[過去ログ] ★アジアを解放した日本、その尻尾にくっついてきただけの朝鮮人★ Part2 (331レス)
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(1): 2020/09/06(日)07:54 ID:PfhVv6gE(1/6) AAS
島田は3日に秋吉の壕を出て更に南下したが、その際に挺身隊に対し「もはや挺身隊は組織維持が困難となった為、
3?5名のグループに分散する態勢を取れ、今後も住民と共に行動し、知念・玉城地区に下って引き続き住民を保護せよ」と挺身隊の解散を指示している。
島田らは5日に伊敷の轟の壕に移動し、9日にはもはや組織として体をなしていなかった県庁と警察の解散を命じている。

この後、軍や行政の保護も受けられなくなった住民の犠牲は夥しい数に上り、
沖縄戦における住民の戦没者全体の6割が、第32軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっている。

なお、予想外の日本軍の南部撤退に、アメリカ軍では6月初旬の司令部作戦会議で避難住民保護が検討されたことが明らかになっている。
バックナー司令官の側近として司令官の指示内容を記録していたジェームス・バーンズ曹長の陣中日誌には、
「一時休戦を申し入れ(南部にいる)住民を保護すべきではないか」などの意見が出たと記されている。
しかし、結局そうした施策はなされないまま、アメリカ軍は掃討作戦を開始した。

最後まで住民保護に腐心した島田も、18日に行動を共にしてきた仲宗根官房主事らを壕から脱出させた後、荒井と壕内で殉職している。
省2
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(2): 2020/09/06(日)12:41 ID:PfhVv6gE(2/6) AAS
日本軍がいなかった避難壕では、集団投降した例も多い。
アメリカ軍が上陸後すぐに進攻した中城村では日本軍が4月2日には撤退してしまい住民だけが残されたが、
島袋地区では4月3日に1500人が集団投降して地区住民のほとんどが生き延びた。
日本軍の主陣地が構築された宜野湾村では、村南部のように日本軍とともに「軍民雑居」となった地域では、
住民は投降を許されず、日本軍の指示で本島南部に逃げることとなり多くの犠牲者を出している。
嘉数地区や佐間下地区などにいた住民の犠牲者率は48%に上る。
一方で早々に日本軍が撤退した村中北部は、フトゥキーアブ壕で4月4日に500人など集団投降した例が多く、
新城地区や喜友名地区などの住民の犠牲者率は13%と低めである。
なお、集団投降した避難壕では、移民帰りの人がいるなどして「鬼畜米帝」との洗脳にとらわれていなかった例も多い。
「鬼畜米帝」を信じてアメリカ軍の投降勧告に応じなかった壕では、容赦のない攻撃を受け全滅したりしている。
省4
263: 2020/09/06(日)13:58 ID:PfhVv6gE(3/6) AAS
アメリカ軍の攻撃及び住民による自決以外に、日本軍による直接的な住民殺害があった。
具体的な事例として、久米島守備隊住民虐殺事件(22人死亡)、渡野喜屋事件(35人死亡・15人負傷)、名護市照屋忠英学校長殺害などが挙げられる。
日本軍により殺害された住民の総数は明らかではないが、安仁屋政昭は1,000人と推定する見解を採り
元沖縄県知事(元社民党参議院議員)の大田昌秀は、スパイ容疑での直接殺害だけで数百人から1,000人以上と推定している。
護法との関係で戦闘参加者と認定された民間人のうち、14人は日本軍による射殺が理由となっているが、大田はこれも実数は数倍に上ると見ている。

住民殺害の動機は、スパイ容疑での処刑が中心で、そのほか物資や壕を巡る日本兵と住民の争いで殺害された事例や、
地下壕の探知を避けるために泣き声の止まない子供を殺害した事例などもある。
このような事態に至った原因について、極限状態で不可避というだけの問題ではないとの見方もある。
一因として、日本兵が住民に対し、愛国心や武を尊ぶ精神に欠けると見て不信感を抱いていたことや、
軍民一体化と防諜のため、沖縄語の使用が禁止され、その使用者を処分する方針であったこともある。
265
(2): 2020/09/06(日)18:15 ID:PfhVv6gE(4/6) AAS
また、スパイ容疑での処刑については、アメリカ軍収容下に入った住民が食糧集めに駆り出されているのを、
アメリカ兵を日本兵の隠れ家へ誘導しているものと戦場の混乱の中で誤解したことが一因ではないかと推定されている。

こういった事例が強調されていることに対し、沖縄戦に参加した日本軍兵士からの反論もある。
嘉数の戦いに参加した兵士の一人(独立歩兵第13大隊所属)は、「戦後、日本軍は沖縄県民に犠牲を強いた悪い兵隊だと宣伝された。
しかし私の知るほとんどの下級兵士は自分の命など眼中になく、洞窟に潜んで助けを求める県民のため身を挺して戦った。」と述べている。
また、泣き声でアメリカ軍に見つからないよう、「日本軍により幼児が殺された」とする教科書記述にも異説がある。
匿名を条件に取材に応じたある地方議員は「老人会でのひそひそ話に耳を疑ったことがある。
子供が軍命令で殺されたとして遺族年金をもらっている人について『あの人、本当は自分で殺したんだよね』と話し合っていた」と語っている。

既述のように沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1,000人程度と推定されており、
残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。
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(3): 2020/09/06(日)20:50 ID:PfhVv6gE(5/6) AAS
沖縄本島に上陸したアメリカ軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。
ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。
嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。
前田丘陵四日間の戦闘は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。
国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここはアメリカ軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。
国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。
南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。

住民がスパイ容疑で処刑されることもあった。ある事例では、「民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。
文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。
中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。
省2
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(2): 2020/09/06(日)21:05 ID:PfhVv6gE(6/6) AAS
アメリカ軍の占領地域となった場所では、民間人収容所が捕虜収容所とは別に設けられ、地域住民や近在の避難民が収容された。
アメリカ軍は占領段階に応じたA-Dの4種の軍政要員を用意して、住民の管理・収容を進めた。
本島に11か所、周辺島嶼に5か所の計16か所が設置されたが、作戦上の都合などにより合併や閉鎖が適宜行われた。
本島では基地建設のために5月から7月にかけて中南部の無人化政策がとられ、北部東岸の収容所への強制移住が実施された。
そのため、宜野座地区収容所には、生存島民の2/3にあたる20万人以上が押し込められた過密な状態だった。

多くの場合、収容所は集落単位で管理され、それぞれ憲兵が配置されて監視していた。
境界が有刺鉄線で区分されている例もあった。
収容所の間での移動は禁じられ、違反すれば「カナアミ」と称する有刺鉄線で囲んだ仮拘置所に留置された。
収容所の内部的管理については自治体風の形式を採り、収容所ごとに「メイヤー」(市長)や民警察 (CP) といった役職を任命して、物資配給や労務者の供出などの実務を行わせた。

アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、
省3
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