[過去ログ] 天皇の日本史 (678レス)
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27: 2013/11/18(月)00:00 AAS
聖徳太子は実は天皇で、あの時代は南北朝だった、みたいな説を上げてた人がいたけど意外とつじつまが合ってて面白かった。
隋の史書の記述との一致とか
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(1): 2013/11/18(月)00:04 AAS
あのころの天皇をみると兄弟間の争いが烈しくて、ある天皇がなくなると、
その弟と皇子が皇位を争って弟の方が殺されるというケースが多い。
そういう皇位争いが嵯峨天皇はイヤになっていたということもあるだろうな。
実際、嵯峨天皇は大家族主義で、皇子たちを仲良くさせて自分の在世中は争わせなかった。
そして自分から子供に姓を与えて、さかんに臣籍降下させている。
こんなことも桓武天皇だったらしなかったろうな。
29: 2013/11/18(月)00:20 AAS
臣籍降下というのは、平たく言えば皇族の口減らしでしょ。
いくら天皇家だって、皇族が無制限に増えたらたまらないだろ。
臣下におろされると、たとえ皇族出身でも官職につけることができる。
皇族のままで臣下とおなじ役人になって出勤してくるのはまずいもんな。
天皇の威厳が保てなくなるからな。
戦後はともかく、戦前までは宮家の殿下がサラリーマンになったらおかしいという雰囲気はあったんじゃね。
まあ、それと同じ感覚でしょ。
30: 2013/11/18(月)11:51 AAS
皇室の立場で権力本位に考えてみると、太政大臣とか、
そういう枢要な地位は天皇の次男や三男でガッチリ固めておく方が、
得策だという気がするけどな。
そのほうが天皇家に権力を集中しておけるじゃん。
31: 2013/11/18(月)12:37 AAS
奈良時代のごく初期まではそうだったんだよ。
ところが、平安時代に入ると親王や皇孫が大臣になるのは
おかしいという考えになって、皇子たちは臣籍降下させてから
官職につける、ということになった。
血なまぐさい皇位争いが続くので、これを避けるという意味もあった。
宇多天皇になってからだが、やっぱり自分の息子を源氏におとすんだな。
というのは、自分の息子には藤原氏の血が入っていないので、
もし皇子のままでいて、将来皇位を主張するようになると藤原氏に対して
相すまん、という意味からだ。
これは、宇多天皇が藤原氏のおかげで皇位についた、という経緯が原因しているわけだけどな。
32: 2013/11/18(月)19:24 AAS
臣籍降下と言えば「源氏物語」だな。
ずいぶん思い切ったフィクションだと思うな。
光源氏が天皇の女御と密通してできた子供が天皇になるんだから、
大胆不敵なストーリーだよな。
戦時中よく発禁にならなかったな。
軍部が不勉強だったのかな。
何しろ万世一系を問題にする人にとっては、大へんなことだろ。
33: 2013/11/18(月)19:52 AAS
光源氏も男系の皇統に属する人だからまあ、多少はね?
34: 2013/11/18(月)21:10 AAS
当時、「源氏物語」に似たような話が実際にあったしな。
在原業平は藤原高子と関係があったといわれている。
高子は清和天皇のお后になって、次の陽成天皇を産んでいる。
そうすると高子が業平の子を身籠っていないにもせよ、かなり「源氏」と似た話だよな。
そういえば、業平は平城天皇の孫だったな。
自分は皇族であるにもかかわらず、非常に不幸だという気持ちをいだいて東下りする。
これがそのまま「伊勢物語」になる。
35: 2013/11/18(月)21:28 AAS
臣籍降下された当人は、身の不幸を感じさせられただろうな。
まあ、文学というのは、何か不遇なものがないと生れないし、
だいたい順調に出世した人が、文化的貢献者になれるわけがないよ。
それではあんまり虫がよすぎる。
36: 2013/11/18(月)21:56 AAS
嵯峨天皇時代の代表的な唐風文化といえば、これはもう、空海・最澄だろ。
この二人の天才は、おもしろいほど対照的で、日本における指導者の二つのパターンの原型になっている。
簡単に言えば、最澄は戦闘的でマジメ人間、空海は世渡りのうまいソフトな人間だ。
最澄は法相宗とカンカンガクガクの議論をたたかわせるし、本山の延暦寺は比叡山に置いて、きびしい修行をするわけだ。
一方、空海の真言宗は政治的な動きをする。
わざわざ京都から遠く離れた高野山に道場をかまえながら、実際には高雄の神護寺を足場に宮廷社会の中に着々と地歩を築く。
37: 2013/11/19(火)00:02 AAS
たしかに対照的な二人だが、これは性格的な違いより、天台と真言、
つまり、戦闘的な法華経と宇宙包容主義の大日経とのちがいじゃね。
まあ、禅宗でいうと、道元と栄西だな。
道元は福井の永平寺にこもり、栄西は貴族のご機嫌をとって貴族社会に
くいこんだわけだ。
38: 2013/11/19(火)00:04 AAS
 
遣唐使で送り出したのは桓武天皇だっけ
39: 2013/11/19(火)00:13 AAS
桓武天皇までは、早良親王の例でみるように、
不遇な皇子が政治的に動くけど、嵯峨天皇以降は、
その不満のハケ口が文学や風流にむかう。
このへんの時代の相違が面白い。
40: 2013/11/19(火)00:38 AAS
もうこのころになると、不満を持った親玉を、後押ししてくれる有力な氏族がいなくなっちゃったってことでしょ。
奈良時代には、大伴とか佐伯という豪族がまだまだ強大で、藤原氏に十分対抗できた。
ところが時代が平安にかわるころはすっかりおとろえて、藤原氏しか残らなかった。
その藤原氏に最後の挑戦を試みるのが大伴家の子孫の伴善男だ。
平安京応天門が炎上すると、伴善男は左大臣源信の仕業だと訴えるわけだが、
太政大臣藤原良房のために伴善男のざん訴だという決定がされ、源信は無罪、反対に伴善男は遠流になった。
それに共犯ということで紀豊城も流罪ときまった。
この結果、良房は臣下ではじめての摂政になり、古来の名族大伴・紀両家は政界での勢力をすっかり失ってしまう。
応天門の変は、藤原氏繁栄の第一歩で、このあたりから皇室といえども、藤原氏に対しては手も足も出なくなってしまった。
41: 2013/11/19(火)12:30 AAS
阿衡事件というのもあったな。
宇多天皇が即位するとき、藤原基経を関白にしようとして、橘広相に詔を起草させたところ、
「阿衡に任ず」とあったため、基経はつむじを曲げちゃったという事件(877)。
要するに「阿衡」というのは名があって実がないことじゃないかとゴネた。
結局、天皇が勅書の非を認める宣命を出して、事件は解決するわけだが、
これは藤原氏の天皇に対するイヤガラセだろ。
宇多天皇が即位する時、藤原氏がイチャモンをつけたということは、象徴的なことで、
最初にガーンと一発くらわせたようなもので、勝負はこれで決まった。
42: 2013/11/19(火)20:22 AAS
宇多・醍醐の治世といえば、延喜天暦の治といわれて、後世の人、
とくに天皇親政を標榜した人たちの理想になってるけどな。
後醍醐天皇の建武中興の政治スローガンが「延喜天暦の治にもどす」じゃなかったっけ。
しかし、実際のところ親政どころか、権力を藤原氏にもぎとられた時代だったというわけだ。
43: 2013/11/19(火)22:51 AAS
まあ、それはそれとして、延喜天暦の治はいい時代だと思うけどね。
つまり、桓武天皇までのような古代帝王の親政ではなくて、
天皇自体はむしろ権力から解放されて風流の世界に入り込んでいく。
同時に文化が国風文化になって落ち着いていくんだからな。
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(1): 2013/11/19(火)23:17 AAS
藤原氏ってのは実に興味深い家柄だな。
天皇家は万世一系だけどな、藤原氏も万世一系なんだよ。
藤原氏は決して地方勢力の上で成長したものではない。
藤原氏が平安時代に独占的になるのは、
天皇家が古代において蘇我氏をはじめ対等の勢力がいっぱいあった中で頭角をあらわしていったのと同じように、
佐伯氏とか大伴氏を掃討して生き残ったのだと思う。
天皇家の成長過程と、藤原氏の成長過程が同じようなものだということはたしかだ。
しかし常に黒幕でいたいという家柄なんだな。
45: 2013/11/20(水)08:16 AAS
2chスレ:whis
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46: 2013/11/20(水)11:34 AAS
 
南北朝時代がすごい
天皇家は勢い余って絶滅させられていたかもしれない
南北両朝揃って人質になっていたことがあるんだから
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