【何もかもが】司馬遼太郎アンチスレ【嫌い】 (582レス)
1-

1
(3): 無名草子さん [sage] 2011/10/15(土)23:22
司馬遼太郎の一方的な決め付けが嫌い。
そのクセ裸眼の思索者とか馬鹿?
563: 無名草子さん [sage] 02/23(日)17:08
文化大革命後期の中国を指して司馬と陳瞬臣
”中国はいま,政治的陰謀というものが全く存在しない,歴史的に稀有な段階に到達したのですね.”
”本当にそうですね。ただ国際政治という面ではそこに歯がゆさを感じるんですよ.”
とかやっていた。(ソースは、中公文庫”中国をかんがえる
564: 無名草子さん [sage] 04/04(金)11:14
仏教は、発祥地のインドで衰弱していきます。その大きな理由の一つは、平等を説きすぎたからでしょう。釈迦はインド的な差別制度であるカーストをみとめませんでした。
仏教は北上します。
北上していくうちに、かつて西のほうからやってきて定住していたアレクサンドロス大王の兵隊の子孫、いまのアフガニスタン、
パキスタンあたりに住んでいた連中と出会います。かれらはヘレニズムをもっていました。
特技はヴィーナスを作る能力で、つまりは人間とそっくりの物をつくれる彫刻家をもっていました。
そこへ非常に形而上性の高い仏教が北上してきて混じり合ったとき、土地の人が、そんな難しいことを言われてもわれわれにはわからない、
その仏教はどういう形だ、教えてくれれば私たちが彫刻や絵画にしてみせる、と言ったであろうことが、仏像のはじまりだと言われています。
これがガンダーラの発祥で、ギリシャの造形能力とインドの思弁能力や形而上性とが合致した
565: 無名草子さん [sage] 04/04(金)11:16
日本にむかって歩きはじめた途中、こんにち流行りのシルクロードのあたりで、どうやら阿弥陀信仰やお経ができたようです。
ですから、浄土教というのはお釈迦さんとも関係なく、仏教そのものの正統の流れともじかの関係はありません。
 釈迦は、みなさん自分で解脱しろ、と言う。
 ところがそうしなくてもいいと阿弥陀如来は言うのです
つまり阿弥陀如来には固有の本願というものがあって、人を救わざるをえない、
人が逃げだしても救ってくださる、そういう救済思想が、仏教の名を冠して登場してきたわけです。
 仏教における救済思想の誕生は、キリスト教と関係があるのか、あるいはペルシャのゾロアスター教の刺激をうけたか、
ともかくも救済宗教が既存した土地で阿弥陀仏教が成立したんだと思います。
566: 無名草子さん [sage] 04/04(金)13:38
明治維新がただ一種類の思想で成立したとは思わないが、
イデオロギー正義体系としては朱子学(宋学)の尊王攘夷思想だった。
とくに維新後、尊王が拡大されイデオロギーの常として善玉と悪玉が設けられた。
マルキシズムもふくめて、イデオロギーが善玉・悪玉をよりわけたり
論断したりするときには幼児のようにあどけなく、残忍になる。」
「この国のかたち)
567: 無名草子さん [sage] 04/04(金)15:09
司馬遼太郎が考えたこと』〈13〉
ご存じのように、お釈迦さんは、原則として不立文字だったわけです。
釈迦はキリストのように救済を説かなかったのです。釈迦は解脱を説いたのです。解脱は禅宗の悟りと同じで、それは文字を用いたり、
ことばで説明したりすることでは、果たせないのです。釈迦が何を言ったか、釈迦はどういう思想を持っていたのか、よくわからないのです

いまは、日本語が紊乱しまして、上人と言うと、偉い人のようにきこえますが、上人というのは資格を持たない僧への敬称

日本の仏教は正規のお坊さんが、葬式の主役であったことは本来ないんです。だいたい仏教に、葬式というものはありません。お釈迦さんが、葬式の世話をしたり、お釈迦さんの偉い弟子たちが、
葬式のお経をあげたという話も聞いたことがありません。またずっと下がって日本仏教の、最初の礎であった叡山の僧侶が、
関白が死んだからといって、お葬式するために出かけていったこともありません。
 奈良朝におこった宗旨は、いまでもお葬式をしません。たとえば奈良の東大寺の官長が死のうが、僧侶が死のうが、東大寺のなかでお経をあげません。
そのためのお坊さんが奈良の下町にいて、それを呼んできて、お経をあげさせる。それはお上人ですから東大寺の仲間には入れてません。
 葬式をするお坊さんというのは、非僧非俗の人、さっきのお上人でした。つまり親鸞のような人です。
また叡山を捨てた後の法然も、そういう立場の人だったわけです。非僧非俗、つまりお医者で言えば、無資格で診療しているようなものです。
568: 無名草子さん [sage] 04/04(金)15:14
だから日本仏教には、表通りには正規の僧侶がいて、裏通りには非僧非俗がいて――つまり官立の僧と私立の僧がいて――どっち側が日本仏教かということも
思想史的に重要な問題です。私は鎌倉以後は非僧非俗のほうが日本仏教の正統だったと思います。
 もう少し歴史的な景色を申し上げますと、室町時代ぐらいまで、平安時代を含めますが、
京都あたりの鳥辺山とかいろんなところに焼場、葬儀場がありました。そこに墓もあり、葬式の列が行くと、食い詰めた人たちが、
非僧非俗のお坊さんの形になって、南無阿弥陀仏の旗を持ち、亡くなった方に供養のお経をあげますよ、
と言ってまわるわけです。遺骸をかついでいる遺族たちはかれらをわずかなお鳥目雇い、葬式のお経をあげさせていました。
 戒を受けた立派な僧は、そういうことはしませんでした。
 日本は、室町時代ぐらいから、非僧非俗の人がお葬式という分野に入りこみはじめたのです。
それはほとんど時宗という宗旨の徒(時宗)でした。これは僧にあらず俗にあらざる集団でした。
鎌倉の日本仏教興隆期に法然、つづいて親鸞が出てきます
569: 無名草子さん [sage] 04/04(金)16:46
人は死ねば空(くう)に帰する。教祖である釈迦には墓がない。むろんその十大弟子にも墓がなく、
おしなべて墓という思想すらなく、墓そのものが非仏教的なのである。
仏教においては世間でいう “霊魂” という思想もなく、その “霊魂” をまつる廟も持たず(釈迦廟などはない)、
まして “霊魂” の祟りをおそれたり、“霊魂” の力を利用(?)したりするなどといった思想もない。
幽霊というものも、本来の仏教には存在しない

仏教は、飛鳥・奈良朝においては、国家統一のための原理だった。『華厳経』は宗教的というより哲学的な経典でその経典を好んだ聖武天皇が、
この経典に説かれている宇宙の象徴としての毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ・大仏)を尊び
「国中の銅を尽くし」て鋳造した。天平感宝元年(794)、この天皇が東大寺大仏の前で「三宝の奴(みほとけのやっこ)」
とみずからを規定して拝跪したことほど、奈良朝における仏教と国家の関係を感動的に表現した光景はない。
平安初期に根づいた天台・真言は体系としては魅力的ものだったが王朝貴族たちはこの二つの体系に対し、
本来の仏教を求めず、現世利益を願う祈祷(本来の仏教にそういうものはない)をせがみ続け
、天台・真言もそれに応じつづけたために、高度な宗教性を失い、鎌倉の新仏教に光彩をゆずらざるをえなかった。
「この国のかたち」第1巻「日本と仏教
570: 無名草子さん [sage] 04/04(金)18:09
街道をゆく13 壱岐・対馬の道』
壱岐・対馬は古神道の源流ともいうべき古寂びた華やぎをもっている。
しかし明治国家が発明した国家神道というのは同じ「神道」の名を冠するとはいえ、
民俗的な古神道とは縁がなく、神聖国家論という普遍性のない理念を基礎にしている。

この国のかたち 三
紀元前十二世紀の「周礼」に、当時の中国の最小単位である「里」における祭祀が記されます。それによると、
それぞれの「里」には「社」という建物のないちっぽけな空き地があり、年ごとに里のひとびとが集まって、土地の神を祭り、五穀豊穣を祈ったといいま

このあたりは、日本の村ごとにある鎮守の氏神を想像すればいい。
両社は似ているというより、あるいは一つのものだったかもしれない。古代東アジアの文化は国別でみると異なるかのように見えつつ、共通の根があるように思える。
周代の社は単なる空き地だといったが、日本の古神道も、もとは、そうだった。社殿ができはじめたのは奈良朝ぐらいからである。
周の社は、古神道が多分にそうであるように、宗教というより、「礼」に属する概念あるいは存在だった。ときに木が植えられ、石が置かれた。
ただし、唐や宋ぐらいまでくだると、社も新興の道教にとりこまれてしまったような感がある
571: 無名草子さん [sage] 04/07(月)12:37
司馬の乃木愚将論に対して福田恆存は「私も将軍を智将とは思はない」としながらも、
旅順攻防戦における将軍の行動を調べた限りでは「将軍を愚将と呼ぶ事は出来ない」

乃木将軍愚将論に象徴されるやうな歴史の見方を、福田恆存は「合鍵を持つた歴史観」と呼んだ。
後世の人間は戦争の帰趨を知つてゐる。
結果を知つた人間が戦争の是非を論ずるのはやさしい。これが「合鍵を持つた歴史観」である。
歴史を現在の「見える目」で裁いてはならぬ歴史家は当事者と同じ「見えぬ目」を持たねばならない
と福田恆存はいふ。
572: 無名草子さん [sage] 04/20(日)12:23
逢坂剛 
「池波さんの、改行の多い独特のリズムは、まねができないでしょう。
すかすかに見えるんだけれども、そのすかすかの部分に読者の想像力をすごく刺激するものがあるから、短編を読んでも充実感がある
573: 無名草子さん [sage] 04/24(木)08:58
司馬遼太郎「新疆ウイグル自治区を訪ねて」(1975年
中華人民共和国の国の成り立ちを「多民族国家」と見做しています。
漢民族が大多数であっても中原以外の周辺地域にはさまざまな民族が生活しています。
そして、新疆に住む漢民族ではないウイグル人でも、同じ中華人民共和国の人民とはっきりと断言しています
単一民族だけで一つの国家を作ろうとする短絡的な民族運動に、司馬さんは警鐘を鳴らしているのです。
その不毛な民族対立が、住民の流血にまで発展してしまうからです

『街道をゆく』奈良散歩
『華厳経』のふんい気を感じるには、古代于闐国の存在は外せない。
正確にいえば、東大寺は古代于闐国の文化がゆきついた端であるともいえる。
古代の于闐(うてん)は、タリム盆地の南辺(西域南道)の代表的国家であった。
イラン系の血も濃厚に入っていたし、紀元前、はるかにアジアまできたギリシアのアレクサンダーの兵隊の血も濃厚に入っていたはずである。
于闐語は、インド・ヨ−ロッパ語族に属していた
于闐国こそ、東西文明が合流した夢のような国だったのではないか
574: 無名草子さん [sage] 04/24(木)09:32
中国の漢代にホータンを含む西域諸都市は、時には漢に服属し、時には匈奴に貢納し、時には独立して互いに攻伐したが、直接外国に統治されたことはなかった

結局西域南は漢の班超が服属させるところとなった
後のシルクロード貿易を繁栄させた立役者であるとも言える
11世紀の初めに、イスラム(カラハン朝 840〜1212)の侵攻を受けてその支配下に入った

9世紀半ば、天災とシベリア方面からのキルギスの侵入により、ウイグル遊牧帝国が崩壊すると、
帝国を構成していたトルコ系民族は、
モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯へと大移動を開始した
575: 無名草子さん [sage] 04/24(木)10:29
日本人は明治維新で儒教をすてた。一時は廃仏毀釈で仏教まで捨てた。洋学に大転換した。これを文化大革命であるとすれば、
毛沢東中国がやった文化大革命などよりも底の底からひっくりかえしたという点でははるかに大がかりで徹底している。

司馬遼太郎『花神
576: 無名草子さん [sage] 05/11(日)11:27
「南蛮」とは何かということをこの旅で感じたい
日本では、古くから、本朝、震旦(しんたん 中国)、天笠(てんじく インド)という3つの文明圏しかないという思い込みがあった
むろん朝鮮の存在は『古事記』『日本書紀』の時代から濃厚すぎるほどの認識があったが、文明圏としてはおおざっぱに震旦と天竺という2つの大きなものがあると認識してきた。
その三国世界観の壁を破って飛び込んできたのが、南蛮というものであった。
ちなみに、日本語解釈の上で南蛮というのはスペイン、ポルトガルのことであり、やや遅れて成立する紅毛(こうもう)というのはオランダのことである
南蛮の語感には、切支丹(カトリック)という意味の裏打ちがあり、紅毛の語感には、プロテスタントの裏打ちがあって、豊臣期末から江戸期にかけての切支丹禁制にあっては、
南蛮は全否定されるが、紅毛は江戸期が終わるまで長崎出島のオランダ館において貿易関係が続いた
577: 無名草子さん [sage] 05/11(日)11:34
この国のかたち
後世、津々浦々に八幡社がたてられるが奈良朝までは豊国(とよくに、い まの大分県とその附近)の宇佐にしかこの神はなかった。 
宇佐には、渡来人の 小集団が住んでいた。 
仏教渡来の世紀である6世紀の半ば過ぎ、この集団の なかで、「八幡神」という異国めいた神が湧出した。 
この神は風変わりなこ とに、巫(シャーマン)の口をかりて、しきりに国政にかんする託宣をのべる。 
欽明天皇32(571)年に湧出した時、「われは誉田天皇(ほんだのすめらみこと・ 応神天皇)である」と名乗った。 さらに仏教が盛んになると、「古(いにしえ)、
吾は震旦国(インド)の霊神なり。今は日域(にちいき)鎮守の大神なり」と託宣し新時代に調和した。
仏教をもって立国の思想にしようとしていた聖武天皇(701〜756)は、「八幡 神」の仏教好きをよろこび、天平10(738)年、宇佐の境内に勅願によって弥勒 寺を建立させた。
 これが神宮寺のはじまりになる。
 「八幡神」(シャーマニ ズム)が古来の神々(多分にアニミズム)を新時代へ先導しはじめたのである。
 さらに聖武天皇が大仏を建立したとき「八幡神」はしばしばこの大事業のた めに託宣した。 聖武天皇は大いによろこび、
大仏殿の東南の鏡池のほとりに 東大寺の鎮守の神として手向山(たむけやま)八幡宮を造営した。 
神社が寺院 を守護したのである。 いわば、同格に近くなった。 これが、平安朝に入っ て展開される神仏習合という、全き同格化のはじまりになったといえる。
 平 安朝の神仏習合の思想は神々の本地(ほんじ・故郷)はインドでたまたま日 本に垂迹したということが基礎になっている。
 滑稽だが思想というのはあくまでも大まじめなものである。 こ の平安朝の思想の先駆をなしているのが、
「自分は、むかしインドの神だった」 という「八幡神」の託宣であった、と
578: 無名草子さん [sage] 06/23(月)13:28
司馬遼太郎は「項羽と劉邦」で、
中国では『イ亢』という坑埋め殺人を表すためだけの漢字が作られてるほど大量虐殺手法として常識だったのだろうと書いてます
579: 無名草子さん [sage] 08/19(火)14:59
『長安から北京へ』には、日本作家代表団の一員として訪れた北京の中央民族学院で、
「私はモンゴル人です。バヤンタイと言います」と同年齢の人物に話しかけられて、
「私は、かれに抱きつきたい衝動を覚えた」という場面がある。
一方で、その民族学院での「ここは少数民族のための学院です」との説明員の言葉に、
「人間に多数も少数もあるか」と「腹立ちを押しころした」とも述懐し、こうした感情は「自己愛の変形」だと吐露している

中国の砂漠化に話がおよぶと、「結局、農耕民族に土地を掘り返すなと主張しつづけてきた遊牧民が正しかったということだ」
といい、モンゴル人の寿命が短いという話では、
「自然と共生した人間らしい暮らしをしている証拠だ」(草原の記』)

。「蒙古へ帰る隊商の荷の中からこぼれ落ちたらしい、表に乾隆通宝と鋳られ、
裏に満州文字が書かれているその古銭を見つめながら、漠北の民族のはかない運命を思いとめどもなく涙が流れた」という。
ここで司馬さんは心に一つの決意をする。「荒れ果てていく漠北の自然に追い立てられながら長城に向かって悲痛なピストン侵略を加え続けた騎馬民族や、
オアシス国家の運命ほどはかないものはない。最後に清朝を建てた満州民族でさえ、国家どころか、民族そのものも今日の地上から蒸発し去っているのである。
その巨大な滅亡の歴史が、一枚の古銭に集約されている思いがして、もし私の生命が戦いの後まで生き続けられ
るならば、彼らの滅亡の一つ一つの主題を私なりにロマンの形で表現していきたいと、体のふるえるような思いで臍を決めた(「一枚の古銭」『古往今来』)。
580: 無名草子さん [sage] 08/19(火)15:13
。旧制大阪高校受験に失敗しての帰り道、合格して喜ぶ友人に向かって「自分の敗惨に泣き出したい思いを辛うじてこらえ」な
がら、一方で「俺は馬賊になったるねん、俺には馬賊が似合いや」と覚悟を決めるようにいい、「事実、私は馬賊になるつもりで大阪外語の蒙古語科に入学した」と「一枚の古銭」(『古往今来』

『街道を行く5』中国文明が蔑視を込めて付けた民族呼称についてである。「狄などという文字の形のよさといい、音の金属的な快さはどうであろう。狄は
漠然と北方の非漢民族をさす言葉だが、文字に“犬のようなやつら”という気分がある。
犬のように素早く、犬のように群れをなし、犬のように剽悍で、犬のように中国文明に無知
であるところに、草原を駆ける狄の集団の蒼穹を虹のつらぬくようなたかだかとした爽快さが感じられないか」。

「歴世の中国人には申し訳ないが、むしろしばしば農民のほうが草原の侵略者だったのではないか」(『草原の記』)

『梟の城』は武家社会における忍者という卑賤な少数民族に発想し、その後に発表した
『花咲ける武士道』では、大阪人という封建社会の中でのモラルの少数民族に興趣を覚えた」(一枚の古銭)

最後の小説に何故、モンゴルではなく韃靼を選ばれたのか」と訊ねたとき、司馬さんは「モンゴルは書きたいとは思っ
ている。だが韃靼まではどうにか固体になるのだが、モンゴルは容易に固体になってくれない。思いをめぐらすと気体になってしまうのだ」と

ウランバートルを「都市がもつ必然の性格としての猥雑さがない」といい、モンゴル人を「奇跡的なほどに欲望すくなく生きている」(『草原の記』)と評し、
1990年代に入ってモンゴルが市場経済を取り入れ、経済が混乱しているということが話題になると、「鎌倉武士のようなモンゴル人に商人の真似ごとはさせたくないな」
581: 無名草子さん [sage] 08/31(日)11:44
『街道を行く』には、「私のような者でも酒場で酔っぱらって
“蒙古放浪歌”などを思い出しながら歌っていると、ばかばかしいことだが、涙がにじんでしまう」
582: 無名草子さん [sage] 09/03(水)16:00
司馬)氏の目には、人間はすべて普通の人間に見えているが、氏は、
その普通の人間というものについてたかをくくらないのである。この作者は、およそ人間が弱いものだとも信じていないし、弱くあることが許されているとも信じていない。
大村益次郎や土方歳三は、われわれの隣人と同じような顔をしているが、これを裏返せば、われわれ自身もまた彼らと同じく、いついかなる偶然によって、
あるいは歴史の修羅場で、あたかも英雄のように振舞わねばならないかもしれない、ということを意味している。
――山崎正和(劇作家)

八咫烏、大和にすむ出雲族を征服すべく日向から来た海族を導く
「神武東征」の話で、勝利を収めた日向の海族は統一国家を建設し初代の王は神武天皇を名乗ります

果心居士は、日本に漂着したインド人パラモン僧と日本の女とのあいだに生まれた混血

飛び加藤」五尺にみたぬ小男、大和国葛城山の麓、当麻村の生まれ、山伏となって修行し、ついに人霊から脱した

鳥羽上皇の女御の安産を真言の高僧が加持祈祷する話だが、その秘儀が詳しく説明されている
1-
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 1.759s*