[過去ログ] 【ペソミソしよ】つよっちゃん新喜劇【池禾召】 (1002レス)
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808: 2020/06/17(水)16:19 ID:+uW68XyA(1/6) AAS
さっき言ってた宿河原ってのは、

〒214-0021神奈川県川崎市多摩区宿河原2-4-16ア・ボートルサンテ西館2F

のことかな?
815: 2020/06/17(水)18:30 ID:+uW68XyA(2/6) AAS
>>813
お前もageとるやないかい!
って言って欲しかったの?
819
(1): 2020/06/17(水)19:31 ID:+uW68XyA(3/6) AAS
宿河原(しゅくがわら)は、神奈川県川崎市多摩区の町名。1987年(昭和62年)11月23日に住居表示が施行されている。郵便番号は214-0021。面積は全域の合計で2.01km2である。
多摩区の北部にあり、域内を二ヶ領用水に合流する宿河原用水やJR南武線が貫通している。一帯は多摩川の沖積地であり、住宅地のほか梨畑などの農地も点在している。
宿河原は北端で多摩川を挟んで東京都世田谷区喜多見と狛江市東和泉・猪方・駒井町と、東端で堰と、南東端で高津区上作延・下作延・久地と、南端では長尾と、西端では東生田・登戸と接する(特記のない町域は神奈川県川崎市多摩区)。
821: 2020/06/17(水)19:38 ID:+uW68XyA(4/6) AAS
曽我物語や徒然草にも「宿河原」という表記があり、当地であろうと考えられている。戦国期の小田原衆所領役帳には、「駒井宿河原」という形で当地が登場しており、現在は多摩川の対岸となっている駒井村と当地が一体であったことがうかがえる。その後、文化年間(1804年〜1818年)までには洪水により多摩川の流路が北へ移った。多摩川の流路の北側にあったことは、18世紀中ごろの絵図にも描かれている。

江戸時代の当地は橘樹郡宿河原村となった。幕府初期には天領であったが、のちに村の半分が増上寺に寄進されている。村高は慶安期の「武蔵田園簿」で276石あまり(ほかに見取場の田畑があり)、「元禄郷帳」で502石あまり、「天保郷帳」や幕末の「旧高旧領取調帳」では546石あまりであった。対岸とのつながりとしては、当村が駒井村の枝村であったとする見方もあるほか、甲州街道にある布田五宿の助郷も務めていた。対岸との間に「登戸の渡し」があったが、それがどこだったかは不明である。

多摩川に接していることもあり、水利はよかったが、洪水にも度々襲われる土地であった。農地としては水田が多かったが、文化年間以降は梨の栽培が盛んとなったほか、幕末には養蚕も行われ、当地の六代目関山五郎右衛門が養蚕の技術を「養蚕実験録」に書き残している。農間には多摩川の鮎釣りも行われた。
822: 2020/06/17(水)19:38 ID:+uW68XyA(5/6) AAS
明治に入ると地租改正が行われたが、その際に一耕地・二耕地…十耕地・十一耕地甲・十一耕地乙という小字が、もとの地名とは無関係に付けられた。町村制の施行に伴い、宿河原村などが合併して稲田村が成立し、宿河原はその大字となった。明治末期には多摩川が大氾濫を起こし、流路が変化した結果対岸に飛び地を持つこととなったが、これは1912年(明治45年)に狛江村へ編入された。大正年代には当地で新明国上教が起こり、信者が荒地を開拓して宿坊を設置していった。昭和に入ると南武鉄道(現在の南武線)が開通したが、同鉄道はもともと多摩川の砂利採取を目的としたものであり、宿河原駅からもそのための支線が河原へと延びていた。

稲田町(1932年に町制を施行)は1938年(昭和13年)に川崎市へ編入されたが、それと前後して日本が戦時体制となっていったため、当地にも変化が訪れた。1935年(昭和10年)には宿河原駅前に帝国化学工業の工場が設置されたほか、1944年(昭和19年)には当地の果樹園を水田に転用するよう命令があり、また南武鉄道も戦時買収されて国鉄線となった。

戦後には果樹栽培も復興していったが、桃は樹齢や連作の問題がありのちに衰退した。昭和30年代頃には宅地開発が進行していき、本来は農業のために行われた土地改良区による区画整理事業もこの傾向に拍車をかける結果となった。
824: 2020/06/17(水)20:48 ID:+uW68XyA(6/6) AAS
表で笑ってるぞ
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