[過去ログ] 純粋・応用数学・数学隣接分野(含むガロア理論)19 (1002レス)
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931
(1): 現代数学の系譜 雑談 ◆yH25M02vWFhP [] 04/26(土)14:02 ID:2tFMGt7T(4/7)
>>910
>興味深いコピペに感謝

どうもです
遠藤 周作先生(下記)
”「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り”か
昭和の時代に、よくTVに出て、こりあん先生と呼ばれていましたね
”1935年、旧制灘中学校に入学”ね。当時の灘中は 受験校ではなかったが、兄の正介さん よく出来たんだ
”江戸時代の滑稽本を好み、特に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に熱中し、弥次喜多に憧れ、自分も彼のような人物になりたいと考えていた”
TV向きの人だったかも

(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C
遠藤 周作(1923年3月27日 - 1996年9月29日)は、日本の小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者
『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった
来歴・人物
父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後、12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会で洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した
その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。卒業後、1950年にフランスのリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年に発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある
1960年代初頭に大病を患い、療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた
『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる
幼少時代
1935年、旧制灘中学校に入学
宝塚市にある小林聖心女子学院で音楽教師として勤め始めた郁がそこの聖堂で5月29日に洗礼を受け、6月23日には兄弟そろってカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂で洗礼を受けた。周作の洗礼名はパウロ
正介の勉強指導の成果もあり、入学当初は上位のクラスに入ったが、映画狂・読書狂・ジョーク好きなど様々な要因により、徐々に成績が低下、卒業前には成績最下位のクラスに在籍していた。江戸時代の滑稽本を好み、特に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に熱中し、弥次喜多に憧れ、自分も彼のような人物になりたいと考えていた
1939年 この時すでに、(兄の)正介は四修で第一高等学校に合格し、寮生活を始めている
1939年に正介の影響もあり、四修で三高[3][要ページ番号]を受験するが敢えなく失敗している。1940年、再び三高を受験するが失敗、広島高も失敗。この為、阿川弘之等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい[要出典]。同年、正介が一高を卒業し東京帝国大学法学部に入学
935: 現代数学の系譜 雑談 ◆yH25M02vWFhP [] 04/26(土)14:35 ID:2tFMGt7T(5/7)
>>931 訂正

”1935年、旧制灘中学校に入学”ね。当時の灘中は 受験校ではなかったが、兄の正介さん よく出来たんだ
  ↓
”1935年、旧制灘中学校に入学”ね。当時の灘中は いまほど受験校ではなかったが、兄の正介さん よく出来たんだ

だれかが書いていたが、昔は 地元の小学校から結構入ったそうですが
いまは、レベルアップして、入学が難しいとか

(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%98%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
灘中学校・高等学校
概要
1927年(昭和2年)設立[3]。
1学年の生徒数は中学180名、高校220名である。
沿革
灘五郷で酒造業を営む、嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立された[3]。
設立にあたっては嘉納家の縁戚で、講道館柔道の創始者であり、東京高等師範学校および附属学校の校長を23年余り務めた嘉納治五郎が顧問として参画。治五郎が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」が校是となった。

https://chakuwiki.org/wiki/%E7%81%98%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1#google_vignette
灘中学校・高等学校
東大に関西弁を持ち込んでいる主。
甲陽もね。でも灘が圧倒的多数なんだよな〜by甲陽生

http://www.nada.ac.jp/enkaku.html
灘中学校・灘高等学校
沿革
戦後、灘中学校は旧制中学の優れたところを引き継ぐべく、中高六箇年一貫教育の灘中学校・高等学校として再出発し、全国的なレベルにあったスポーツに加えて、学業でも昭和40年代には全国屈指の進学校へと躍進を遂げてきました。一学年あたり200名そこそこの小さな学校ですが、創立以来のリベラルな校風と学問への高い志の下に質の高い教育を目指しています。

https://toyokeizai.net/articles/-/20190
灘校生にとっての「偏差値70」とは?
灘中学・高等学校 和田孫博校長に聞く
伊藤 崇浩 2013/09/30 東洋経済
――東の開成、西の灘と言われていますが。
ええ、そのように言われることは多いと思いますが、開成さんとのライバル意識はあまりないですよ。「灘」と言っても、日本中から天才が結集してくるわけじゃありません。通ってくるのはほとんどが近畿圏の子供たちですよ、あくまで「地方の一私立高校」、という位置づけですよ。
――「灘は地方の一私立」なんて言わないで下さいよ(笑)。東大合格者の数だって多いですよね。
学校側からは「自由にどうぞ」というわけですからシビアですよね。よく生徒に言っているのは、「自由と言うのは、ぬるま湯におるんとはちゃうぞ」ということです。芥川龍之介の『侏儒の言葉』の中に「自由とは山巓の空気に似ている」という言葉があります。山頂の空気はすがすがしいけど、そこに至るまでの道のりは険しいし、体が弱いものにとっては山の空気は薄くて苦しい。自由を謳歌するために自らを律することも必要や、ということですね。
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