[過去ログ] 天皇の日本史 (678レス)
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(1): 2013/11/17(日)17:28 AAS
だからすぐには受け入れていないよ。
「元興寺縁起」という説話によると、仏教はだいたい530年代ごろに、
百済の王室から日本の王室に伝えられたが、日本の王室はしばらく受け入れないで、
590年ごろやっと受け入れられた、となっている。
とすると半世紀くらいは公認されないわけだ。
もちろんこれは伝説(縁起)だから1つの手がかりに過ぎないわけだが、
はじめ、蘇我稲目が仏教を入れようとする。
ところが欽明天皇も敏達天皇も日本としては公認できないといって拒絶する。
そこで稲目はプライベートに信仰するわけだ。
ところが稲目の息子、馬子の代になると蘇我氏も勢力が大きくなったから、
省5
7: 2013/11/17(日)17:37 AAS
朝鮮を調べてみても、たとえば新羅の説話によると、はじめは仏教が迫害され、
法興王という人が出てきてはじめて公認された、ということが述べられてある。
そこでも抵抗はあったに違いない。
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(1): 2013/11/17(日)17:50 AAS
蘇我氏が宗教的な存在としても邪魔であった天皇を倒さずに立てていたのか、
ということが理解できない。
馬子は公然と政治的な対立から崇峻天皇を暗殺しているぐらいだからな。
そこまでやった男がどうして自分で天皇にならず、推古天皇を立てたのか説明できない
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(7): 2013/11/17(日)18:08 AAS
天皇一族は渡来人であり、日本列島にいた原住民を制圧して一つにまとめた。
神道は西洋宗教を日本列島に持ち込んだ渡来人(天皇一族)が、
原住民の自然崇拝とドッキングして作り上げていった神学体系ということになる。

徐福 : ユダヤ教の儀式と風習、旧約聖書を日本列島に持ち込んだ。

秦氏 : 原始キリスト教(ミトラ教の一派)と新約聖書を日本列島に持ち込んだ。

蘇我氏: ミトラ教の中でも東洋グノーシス主義の流れを汲む仏教を輸入

原始キリスト教とグノーシスの流れを汲む仏教は本質の部分(ミトラ教)では共通する。
カトリックやプロテスタントは頑なに認めないが、
イエスキリストはエッセネ派(ミトラ教の一派)に属してグノーシス主義者だった。
今のキリスト教はイエスの思想からかけ離れたミトラ教の模倣に過ぎない。
10
(1): 2013/11/17(日)18:24 AAS
587年に物部守屋が蘇我馬子と争って、馬子に滅ぼされる。
これは天皇家としては危機になりえたんだろうけどな。
天皇の軍事指揮官であり、祭祀的な天皇の機能にもつながる一面をもった、
それ故に仏教にも反対していた物部氏が、自分の目の前で倒されてしまったんだからな。
ほんとうなら、天皇にとっては右手をもぎとられたのも同じだ。
ところが蘇我氏もそのころには天皇家と外戚関係を結んでいる。
聖徳太子でも誰でも、そのころの皇太子はみんな広い意味で蘇我氏一族なんだから、
皇室全体としてはどうということはない。
そのへんが、天皇家のしたたかさの最初の証明だったといえる。
11
(1): 2013/11/17(日)18:41 AAS
要するにそのころになると日本の国としてもそろそろ仏教が必要になってきた。
東アジアの情勢をみると日本はいつまでもまとまりのない国のままではいられない。
東アジアのどの国もがそうであるように、中央集権国家を成立させなければ
これらの国からの脅威をまぬがれない。
しかし、それぞれの部族がそれぞれの神様を持っているようでは、
中央からの威令は行われないから、この際、部族信仰を超えた普遍宗教である仏教を興隆させることにしよう。
こういうきわめて政治的な理由で、仏教の本格的な受け入れが始まったんだと思う。
これが聖徳太子の時代だ。
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(1): 2013/11/17(日)18:43 AAS
蘇我馬子 → 我蘇りし馬屋の御子

厩戸皇子 → 厩で生まれた御子

聖徳太子 → 聖人で徳の高い太陽の御子

冠位十二階 → 黄道十二星座、十二支族、十二使徒

聖徳太子の逸話(十人の声を聞き分けた)→失われた十支族をまとめる長、レビ族
省5
13: 2013/11/17(日)18:49 AAS
イエス本来の教え(イエス自身の思想)であるグノーシス主義を、
日本に広めるために仏教(東洋グノーシス主義の流れを汲む)を持ち込んだ。

イエスはユダヤ教の一派ではないし、
イエスの思想はローマカトリックが始めたキリスト教とも本質的に関係がない。

だから当時主流だったが後に異端として駆逐されるグノーシスの生き残りである、
東洋グノーシスを日本に持ち込んだ。
東洋グノーシスにはゾロアスター教、マニ教(やがて滅んだが)など様々な分派があったが、
日本には仏教として伝えられた。
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(1): 2013/11/17(日)18:57 AAS
儒教も当然入ってきている。
むしろ入ってきたのは仏教より儒教の方が早いんじゃね。
ただその入り方が、中国の学術文化と一緒にジワジワと浸透してきたために、
儒教だけをとり上げては論じにくい面がある。
この儒教もつきつめると天皇制とは相容れないんだよな。
天皇制というのは世襲でしょ。
儒教思想は帝王に徳がなければ世襲を許さないからな。
仏教のように具体的な抵抗の例をあげることはできないけど、
とにかく本質的には性が合わない。
そういうことはあったけど、聖徳太子の時代になると憲法にしても冠位にしても、
省2
15: 2013/11/17(日)19:10 AAS
聖徳太子の時代には仏教も儒教も国家をつくるための、
あるいは天皇の支配を高めるための手段にすぎなかった。
本質の相違はこの際問題にならなかった。
そういうことでしょ。
16: 2013/11/17(日)19:12 AAS
和を以って尊し・・・なんかは儒教的だな。

日本に入ってきた仏教は大乗仏教の方だから、
儒教の影響を受けていても何ら不思議ではないからね。
というか儒教と大乗仏教が同時に輸入されたと思える。

いずれにしろ神道や皇族の作り上げた宗教観というのは、
渡来人が日本列島に持ち込んでごちゃ混ぜにした宗教観ってことだ。
唯一、日本にオリジナリティがあるとすれば自然崇拝しかない・・・orz
自然崇拝は世界どの地域どの民族にも普遍的にありえた原始宗教の基本だからね。
アマテラスなんてのは日本オリジナルの神ではないwwあれは太陽神ミトラの成れの果て。
17: 2013/11/17(日)19:30 AAS
ところで太子と馬子との関係が興味深いな。
印象批評的ないい方するけど、馬子の方は政治的権力をにぎって実際政治をやっている。
太子はちょっと政治的中枢から離れて斑鳩宮に住んだりして、精神的権威として立っている。
そうすると馬子は覇道、太子は王道を行なっているわけで、二人は分業関係にあるような気がする。
そして太子の歩んだ道は、後世の天皇の道になるような気がする。
権力でなく権威で生きていくスタイル。
天智天皇とか天武天皇のような人は、日本史の中でも例外的な、中国皇帝に近い人だけどね。
そうすると、聖徳太子のあり方というのが、日本の天皇のあり方のモデルとして、
崇められたという一面もあるのかもしれない。
太子信仰というものもあったしな。
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(1): 2013/11/17(日)19:40 AAS
蘇我馬子 → 我蘇りし馬屋の御子

厩戸皇子 → 厩で生まれた御子

聖徳太子 → 聖人で徳の高い太陽の御子

冠位十二階 → 黄道十二星座、十二支族、十二使徒

聖徳太子の逸話(十人の声を聞き分けた)→失われた十支族をまとめる長、レビ族
省1
19: 2013/11/17(日)20:09 AAS
天智天皇という人は、天皇家にはめずらしいパーソナリティの人だな。
何か外国人の血でも入っているんじゃないかと思うぐらいに意志的で厳しい人だ。
まず蘇我馬子の子蝦夷とその子入鹿を退治した。
これは改新のために計画したクーデターだから論外だが、
この入鹿暗殺のときに味方した倉山田石川麿も後に邪魔になると処刑したし、
有馬皇子もかなり残酷に殺している。
目的のためには手段をえらばないところがある。
一方古代人にはめずらしい組織力があり、理智的判断も持ち合せている。
織田信長、豊臣秀吉の古代バージョンだな。
歴史の曲がり角には、こういうタイプの人が出てくるもんだ。
20: 2013/11/17(日)20:37 AAS
入鹿は父蝦夷以上に権力欲が旺盛で、人民を使って自分の生前の墓をつくったり、
天皇だけが使う陵の名でそれをよばせたり、従兄の古人大兄皇子の擁立をたくらんで
山背大兄王を殺したりして、皇極女帝をしのぐ勢いだったからな。
滅ぼさざるを得なかっただろうな。
これを亡ぼして、新しい体質の国をつくるよりほかにないと考えられたのだろうな。
21: 2013/11/17(日)20:53 AAS
中大兄皇子は孝徳、斉明両天皇の皇太子をつとめ上げるんだけど、
その間17年もあった。
聖徳太子の方は30年間太子のままだったから、これにはおよばないが、
いずれにしても年をとった皇太子であった。
中大兄がすぐ天皇になれなかったのは、やっぱり聖徳太子の例にならって、
皇太子摂政という形式の方が政治がやりやすい、という知恵がそのころの
宮廷人にあったんだろうな。
まだあとにも続くな、この伝統は。
若いときは自分でやる。
自分が象徴的地位に立つと人にまかせる。
省1
22: 2013/11/17(日)21:37 AAS
なぜ聖徳太子は権威で中大兄は権力になったか、
という問題もそれで説明がつきそうだな。
中大兄は蘇我氏を倒した。
そして鎌足を蘇我氏の地位につけなかった。
もしつけていれば、聖徳太子が権威でその下に権力の馬子がいたように、
自分が権威になって、その下に鎌足を権力にするという図式が成立する。
ところが中大兄は天皇家の安泰を計って、その関係を成立させまいとしたわけで、
そうなると自分みずから権力をとらなければならない、そうすると、孝徳天皇を立てて
その下に自分がつく方が自然な形になるんだな。
23: 2013/11/17(日)22:42 AAS
謚号に『徳』『聖』等が入る場合は貴人が非情に不味い死に方(非業の死)をした人の霊魂が荒び祟り成すのを 畏れた場合に))贈られるのが不文律。
24: 2013/11/17(日)22:50 AAS
斑鳩の法隆寺(蘇我本宗家の邸宅(宮居あと))辺りは日に向かい東西南北他の神霊結界の中心、正に王者の都するに相応しい王城の地
25: 2013/11/17(日)23:26 AAS
桓武天皇は天智以来、奈良時代を通してそうだった古代型天皇という感じの強い人だな。
平安京という立派な宮殿をつくったが、宮殿をつくるというのは自分の威厳をしめすための手段だ。
その意味でも最後の古代型天皇で、以後新しく宮殿をつくる天皇は、日本にあらわれない。
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