◆三島由紀夫の遺訓◆ (514レス)
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122: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)11:11 ID:fmk7MlFr(1/12)
堀辰雄といふ小説家は胃弱ぢやありませんでしたけれども、肺結核で、昔、薬がない時代ですから病気が長く
続いたんです。堀辰雄の小説は非常にうまいしきれいな小説ですけれども、なんとなく微熱が出てゐる、なんとなく
寝汗が出てゐる。
よく明治時代の小説にありますが、胸の悪い女の人は美人に見えて、白い頬つぺたにポッと赤みがさしてて
きれいである。堀さんの小説を見ると、いかにも胸の悪い美人といふ感じがするんです。私は小説と肉体との
関係といふものを、これもずいぶん考へました。私も実は昔胃弱で、大蔵省にゐた頃は非常な胃弱でした。
当時から、小説の締め切りが近づくと胃が痛んでしやうがないんで、壁に足をのせて逆立ちして、しばらく
我慢したりしてた。こんなことを続けてゐたら今に肉体的破産である、さう思ひまして私は、自分の身体を鍛へ
直さうと思つたわけです。(中略)
私は、文士といふものは肉体のもうひとつ奥底にあるもので書くんだが、肉体といふものはそれを媒体にして
出てくる大事な媒体だといふふうに考へるんです。

三島由紀夫「日本とは何か」より
123: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)11:13 ID:fmk7MlFr(2/12)
小説を書くときには、自分の幼時記憶やら、あるひはもつと生まれる前の記憶もあるかもしれません、人類の
いろんな記憶がわれわれの精神のなかに堆積されてゐる。自分の無意識のなかへ手を突つ込めば、どこまでズルズル
入りこむか分からない。しかしその奥そこに何かがあつて、それが自分に芸術作品を書くやうにそそのかしてゐる。
多少神秘的な考へですけれども、ユンクの言ふやうな集合的無意識、その集合的無意識がある人間に技術を与へて
小説を書くやうに促してゐるんだといふふうに私は考へるわけです。
(中略)書くといふ行為にも肉体が媒体になつてゐるのがはつきりしてゐるんですから、したがつてその媒体に
何かの故障があれば、もつと基にあるものが出てくるときにどこかでひつかかるに違ひない。これは、フィルターで
濾されるやうなものであります。私は、小説家としてなるたけ濾されないで、途中で何かにひつかからないで
出てくるやうに自分の身体をこしらへようと思つたのが、私が体育に精を出した端緒でありました。

三島由紀夫「日本とは何か」より
124: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)11:14 ID:fmk7MlFr(3/12)
と申しますのは、前にお話ししたやうに、堀辰雄さんの小説といふものは非常にいいけれども、堀辰雄はどうしても
旋盤工の話は書けない。どんなに頑張つても新宿デモの話を書けない。堀さんの小説の世界といふものは、完全に
限られてゐる。それからまた川端康成さんは、これは非常な胃弱といひますか不眠症の方でありまして、やはり
この方の小説は非常に優雅な美しい小説でありますけれども、川端さんがストライキの小説を書いたといふものは
ひとつもない。さういふ具合に、作家といふものはかなり肉体によつて掣肘されてゐるやうな感じがする。
人間の問題全部に興味を持つのが作家であるとすれば、その媒体でもつてひつかかるものをとらなきやならない。
媒体をなるたけ自由に、透明に自在にしておいて、さうすることによつて媒体の力をフルに使つて媒体以前のもの、
自分のもつとも源泉的なものを表に出さなきやいかんといふふうに考へてきたわけです。

三島由紀夫「日本とは何か」より
125: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)11:32 ID:fmk7MlFr(4/12)
(中略)
そして、日本といふ国が非常に特徴的だと思ふのは、私が日本のことを考へると日本も日本のことを考へて
ゐるんだといふ神秘的な共感を感じるんです。といひますのは、世界の国のなかで日本ほど「自分は何だ、
日本とは何だ」といふことをしよつちゆう問ひつめてきた国はないんぢやなからうか。(中略)
私は、日本といふものは何だといふことを考へますと、日本とは何だと考へることが日本なんだといふふうな結論を
出さざるを得ない。(中略)
そして日本が自分自身に対する問ひかけ、日本とは何だといふ問ひかけは、そのままやはり私個人の問ひかけと
同じであるといふふうに考へるわけです。
そこで、さつき申しあげたやうなふたつの問題がつながつてくる。私は今のやうな時代には、つまりは安保賛成、
反対といふやうな簡単な問題ぢやないんだ、これから日本といふ国は、「日本とは何だ」といふことを非常に
鋭く鋭く、ますます問ひつめられる状況にあると、かう判断するわけです。

三島由紀夫「日本とは何か」より
126: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)11:43 ID:fmk7MlFr(5/12)
安保については、自民党の悪口を言ふやうですが、安保賛成か反対かといふことで私は日本人全部を分けるといふ
考へには賛成ではない。これは、あたかも白人と黒人とにアメリカ人を分けるやうなもんだ。私はやはり、
安保反対か賛成かで分けられないものが日本人のなかにある。それが、日本人が合理的に安保に賛成したはうが
生活が楽であるといふやうな論理算段、理性判断ぢやなくて、情緒判断における選択といふものがどこかにある。
これが七〇年問題のこれから先の大きな問題になるんぢやないかといふことを、私は信じて疑はないんです。
これから一年、来年の六月の安保は自動延長になるでせうが、さういふ時期を経過して日本が揺れ動いて
いくときには、表面上のかたちは安保賛成か反対かといふことで非常な衝突が起こるでありませう。しかし私は、
安保賛成か反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がするんです。

三島由紀夫「日本とは何か」より
127: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)11:46 ID:fmk7MlFr(6/12)
これは単なる文学者の直観といひますか、文学者的ないひ方と思つて聞いていただいて結構なんですが、
私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成と
いふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。
そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。私はこの安保問題が一応方がついたあとに
初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。
そのときには、いはゆる国家超克といふ思想も出てくるでありませうし、アナーキストも出てくるでありませうし、
われわれは日本人ぢやないんだといふ人も出てくるでありませう。しかし、われわれは最終的にその問ひかけに
直面するんぢやないかと思ふんです。

三島由紀夫「日本とは何か」より
128: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)11:48 ID:fmk7MlFr(7/12)
たまたま私がさういふことを言ひますものですから、こなひだの全学連とのディスカッションで私の隣へ
ヒッピーふうな学生が来まして、ふけだらけの髪の毛が肩まで垂れて、髭を生やして不気味な感じでありましたが、
その男が「三島、お前は可哀さうだ。お前、日本人てとこに、完全に囲ひの中に入つてゐる一種の家畜にすぎない」
「君は一体なんだ」
「俺は日本人ぢやない」
「君はどこか外国で生まれたの?」
「いや、俺は無国籍だ」
「君の戸籍、どうするの?」
「戸籍はあるけど無国籍だ。俺は日本人なんてもんぢやない。人間だ」
といふんです。私はその顔をいくら眺めても、やはりモンゴリアン的な日本人の風貌をしてをりまして、これは
どう考へても西洋人ぢやないと思つた。
かういふ人たちがこれから増えてくる、「あくまで私は日本人だ」「オレは日本人ぢやない」――さういふ
二種類の人種がこれから日本に出てくる。そのときに向かつて私は自分の文学を用意し、思想を用意し、あるひは
行動を用意する。さういふことしか自分には出来ないんだ。これを覚悟にしたい、さう思つてゐるわけであります。

三島由紀夫「日本とは何か」より
129: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)21:07 ID:fmk7MlFr(8/12)
もし暴力肯定が戦争肯定につながるといふ市民主義的な思考に従ふならば、三派全学連の存在理由は全く
認められないことにならう。その点では私は国家といふものの暴力を肯定してもそれが直ちに無前提に戦争を
肯定することにはならないといふ立場に立つものであるが、この立場に真に対立するものが次のやうな毛沢東の
言葉なのである。すなはち「われわれの目的は地上に戦争を絶滅することである。しかし、その唯一の方法は
戦争である」これが毛沢東の独特な論理であつて、この論理がすなはち右に述べたやうな暴力肯定の論理と
ちやうど反極に立つものである。すなはちそれは平和主義の旗じるしのもとに戦争を肯定した思想なのである。
私は戦後、平和主義の美名がいつもその裏でただ一つの正しい戦争、すなはち人民戦争を肯定する論理に
つながることをあやぶんできたが、これが私が平和主義といふものに対する大きな憎悪をいだいてきた一つの
理由である。

三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
130: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)21:14 ID:fmk7MlFr(9/12)
そして、私の暴力肯定は当然国家肯定につながるのであるから、平和主義の仮面のもとにおける人民戦争の肯定が
国家超克を目的とするかのごとき欺瞞に対しては闘はざるを得ない。国家超克はいはゆる共産主義諸国の理論的
前提であるにもかかはらず、現実の証明するとほり共産主義諸国も国家主義的暴力の行使を少しも遠慮しない
からである。
くりかへして言ふが、私は暴力肯定が国家肯定につながることが論理的であると信ずる者であり、一方、
国家超克の思想は、無原則、無前提の暴力否定からのみ理論構成されると信ずる者である。(中略)
しかし「人民戦争のみが正しい暴力である」(このことは、「中共の持つ核兵器のみが平和のための正しい
核兵器である」といふ没論理をただちに招来する)といふ思想は、それほど新しい思想であらうか。それは又、
古くからある十字軍の思想であり、その根本的性格は「道義的暴力」といふことであるが、道義的主張はどんな
立場からも発せられうるものである。

三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
131: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)21:17 ID:fmk7MlFr(10/12)
かくてあらゆる道義が相対化されるときに、被圧制、被圧迫の立場のみが、道義的源泉であるとすれば、その
自由と解放は、たちまち道義的源泉を涸(か)らすことになるのは自明である。道義の問題を別としても、暴力に
質的差異をみとめること、正義の暴力と不正義の暴力をみとめることは、軍隊と警察の力のみを正義の力とみとめ、
その他の力をすべて暴力視する近代国家の論理と、どこかで似て来るのである。かくて毛沢東の論理は、結局、
国家の論理に帰結する、と私は考へる。
私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であらうとする考へ方を好まない。この考へ方は、
責任観念を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となつて、世人の
憎悪の的になることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないのである。
自分がいつも正しい、といふのは女の論理ではあるまいか。

三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
132: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)21:21 ID:fmk7MlFr(11/12)
(中略)
彼らは今なほ「朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね」といふやうな、古くさい左翼風の下品な
きまり文句のとりこになつてゐた。そして彼らは、目に見える天皇像があまりにも週刊誌に毒され、マス・
コミュニケーションに毒されてゐる、その毒された媒体を通してしかこれを評価し得ないことも明らかである。
彼らはその根本について少しも疑つてみようともせず、また、マス・コミュニケーションに耐へながら存続して
ゐる天皇といふものが、何ゆゑこのやうな新しいマス・コミュニケーションと極度の言論の自由の中で存立し得て
ゐるかといふ、歴史的意味や時間の連続性の問題についてもよく考へてゐないことが察知された。(中略)
天皇といふものが現実の社会体制や政治体制のザインに対してゾルレンとしての価値を持つことによつて、いつも
その社会のゾルレンとしての要素に対して刺激的な力になり、その刺激的な力が変革を促して天皇の名における
革命を成就させるといふことを納得させようとしたがうまくいかなかつた。

三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
133: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2011/02/13(日)21:22 ID:fmk7MlFr(12/12)
天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての天皇もあり得ない、
(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。すなはち、天皇は私が古事記について述べたやうな
神人分離の時代からその二重性格を帯びてをられたのであつた。この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、
現実所与の存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての、観念的な、理想的な天皇像といふものは
歴史と伝統によつて存続し得るし、またその観念的、連続的な天皇をいかに否定しても、そこにまた現在のやうな
現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残るといふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと
私は考へる。そして現在われわれの前にあるのはゾルレンの要素の甚だ稀薄な天皇制なのであるが、私はこの
ゾルレンの要素の復活によつて初めて天皇が革新の原理になり得るといふことを主張してゐるのである。

三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
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