皇から応神天皇までは父子継承が順調に続いてるので
はなく同世代の天皇がかなり混在してそうなんだよね。
やはり歴史を古くするためなのか。

その通り。
実際には崇神から神武まで6世代。
中臣、物部、三上祝、鴨の相関系図で分かる。
省3
10
(1): 2016/11/17(木)12:43 AAS
命≒屋号乃至王朝で襲名説を採って居たが違うって言われた(´・ω・`)
11: 2016/11/17(木)12:49 AAS
漢字が硯筆より先に出来たって発想からして先ず頭悪いよね

北方の甲骨文字群と南方の象形文字群とが
漢朝辺りから大系として編纂される様になったんで在って
毛筆は既に在ってそのプロセスに於いて木竹簡への記載のし易さから官僚の用いる筆記具の主流になったに過ぎない
12: 2016/11/17(木)14:54 AAS
原の辻遺跡では楽浪の文物とともに出雲土器が見つかっている。
古代出雲人は積極的に楽浪人に接触し文化を吸収したのだろう。
つまり漢字どころか干支まで知っていた可能性がある。
いやそう考えてもよいはずだ。
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(2): 2016/11/18(金)02:06 AAS
>>6
>硯の発見で2世紀以降の王統譜はおおよそ伝わっていただろう、

硯が存在したからといって、なぜ「2世紀以降の王統譜」とやらが存在することになるのか?

>それならスサノオの実年も把握してたであろう、
>それが師升であることもわかってただろう、

師升=スサノオの証明がされていないので、この推測に意味は無い

>ならばスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代であることも分かり、
>記紀編纂者たちは卑弥呼が誰かも分っていただろう
省1
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(2): 2016/11/18(金)02:14 AAS
>>13
では硯で何を書いてたと思うのか?
15
(2): 2016/11/18(金)03:32 AAS
>>14
実際に書かれた文字が出土していないので不明だが、
もちろん何らかの文書であったと推測できる

しかし弥生時代に筆記がなされていた可能性から、
「2世紀以降の王統譜」が存在していたことを推測するのは
飛躍がありすぎる
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(1): 2016/11/18(金)04:53 AAS
>>14
何らかの文書を書けるのなら王統に関して書くだろう。
それがまず一番ではないか。
それ以外にあるというなら、たとえば随筆でも書いてたっていうのか?
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(1): 2016/11/18(金)07:01 AAS
>>16
もし随筆だったら王統譜より興味深いが、残念ながらそれは無いだろう

王統について書き遺すようなレベルの文化であれば、当時なら金石文の形で
実現しようとするのではないか。弥生期にはそれを可能にする技術があった
のではないかと思うが、出土していないので、今のところ王統など無かったか、
興味が無かったのではないかと考える。反証などがあれば指摘して欲しい
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(1): 2016/11/18(金)10:37 AAS
>>17
というか、それなら硯で墨を磨って何を書いてたのか?という質問に戻るわけだが。
5世紀には倭王武の上表分のような優れた漢字文化があったが金石文は日本で出ない。
つまり出ないから「ない」とは言えない。
19: 2016/11/19(土)15:17 AAS
2世紀前半の三重の大城遺跡出土土器に書かれた文字は「奉」または「垂」らしい。
地方都市にまで難しい字が来ていた。
とはいえ、この字は首長のエンブレムのように使われたのかもしれない。
しかしそれであったとしても王統は伝達できる。
20: 2016/11/20(日)20:25 AAS
8世紀の神社の祭神の書き換えが
歴史学的には大ダメージだな。
ほとほとヤマト政権の捏造書き換え
焚書には悩まされる。
それがなくば明治以後の大暴走も
なかっただろう。
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