[過去ログ] 【在位】徳川家斉【50年】 (459レス)
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21: 2013/10/11(金)20:59 AAS
>>14
おもしろかった。相手が変われば案外、男なら
みんな家斉かもね。

ところで、どこで調べてるんだ?
22: 2013/10/12(土)05:55 AAS
家斉がペリー来航以降の幕末期に存命だったら、
幕府が滅亡することもなかっただろうな。
23
(1): 2013/10/13(日)19:09 AAS
皆が皆、あの家斉みたいにヤリ放題にはならない
綱吉の動物好きみたいに性以外の何かに極度に依存するのもいれば
家治や家茂みたいに奥さん一筋(みたいな感じ)なのも居るし
24: 2013/10/13(日)20:03 AAS
家光や綱吉は男色に御執心だったしな。
25: 2013/10/14(月)19:20 AAS
あれ? 綱吉は女好きだったろう。
使用済みを柳沢吉保に下げ渡ししてるし・・・
柳沢の前の側用人の妻と娘もやっちゃったって話もあったよな。
26: 2013/10/14(月)19:33 AAS
>>23
家治も家定も側室いるじゃん
正室一筋じゃなかった
綱吉も正室も側室も大勢いて世継ぎを作るために励んでたよな
綱吉が生類憐みの令を出したのは母桂昌院が綱吉に世継ぎができないのは
生き物の殺生の祟りだと信じていらからだとか
27: 2013/10/14(月)19:40 AAS
5代将軍徳川綱吉のもと、綱吉自身が多数の美童を小姓として持ち、12歳で寵愛した柳沢吉保を後に側用人・老中甲府太守として栄達させたことに見ならい、
諸大名こぞって寵童を持ち、その美しさ華やかさを競い合った。
寵童を取り立てる慣習は6代将軍徳川家宣の側用人で、猿楽師出身の間部詮房の例がなお続いた
28: 2013/10/14(月)22:57 AAS
>>14に続いて考察
男腹、女腹という区分なら

男腹:速成院(男5、女2)、皆春院(男6、女2)
女腹:契真院(男1、女3)、妙操院(男1、女3)、清昇院(女2)、専行院(女3)
どちらとも言えない:広大院(男1)、香琳院(男1)、真性院(男1)、宝池院(男2、女2)、慧明院(女1)、超操院(女1)、芳心院(女1)、本性院(男3、女4)、智照院(女1)、本輪院(男3、女2)、青蓮院(男1、女1)

どちらとも言えないが一番多く、男腹・女腹も大体は誤差の範囲という事か
29
(1): 2013/10/14(月)22:59 AAS
綱吉は男女ともに愛する両刀使いだっただけ
家光は男しか愛さないホモ
30: 2013/10/14(月)23:02 AAS
>>29
綱吉とやったことでもあるのか?
31: 2013/10/16(水)21:44 AAS
信長はあんなに戦場駈けずり回ってたのに
21人も子供産ませてんだな
32: 徳川斉匡 2013/10/16(水)22:51 AAS
それは何もしないでひたすら子作りに励んでいた我ら兄弟への面当てでござるか
33
(1): 2013/10/23(水)17:57 AAS
信長って秀吉や家康ほど漁色家のイメージがなくて、
どちらかというと若衆好きの男色家のイメージが強いのに、
子沢山だったのは正直意外だった。
34: 2013/10/24(木)00:11 AAS
>>33
信長は49歳で亡くなったのもあるが、
秀吉や家康みたいに年取ってから娘や孫ほどに年の離れた
若い女に手を出して老醜晒してないからだと思う

どちらかといえば家康より秀吉のほうが漁色家のイメージ強いが
(秀吉より32歳年下だった淀殿があまりにも有名だからね)
孫より若い女に手を出した家康のほうが年の差は激しくやってることはエグイ
35
(1): 2013/10/24(木)10:45 AAS
子を作るのも仕事だからな。
家が傾くのは大抵は後継問題。
家康の死後100年で秀忠の男系は絶えたし、その後継は家康が50歳過ぎてから作った子供の系統だし。
36
(1): 2013/10/24(木)16:27 AAS
>>35
徳川慶喜は子だくさんだったが幕府は終了したがな
37: 2013/10/24(木)17:49 AAS
早世も多いからね
家康の息子11人の内
現代まで男系で血筋残してるのが4人だけ
38
(1): 2013/10/24(木)18:15 AAS
>>36
慶喜は将軍をやめたから子だくさんになれた。
京都の政界で活動してた頃は、二十代から三十前後の若い時期だったのに、
子どもができなかった。

子どもがボコボコできるのは、静岡に隠棲した中年以降。
39: 2013/10/24(木)19:18 AAS
>>38
慶喜の現役時代、慶喜の妻は正室の一条美賀子一人だけ。
慶喜は将軍になる前に美賀子に子を一度産ませている(ただし子は夭折)。
慶喜は将軍後見職〜二条城で将軍就任〜二条城で大政奉還までほぼ京都か大阪におり、
美賀子は江戸に置かれていたために、慶喜が将軍だった時期には完全別居だった。

大政奉還後、明治になって以降、慶喜は美賀子の許可のもと、
新村信、中根幸の2人の側室を迎えた。
側室が産んだ子供は、美賀子を嫡母としている。
40: 2013/10/24(木)19:39 AAS
京都時代の慶喜にお手つきの女性が全くいなかったとは考えにくいな。
新門辰五郎の娘を愛妾としていたという話もあるし。
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