【松山市星岡町】岡田の自撮り専用【africanusi1】 (102レス)
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96: 名無しさん [] 05/23(金)19:00 ID:s4X8egI/(1)
結成以前

テンコジの二人は、天山(当時は本名の山本広吉)が1990年に新日本プロレスに入門して、小島が翌1991年入門のほぼ同期の間柄であり、小島のデビュー戦の相手は山本が務めている。ヤングライオン時代からよく前座の試合でタッグを組んでおり、金本浩二&西村修とのタッグマッチでは前座の試合ながら、『週刊プロレス』の巻頭カラー3ページを飾ったこともある[1]。

結成
1993年のヤングライオン杯優勝後、山本は海外武者修行に出発し1995年に「天山広吉」とリングネームを改め凱旋、蝶野正洋・ヒロ斎藤と狼群団を結成するなどの活動をし始める。その後、狼群団はnWoジャパンへと発展し、新メンバーとして武藤敬司が加入した。武藤は、蝶野のケガによる欠場中に当時新日本体所属だった小島をnWoジャパンに勧誘し、小島もこれに同意し軍団入りする。しかし、天山ら旧来からのメンバーはこれに反発したため、両者の間には軋轢が生じるが1998年のSG TAG LEAGUE公式戦の武藤&小島vs天山&nWoスティングの試合で戦いを通じて小島のことを理解し、軍団入りを認める。そして翌1999年1月4日、天山と小島はヤングライオン時代以来のタッグで天龍源一郎&越中詩郎組の保持するIWGPタッグ王座に挑戦、これを奪取する。以後、このベルトを巡り永田裕志&中西学組と抗争を展開し、新日本のタッグ戦線を盛り上げた。

2000年にはその活躍が認められ、プロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を獲得した。ところが、2002年に小島が武藤と共に全日本プロレスへの移籍が決定した。そして新日本プロレス所属の最後の試合はやはりテンコジで、試合後花道を去ろうとする小島にマイクを握った天山は、「小島、出て行け、タコ! 全日本でも… どこだろうと! 頑張れよお前! わかってんのか! コジ! わかったか!」と天山一流のエールを送ると、これに対して小島は深々と頭を下げ花道を去り、テンコジも解散となった。
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