日米関係以外のアメリカ合衆国の外交政策 (606レス)
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(1): 2016/05/05(木)08:27 ID:0M5TPf2L(1/2) AAS
アメリカのタバス侵入事件の重要性 4月 25, 2016 22:19 Asia/Tokyo
外部リンク:parstoday.com

イラン暦オルディーベヘシュト月5日、つまり今年の4月24日に当たる日、アメリカが
イランに侵入する事件が発生しました。実際、この日はアメリカにとっての失敗の日と
なりました。

このアメリカの侵入事件、つまりイラン南東部タバスの事件は、アメリカ軍による作戦が
失敗に終わった出来事でした。この作戦は、タバス砂漠の気候条件を利用して企て
られた緻密な計画だったのです。

当時のオルディーベヘシュト月5日に当たる1980年4月25日、アメリカの軍用機が綿密な
計画を実施する中で、夜間にイラン領内に入り、タバス砂漠の中にある着陸場に降り
立ちました。この侵略は1979年11月4日、スパイの巣窟だったテヘランのアメリカ大使館を
占拠した、イランの学生たちの自発的な革命的行動に対する反応を理由としていました。
イランの学生たちはこのスパイの巣窟を占拠する中で、表面上はアメリカの外交機関の
職員で、スパイ活動を行っていた人物を拘束しました。アメリカはイランへの干渉政策を
隠すため、この問題をイランへの軍事介入に利用しました。

このイーグル・クローというコードネームの作戦は、拘束されたアメリカ人を解放するために
実施されましたが、失敗に終わり、イラン・イスラム革命史にイラン国民に対するアメリカの
侵略的な目的を示す証拠となりました。

この作戦計画では、はじめに兵士を乗せた軍用機3機と燃料を乗せた輸送機3機が、
オマーンにあるマシーラ島から出発し、イランの領空に侵入したあと、作戦を行うために
降下することになっていました。この作戦はペルシャ湾に駐留していた空母ニミッツから
発進したヘリコプター8機も参加し、完遂する予定でした。このようにこの陰謀の実行段階は、
アメリカ側からすれば完璧なものだったのです。

アメリカはこれ以前にも、イランに対する直接的な干渉やクーデター計画を行っていました。
タバス砂漠からの軍事侵攻も、その詳細から注目すると、アメリカがイラン・イスラム革命の
勃発から2年後に行った侵略的な行動だったのです。この作戦は最初の段階で、アメリカの
軍用機がタバス砂漠の中心で砂嵐に巻き込まれ、失敗しました。

こうしたアメリカの行動は、確かに目新しいものではありません。アメリカの政府関係者の
侵略行為の前歴は、タバスの事件が小さいものであるほど黒いものです。この陰謀の失敗は
アメリカにとって、大変大きいものでした。この事件はイランにおけるアメリカの干渉的な
アプローチを示す事件で、これにより、世界の人々が、イラン国民の独立と権利に対する
アメリカの侵害という、イランの人々のアメリカ嫌悪の主な要因に目をむけることになりました。

アメリカはタバスの事件のあと、一連の挑発行為を示し、この出来事から教訓を得ることはなく、
アメリカ大使館のスパイの解放後も、それを拡大しました。アメリカはまた、イラン国民に対する
侵略的な行動を止めることなく、筋書きと方法を変えただけでした。

アメリカは、イラクのサッダーム政権を支援したイラン・イラク戦争の終戦後も、敵対的な行動を
続け、経済封鎖や制裁により、何らかの方法でイランの経済成長や発展を妨害しようとしました。
12年以上、イランの核計画に関して、疑惑による問題を作り出し、根拠のない主張をおこなう
ことで、敵対的な措置を続けました。現在も、イランのミサイル防衛計画に関する懸念を表明
するなどの立場において、口実を捜し求めており、取引の停止、アメリカにおけるイランの口座
凍結などの行動に出ています。

アメリカはクリントン政権時代、1995年3月にイランに対する緊急事態法を行使し、常にイランを
脅威として見せかけようとしました。一方で、もしアメリカが50年間にイランに対して行ってきた
行動を見れば、常にイランを脅迫していたのがアメリカであることが確認できるでしょう。アメリカの
敵対的行動と脅迫は、イランのイスラム革命の勝利以前から存在していました。

1953年のイランの合法政権に対するアメリカとイギリスのクーデター、テロ組織への支援による
行動、イラン・イラク戦争におけるサッダーム政権の支援と化学兵器の使用の奨励、ペルシャ湾
上空で290人が乗っていたイランの旅客機をミサイルで撃墜したこと、これらはアメリカの前歴の
一部です。
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