[過去ログ] 究極の精神統一法を目指す【最強のMindfulness】 (44レス)
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1: 2020/10/14(水)02:57 ID:Ey9Ayjm/(1/5) AAS
弥勒の半跏思惟像は、いかに普通の人が簡単に悟りを開ける方法はないかと考えています。
半分足を崩しているのは、どれだけ楽な方法で悟りを開けるか、ということを表しています。

過去の悟りの行を見ていると、たとえば安楽の法門と言われる座禅でも、長時間足を組んだり、きつい作務(労働)や、厳しい作法があります。

また、易行道と言われる念仏でも、暇なく念仏の言葉を唱えなければならなく、欲望と感情にまみれた状態とハッキリと切り話されているとは言えず、修行者は煩悩を捨てて念仏をするのが正しいと認識してしまいます。

煩悩そのままで悟りを開くというのは、理趣経に示されていますが、未だその意味をハッキリと修行概念に結び付ける教えはありません。

ここでは、将来弥勒が出すであろう、煩悩そのままで悟りを目指す、究極の手法にアプローチします。
2: 2020/10/14(水)03:06 ID:Ey9Ayjm/(2/5) AAS
ここではMindfulnessという言葉を日本語で書くのは忌避します。
なぜなら、あらゆる板にMindfulness関連のスレが立ち、「自分が一番知っている」という人達が
誤った理屈や、自己中心的な主張を繰り返して、まがい物的なスレが形成されてしまっているので、
そのような人たちの参入を避けるために、あえてストレートな言い方はせず、Mindfulness、
または、マイフルと略するような言い方にします。
3: 2020/10/14(水)12:12 ID:Ey9Ayjm/(3/5) AAS
理趣経

ここに、世尊なる金剛手、
一切諸仏の現証たる
マンダラ中に住み給う
持金剛手の最勝なり。

この世の悪を調伏げ、
余す方なく一切の義
なべて成し給う。

この金剛手大菩薩
「世の欲すべて清らなり」、
省9
4: 2020/10/14(水)12:32 ID:Ey9Ayjm/(4/5) AAS
理趣経  (関連文章)

業の平等さとるべし。
大なる菩提は捉われず、分別動作はそのままに、
仏の所に至るなり。

かくて世尊は、この世なる調い難きものどもを、なべてなびかす釈迦牟尼の、
姿となりて、ものすべて、その本質は平等きを、示す教えを説き給う。
かかる教えに従えば、善悪超えてわれらみな、最勝し境地に赴かん。
これぞ仏智の理趣ならん。
その説法は左の如し。

くさぐさ欲は表われど、その本質は一つにて、善悪いずれに偏らず。
省12
5: 2020/10/14(水)20:33 ID:Ey9Ayjm/(5/5) AAS
Mindfulnessの話をするには、まず、仏教とスピリチュアルの話に触れないといけない。
Mindfulnessとはスピリチュアル的境地を目指すものであり、その境地こそ、
仏教の悟りと同義語であるからだ。

マイフルを語る仏教指導者でも、スピリチュアルを信じてない人が多い。
いわく、あの世は無い、霊は無い、
もしもマイフルや悟りがこの世だけのものなら、そんなものやらない方がいいだろ。
出来るだけ楽しんで、楽して、もしも苦しみが極まるなら、自殺してしまった方がいいということになる。
あの世が無いのに、何も無や空の境地を目指さなくてもいいわけだ。

ところがマイフルこそ、スピリチュアル抜きでは語れないものであり、
それは仏教の悟りも同じだ。
省9
6: 2020/10/15(木)01:22 ID:HZpGEkbS(1) AAS
Mindfulnessとは何かというと、マインドを満たす
何に?
それは「今に」、ということ。
大抵の人間は、「今」に心を満たしていない。

たとえば、夜自分の部屋からトイレに行くとして、
立ち上がり、
一歩一歩歩き、
トイレのドアのぶを握り
ドアを開け、ドアを閉め、・・・・

ということを、意識していない
省16
7: 2020/10/16(金)02:41 ID:IO8DViMw(1) AAS
「諸法無我」と「諸行無常」という言葉を押さえておこう。

「諸法無我」というのは、この世界に生起するものは無い、ということ。
個別に見ている、あれ、それ、これ、私、あなた、 善、悪、 苦、楽 といった相対的な両極、
これら生起しているように見えるものは、実は存在しないということ。

後の大乗仏教ではこれを、「無自性空」という。
世界に生起しているものは無く、空であると・・・。

「諸行無常」というのは、何ものも存在するものが、
0.1秒も継続することは出来ないということ。

われわれは、あなたも私も、それもこれも、継続的に見ている。
つまり、過去の記憶を元に、未来への予測も含めて、個別の存在が
省10
8: 2020/10/17(土)02:06 ID:rsX96luB(1/5) AAS
よく、「無我になる」、ということが言われるが、この中の「我」というのは、
「エゴ」のこと。
「エゴ」とは、「欲」だったり、人間の「想い」のことだったりする
我慾、我想念というのがエゴのことで、人間の思考そのものが
エゴとも言っていい。
このエゴを克服することこそが、「悟り」ということになる。

上で述べたように、自分が一瞬も継続しないとなれば、じゃあ、自分が全く何も無くなっちゃうじゃないか、
と思うかもしれないが、
人間というのは、二種類の流れがあると考えなくてはいけない。

一つは、カルマの流れ。 
省9
9: 2020/10/17(土)02:14 ID:rsX96luB(2/5) AAS
もう一つの流れは、本源(ソース)から来るもの。
この本源から来る流れは、例え話にしないと説明しづらい。

たとえば、大きな海があるとする。
この海に、たくさんの蛇口が繋がっているとする。

この蛇口から水が出てくるわけだけど、そのまま出てくれば、大きな海(ソース)から
直接、水が流れ込んでくるわけだ。
ところが、蛇口がエゴで汚れてると、水が出てくる時には、色が変色し、汚くなって
ドロドロになっている。

通常人間は、この汚れの方を「自分」だと思っている。
ところがこれは、実際は幻想で、ソースから流れて来る方が、真実のものと言っていい。
省4
10: 2020/10/17(土)15:49 ID:rsX96luB(3/5) AAS
「諸法無我」、「無自性空」を上の例え話で説明すると、われわれの世界は蛇口の汚れから出た泥で構築されていて、
大海は全く見えない、高次元の状態。

個人で言えば、蛇口から出た泥が薄い人もいれば、濃い人もいる。
濃いい人は、高次元の光が流れてこないので、愛とは逆行した人間になる
たとえば、犯罪者になったりとか。

泥の薄い人は、大海からの水が通じてくるので、愛に満ちた、
我の少ない人になる。

「諸法無我」、「無自性空」というのは、この泥というものは、本来無いんだよ、
そして、世界にはいろんな泥があるが、それらはすべて無く、泥の世界と見えたものは空っぽなんだよ、
ということ。
省7
11: 2020/10/17(土)21:49 ID:rsX96luB(4/5) AAS
さて、ここで、あの世について、スピリチュアル的に語らないといけない。

まず、一番上に「神界」というのがあって、ここが一番根源的な世界と言える。
ここから光が下降して写ってくるわけだが、その次が「霊界」ということになる。
神界や霊界は、大海の水の世界と言ってもいい。
汚れのない世界。
神界が大海の世界そのものだとすると、霊界というのは、大海の水が個別に注ぎ込む
世界と言っていいかもしれない。

そしてその下の「幽界」というところから、泥・・ つまり、エゴに汚染されることになる。
順々に写ってくるから、汚れがなければそのまま神界の光が下まで届くのだけど、
幽界の汚れがそのまま現界(この世)に写ってくるので、汚い世界が現れてくる。
省13
12: 2020/10/17(土)21:53 ID:rsX96luB(5/5) AAS
よく幽霊という言い方をするが、あれはスピリチュアル学的に間違った言い方。
正確には幽魂という。

よく、「霊」と「幽魂」を同じように扱ってしまっているが、実際は、霊とは純粋な大海からわかれた水の流れで、
「幽魂」というのはエゴに汚染されたものだと考えていい。
13: 2020/10/18(日)00:10 ID:EMpxRxpo(1) AAS
お釈迦様の話で、12縁起というのがあるが、これは、人間がどのようにしてエゴに捉われ、苦に捉われていったか
ということを表している

一番最初に「無明」が生じるわけだが、それが泥の世界の始まりだ。
泥の世界は別の言い方をすれば、物質世界という風にも言える。
霊的世界に対する、物質世界ということ。

一番最初は、泥(物質)は全くなかった。
個別に識別されるものは何も無く、全ての世界は空っぽだった。
この空っぽというのは、あくまで泥に対して言われること。
各々、幾多、あらゆる泥が無く、空っぽの状態。

泥が一切なく、空っぽということはどういうことかというと、そこには無限の1の世界があるということ。
省22
14: 2020/10/20(火)01:19 ID:cFg0WXhq(1/2) AAS
中道の話をしよう。

仏教の教えで非常に重要なのが、中道の概念だ。
中道=悟り と言ってもいい。

中道と似たような言葉で、中庸という言葉がある。
さて、これは何が違うのか?

中庸というのは、「ほどよい」とか、極端な物事を避け、中和した中間のような
イメージで語られることが多い。

一方、中道というのは、両極のどちらにも捉われない・・・、 両極のどちらにも、
微塵も捉われない・・・ ということで、そういう意味で、
どちらにも捉われないという意味での、「真ん中」ということを示している。
省34
15: 2020/10/20(火)01:29 ID:cFg0WXhq(2/2) AAS
何かに依存した幸せというのは、それを失えば不幸になってしまう。
大抵の人はこの両方を繰り返しながら、両方の壁に頭をぶつけながら
歩いているようなものだ。

昔あるニュース番組の特集で、交通事故で身体障碍者になった青年の取材を
特集でやっていた。

彼は脳にダメージを受けたことによって、四肢の動きが不自由になり、しゃべり方も、
障碍者特有のしゃべり方になっていた。
昔の写真を見ると、イケメンで活動的な好青年という印象・・。

しかしなぜかその青年の顔は、輝くような笑顔であふれていた。
そこにはボランティアで大学生たちが支援に来ていたが、大学生たちが支援に来ているのか、
省9
16: 2020/10/22(木)23:52 ID:ilSs9ICx(1/2) AAS
ゾーンについて話をしよう。

よく、スポーツなどで、究極的なファインプレーなどをするときに、
「ゾーンに入った。」 という言い方をするときがある。
これは言うなれば、「本源につながった。」 ということと同じだ。

ゾーンに入る時は完全に、思考・分別はソース(本源)に交代している。
だから、ファインプレーが記憶に残らないことが多い。
つまり、思考分別で行動するのではなくて、完全に、ソース(本源)に任せて、
ソースが身体を使っているわけだ。
だから、その動きは完璧なわけだ。
それは超越的なファインプレーにつながる。
省13
17: 2020/10/22(木)23:57 ID:ilSs9ICx(2/2) AAS
【一刀斎は剣の妙旨を授けてもらうべく、鎌倉の鶴岡八幡宮に祈ったことがある。
三七二十一日の間、至誠をかたむけて参籠精進したが、ついに期待したような奇蹟は現われなかった。
満願の日になっても、依然として神示はなかった。
失望したかれは、自分の誠心の足らぬためかと、悄然として拝殿を降りて帰りかけた。

そのとき、物蔭に黒い影がチラリと動く気配が感じられた。
途端に、あたかも睡中にかゆいところをなでるように、無意識の間に手が動き、
刀が鞘走ってその影を斬りすてていた。
いや影を見た−−というよりは感じたのと、斬ったのとがほとんど同時といってよいほどに
間髪を容れない心・手一如の速さだった。

 かれは振り向きもせずその場を立ち去ったが、後年その出来事を回顧して
省7
18: 2020/10/27(火)11:01 ID:CHHivjmX(1/2) AAS
ソーンの話をもう少ししよう。

ゾーンというのは何もスポーツだけではない、座禅中にゾーンに入ることもあるわけだ。
言ってみれば、ゾーンとは三昧のことだ。
ただ、スポーツで言われるゾーンというのは、三昧によるファインプレーになった時の状態を示している。

深い三昧に入ると、その時の行動が記憶に残らない。
これは、道元禅師が 「覚知に交わるは証則にあらず」 と言ってるのと同じ。
思考で認知されるものに本物は無い。

ゾーンに入ると完全に思考が本源(ソース)に交代するので、思考の領域である記憶に残らない。
また、深い三昧に入ると、目が半眼になる。
これは思考で判断することが無くなり、視覚の情報量が必要なくなり、
省12
19: 2020/10/27(火)11:18 ID:CHHivjmX(2/2) AAS
昔、NHKで、中国の弓の達人の話が人形劇でやっていたことがある。
この話は非常によくできていて、その内容は悟りの話と言ってもいいものだった。

とあるところに、弓が上手くなりたい若者がいて、その人が夢の名人に弟子入りした。
最初は小屋の中で、ノミを糸で吊るしたものをズッと見つめろと言われ、
何日もノミを見つめていると、段々馬のように大きく見えてきて、それで弓を射ったら、
ノミの心臓を射ち抜くことが出来た。

それからだんだん自信が付いてきて、最後は調子に乗って、師匠が出がけから帰るところを待っていて、
遠くに見えてきた師匠めがけて弓を射始めた。
師匠も負けじと応戦し、矢が空中で衝突する。
それを何度か繰り返すと、とうとう師匠の矢が先に尽きてしまった。
省19
20: 2020/10/31(土)00:58 ID:iHQMBO7Z(1/2) AAS
アラーの話をしよう。

イスラム教でいうアラーとは、簡単に言うと「無限の一」ということ。
つまり、全てを包含するこの無限の宇宙ということ。

この「宇宙」というのは、単に物質的な宇宙ということだけでなくて、あらゆる次元を含む
総合的な意味での宇宙ということ。

我々の世界は思考分別によって分離的なものが浮き上がってきてる。
前でも喩えたように、本来一枚の絵であるはずなのに、パズルのピースのように、
各々、個々のものが独立して浮き上がってきて、あたかも単独で存在しているように感じている・・
しかし、仏教ではこれを、どんなものでも相依して存在している・・ 単独で存在できるものはない・・・
という言い方をして、これを「縁起」という。
省17
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