悟りに関する誤謬 (143レス)
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1: 神も仏も名無しさん [sage] 2024/09/06(金)17:16 ID:sxywubZe(1/2)
悟りは心の万能薬ではない
諸行無常であるため、心が完全な安定状態になることはあり得ない
釈迦の言う悟りと現代人の考える悟り概念は異なると言わざるを得ない
124: 神も仏も名無しさん [sage] 01/23(木)18:33 ID:vtXCWWIz(1/4)
果たして、意識は無意識の付属品に過ぎないのか
実感や納得という感覚が無意識から与えられるものであり
意識が主体的に感知しているものでないならば
意識は何のために存在するのか
意識は自己の内的世界の傍観者に過ぎないのか
意識は、無意識により計算され選び出された候補を、ただ承認する
我々は物事を考える時に、論理的操作をいちいち意識では行っていない
ただ無意識が操作検討した結果を意識し、無意識から与えられる納得を感じ
それを承認したり、選び出したりする
そして、それらの結果に対して、これはおかしくないかと疑問を挟むのも
無意識が処理した結果現れる違和感を意識しているに過ぎない
このような状況を認めるならば、意識は無意識的操作の感想を実感するものであるに過ぎない
125: 神も仏も名無しさん [sage] 01/23(木)18:39 ID:vtXCWWIz(2/4)
しかし、仮に、無意識は作り出した実感や納得自体を感じることはできないとしたら、どうだろうか
無意識は論理的操作を行って、実感や納得を生起することはできるものの
それを実際に味わうことができないとしたらどうだろうか
無意識的操作の最終的結果確認として、実感や納得が必要であり
それを経ないと操作完了を確かめられないとしたらどうだろうか
もしそうであるならば、我々の意識は、無意識が作り出す実感や納得について、どれを味わうかを決めているのではないか
あるいは、実感や納得の強さを体験してみることでその強さを測り
それで論理的操作を完了してよいかを判断しているのではないか
126: 神も仏も名無しさん [sage] 01/23(木)18:44 ID:vtXCWWIz(3/4)
そうであるならば、我々の意識はあくまでも感情のテスト器官であり
論理的操作や判断は無意識が行っていることになる
思い返してみて欲しい
我々はとっさに言葉を発する時に、いちいち頭で考えているだろうか
頭の中から勝手に出てくる言葉を発してはいないか
熟考する時も同じである
対象となることの様々な要素について意識は反芻するだけで
ひらめきはどこからか突如として現れる
意識的に演繹して結論を出すことなど、ほとんどないと言っていい
我々はどこからか現れる論理の整合について、これだという実感や納得を味わっているに過ぎない
そして、その実感、納得の強さによって、その整合の適切性の程度を測っている
我々の意識は、感情的に無意識の論証結果の適切性を測る感情型判定器だと言えるだろう
127: 神も仏も名無しさん [sage] 01/23(木)18:59 ID:vtXCWWIz(4/4)
このことは、意識を静めることが、感情を静めることに等しいことからも分かる
感情が昂っていると、無意識からの実感や納得の情報の判断を誤り
誤ったことを判断してしまう
意識を感情のままにせずに静めておくことが
無意識からの判断を適切に是認することにつながる
無意識の判断を意識が歪めないように、意識を平静に保つ
我々は意識のみからなる存在ではなく
無意識が我々の土台を支えていることに気を払うべきではないか
感情が心において不純物に過ぎないのであれば、我々の意識自体が心の不純物に過ぎないということになるだろう
感情を捨てて無になるというのであれば、我々は無意識的計算機械であり
意識の存在は単なる不具合に過ぎないだろう
我々が、心の構成要素として意識を有意味とするならば
感情を有意味とせざるを得ない
排するべきは感情の暴走であって、感情自体ではない
自己の感情に対する客観的考察と評価、これもまた無意識が行うものである
意識と無意識の協調と調和が、我々を平静で賢明な存在にするだろう
128: 神も仏も名無しさん [sage] 01/24(金)03:21 ID:VjAMUyYT(1)
客観的という概念が客観的に扱われることは決してない
なぜなら、我々が思考の基礎として持ちうるものは主観だけだからである
全ての客観性は、主観的思考によってシミュレーションされた客観性である
理解が主体的行為ではなく、意味の共有も幻想である以上
我々が想定する客観的世界もまた、非主体的で幻想的である
我々が主観的に想像し、その通りであって欲しいという願望の対象として
客観的世界を可能な限り自己批判的に、主観的に想像するのみなのである
129: 神も仏も名無しさん [sage] 02/15(土)22:27 ID:LEQyfvu+(1)
意識よりも無意識の方が優れているならば
なぜ意識が存在するのか
一つ仮説を立てるならば、学習を行うには無意識だけではできず
意識が必要であるという可能性である
人間というハードウェアに学習された、無意識的動作というソフトウェアを構築するために
意識というソフトウェア開発システムが必要だという可能性である
意識は無意識というソフトウェアを開発し
そのために試行錯誤を行えなくてはならない
この試行錯誤を行うためには、意識は自己存在に自覚的であるという特徴が必要なのだろう
そして、無意識というソフトウェアが作られたならば
後はそれに任せて、意識はできるだけ動作しないことが有用である
意識は、必要な時に必要なだけ動作することが好ましい
意識は自由度の高さゆえに、必要な程度を越えて様々なことを想定し
その結果、ありもしないことを思い付いてはそれに悩むということが起こる
想定するということ自体は必要なのに、想定機能が働き過ぎるがゆえに
人は自分の意識を制御できないという事態が発生する
これに対処するためには、人は心を制御する無意識のソフトウェアを開発し
それに委ねるということが必要になると考えられる
130: 神も仏も名無しさん [sage] 02/21(金)17:12 ID:n0cf307x(1)
感情は無意識から出て意識として表れるものだろう
意識にとっては感情は意識の一部であるために
それを否定したくとも、自分自身を否定することになるため難しい
感情を制御したいならば、無意識を制御しなくてはならない
そのためには、感情が強く表れない環境に身を置けるようになる必要がある
そして、感情は我々を行動させようとするが
行動は理性によって行うべきものであることを、無意識に対して刻み付けなければならない
何故ならば、感情を生み出すのは無意識ならば
感情の力に抵抗しようとする抑制心を生み出すのも無意識だからである
意識のレベルで感情をその場その場で制御しようとするのではなく
感情の高まりに対して冷静さを挟み込む能力を養わなければならない
感情を自覚し、それをただの感情に過ぎないとして、冷静に見る
この練習を静かなところで行い、次第に日常の場面に適用する
そのようにして、無意識に感情の制御という機能を刻み付ける
自転車に乗る練習をするように、感情との一体化から離れる練習をする
感情がなくなることは決してないだろうが
感情が心の全てを占めることに抵抗することはできるだろう
131: 神も仏も名無しさん [sage] 02/28(金)19:18 ID:9QnfRUje(1/4)
基本的に
人は先入観に基づいた世界観の中で思考し判断する
それが言語的であれ非言語的であれ変わらない
新しい世界が開けたと感じるような体験をしたところで
それは新しい先入観にすり変わったというだけで
先入観に基づいていること自体には何の変わりもない
人は進歩をしているようで、実はそのような先入観の世界の中を動き回っているだけに過ぎない
おおざっぱな先入観であれ、微細な先入観であれ、先入観であることには何の変わりもない
そして、そのような世界の中にいる限り、何かを勝手に決めつけ
決めつけに基づいて行動し、決めつけを強化することを喜ぶ
そのような世界に生きていて、悟りを求めるなどと言っても
悟りという名の新たな先入観を求めるに過ぎない
132: 神も仏も名無しさん [sage] 02/28(金)19:26 ID:9QnfRUje(2/4)
もし、まことに悟りと言えるようなことがあるとすれば
それは、この先入観の世界からの離脱
先入観の世界という夢からの目覚めであろう
それが、その人にとって利益になるかどうかは定かではない
単に、先入観に支配された人間世界への幻滅を感じて
ただ、そこから離れることを望むだけで、何か有益なことが得られるなどという保証はない
悟りというものがあったとして、それが本人にとって有益である保証は全くない
もちろん、無益である保証もない
そして、決めつけの世界から脱出した代わりに、決めつけの世界の中でただ一人覚めているという
居心地の悪い状態に陥るに違いない
道を極めた結果に得るものが、ただの虚無感でないという保証は全くない
133: 神も仏も名無しさん [sage] 02/28(金)19:35 ID:9QnfRUje(3/4)
そのような人が、それ以上世界で生きる意味を求めるならば
それは、再び先入観の世界へあえて入るということになるだろう
他人とコミュニケーションを行うならば、先入観という幻想を共有することが必要で
それがなければ、言葉は通じても、内容は全く伝わらないという無意味な状態になるだろう
果たして、先入観という幻想から覚めることは有益なのか
そのためには、先入観に支配された世界に対する拒絶感
もうこの世界は沢山だという、絶望に至る必要があるだろう
人は世界に対して、わざわざ絶望したいだろうか
できれば、希望を持ちたいのではないか
悟りを得たいと望む人は全て、世界に絶望しているのだろうか
そうでなければ、わざわざ絶望を知るということが必要になる
134: 神も仏も名無しさん [sage] 02/28(金)19:49 ID:9QnfRUje(4/4)
人は、それほどに、世界に対して突き放した態度を持ちたいのだろうか
むしろ、この甘美な先入観の世界で夢見るように生きたいのではないか
悟りを求めるということは、この甘美な夢から覚めることを意味するだろうし
その後に残るのは、幻想を剥ぎ取られた剥き出しの事実の世界だろう
それは、大多数の人にとって、望ましい世界だろうか
残酷な事実の世界に生きるよりは
可能ならば甘美な虚偽の世界に生きる方が幸福ではないか
そのような世界からの離脱を求める人は、
そもそも虚偽の世界自体が甘美でも何もないような人だろう
釈迦の在世当時のような悲惨な世界ではない現代社会において
ほどよく調節された、まあまあの虚偽の世界を拒絶するまでの必要があるのか
少し生活をよくする道具を求めたつもりが、
それは実は世界を破滅させる力を持った強力過ぎる武器であったなどという可能性はないか
無条件に、悟りというものが「今よりも良い」などと考えるのは危険なのではないか
人は問題に対して適切な対処を得ることが重要で
過大な対処を得てしまったら、そのこと自体に悩むことになるだろう
135: 神も仏も名無しさん [sage] 03/01(土)16:26 ID:+lUfxNz8(1/6)
無我についてもう一度考えてみる
我はないのであれば、今何かを感じ思っているのは誰なのか
感じ思う何者かがいて、それを認識する何者かがいる
それらは別の存在かと言うと、心が接続されているために一体のものであるように考えられる
しかし、感じ思うものとそれを認識するものは別々でもある
さらに言えば、感じ思わなくとも、心に何事かを思い浮かばせる何かもある
それは認識できないが、確かに何かがある
なぜならば、我々は思いもしなかったことがどこからか思い浮かんできて
それは思考と関係あるようでも、ないようでもあるからである
これを以前から無意識と呼んできている
果たして、我とはこれらのどれなのか
それとも、これら全てを含めて我なのか
しかし、それならば、我は我であると認識できないものも我であるということになる
無意識は意識からは認識できないからである
136: 神も仏も名無しさん [sage] 03/01(土)16:35 ID:+lUfxNz8(2/6)
我がこれらのものの内のどれかであるということはないと言える
もしそうであるならば、認識しているにもかかわらず、我ではないものがあるということになるからである
では、これらの全てをまとめたものが我ならば
先に述べたように、認識できないものも我であるということになる
我であると認識できないものを我というのは適切なのか
無意識だけを我ではないというならば
我々は我でないものから気付きを与えられているということになる
すなわち、我は独立したものではない
我というものをどう定義しようとも、何かがおかしくなる
我には単一性と統合性のいずれかを否定する必要がある
137: 神も仏も名無しさん [sage] 03/01(土)16:48 ID:+lUfxNz8(3/6)
少なくとも、単一的で統合的なものとしての我は考えられないということになる
このようなものが、堅牢で不変であることはできるだろうか
心は単一的でも統合的でもなく、ただ思い思いに動く要素の集合体に過ぎず
それらの要素もまた、時と場合に応じて現れたり隠れたりし
時とともに変化し、同じままであるということがない
このようなものが堅牢で不変であるとは到底言えないだろう
138: 神も仏も名無しさん [sage] 03/01(土)16:54 ID:+lUfxNz8(4/6)
我々が思い浮かべ、またそうであって欲しいと望む
確固たる我というものがあるかと言えば、ないと言えるだろう
我々はとりとめのない、形も定まらず、時とともに変化していく
そのような幻のようなものであるに過ぎない
我々は、確かに自分の存在を認識する
しかし、その認識と、その認識から推測し、そうであって欲しいと願うような
堅牢で不変な自己というものは異なるものである
我々は、自己について多分に願望的であり
願望を現実であると信じているし、信じたいのである
しかし、それは事実ではない
139: 神も仏も名無しさん [sage] 03/01(土)17:04 ID:+lUfxNz8(5/6)
我々の心は変化するし
今まさに変化していってもいる
我々は自己を認識する時、いつも同じように自己であると認識しているように感じる
しかし、認識を行う方の自己自体が常に変化しているために、
変化しているものが、変化しているものを認識しており
ただ我々は、認識作用自体があることを頼みに、自己が変わらないと信じている
認識する主体と、認識される対象がともに変化しているのに、何をもって変化していないと確証を得ることができるだろうか
我々はそのような時に、記憶を頼りに不変性を信じようとするだろう
しかし、記憶もまた変化するものであるがゆえに
我々はどこにも基準となる不変のものを持つことができない
140: 神も仏も名無しさん [sage] 03/01(土)17:14 ID:+lUfxNz8(6/6)
言葉の意味、聞いた言葉であれ、書き記された言葉であれ
それもまた、記憶や認識の変化とともに解釈が変化していくものである
同じ文章を時を変えて読み返し直したら、異なる解釈を見いだすことはよくあることである
真理がたとえ真理だとしても、我々の解釈は不変ではなく
時とともに変化していく
現にそのようにして仏教自体が変化してきた
無我という真理もまた、人によって異なる解釈が為され
人によって異なる理解がされる
真理自体にも我というものはない
そして、無常という真理は、その真の姿を現すことはない
我々には、その現れの一側面を見るにも過ぎず
無常という人智を越えたもの自体を理解することはないのである
141: 神も仏も名無しさん [sage] 03/20(木)19:30 ID:3rn73J9p(1)
三毒の内の痴について考えてみると
痴とは自分が知らないということ自体を知らないことになる
知らないこと自体が痴であるならば
痴が分かったというならば、それは痴に囚われているということになる
分からないということが本性であるならば、それは常に分からないままであるはずであり
何かを分かった気になったならば、それは痴のある実体化された形の一つについてであり
痴自体については、相変わらず囚われているということになる
人間には、常に分からないままのことがあり
そのようなことが存在するということを心に留めておくことしかできない
痴から解放されるというならば、知と無知という分別から離れることでしかできない
何かを知ったように思われても、それを知ったとも思わない
何かについての完全な知識を得ることは決してないからである
我々が何らかの事実を完全に把握するのは、極めて厳密な前提に基づいて
厳密な推論規則を適用した結果が、厳密な結論になるという時に限られる
そのような知見は、限られた論理的世界の中だけの存在であり
現実的世界に関する知識や理解とは別の世界に属するものである
我々が論じたいのはあくまでも現実世界における物事なので
数学や論理学のような厳密性は決して得られないのである
厳密性が得られたと思うならば、それは痴に囚われているということになる
142: 神も仏も名無しさん [sage] 03/31(月)01:27 ID:+J9aNhlp(1/2)
悟りの万能性に対する疑いからこのスレは始まっているのだが
悟りを開く能力を持つ者がどのようであるかというと
そのような人は、世間一般並みの物事ではおそらく幸福を感じることはない
悟りを開くような人は、悟りを開くことでしか幸福を感じない
優れた人は、そうでない人よりも幸福であるかというと
実際には逆なのではないかという可能性が考えられる
優れた人は、優れているがゆえに、限られた物事しか楽しめない
それ以外は、陳腐なものでしかないからである
人の優秀さと、その幸福な物事の広さは反比例するという仮説が考えられる
優れた知恵を持った釈迦が、この世の最高の享楽を楽しむことがなかったように
むしろ、今の享楽に耽る凡夫の方が、幸福さという観点では優れているとさえいえる
人の能力と、その人が幸福であるかということは、比例関係にはない
その人の持つ能力に相応の生き方をする人が、幸福なのだといえる
143: 神も仏も名無しさん [sage] 03/31(月)02:02 ID:+J9aNhlp(2/2)
人が最も恐れることは喪失である
特に、幸福の喪失と救済の喪失を最も恐れるといえる
それらに限りがあったり、それらが虚偽であると気付かされるようなことを恐れている
しかし、物事には全て限りがあるのが現実である
そして、何かを喪失したら、必ず新たな何かが現れる
そうでなければ、我々は無そのものを体験するということになるからである
これはあり得ない
我々は常に有しか体験しない
それゆえに、何かを喪失するならば、何かが代わりに現れる
それがよいか悪いかは分からない
しかし、我々にできるのは、限りがあることを覚えておくことだけである
万物が変転することに覚悟する
それだけができることの全てであり
このこと自体もまた、忘れてしまうかもしれない
しかし、何もかもを忘れてしまうのであれば、それはむしろ幸福なのではないか
幸福を忘れるならば、不幸もまた忘れるからである
最後に残るのは平穏であることを願う
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