なぜ戦国時代の後に平和な江戸時代が到来したのか (67レス)
上下前次1-新
1 2023/02/24(金) 16:56:41.68 ID:e1Rc32nz(1/9)
歴史上には三つの幕府があったが、江戸幕府の支配力の強さは圧倒的で、江戸時代は前近代で最も平和な時代だった(前期近代と捉えられることもあるほど)
それは何故かと考えると、江戸時代の前の戦国時代-織豊時代の存在が大きいだろう
では戦国-織豊期の何が江戸時代の平和を産んだのか?というのを考察するスレ
生産力の上昇、文書行政の進化、大名統制のシステム、鉄砲の普及、検地や刀狩など色々考えられるが、日本の中世近世移行の主要因は一体何だろうか
2 2023/02/24(金) 17:01:34.39 ID:xvGXiT/1(1)
分裂抗争の時代を勝ち抜いた強力な軍事力とその過程で築かれた権力でしょ
3 2023/02/24(金) 17:05:58.09 ID:e1Rc32nz(2/9)
私は一向一揆が原因だと考える
一向一揆の圧倒的な結束力や強さといったものは一個の大名では太刀打ちできない
大名は一向一揆を見て民衆の恐ろしさを知ったのではないか
そこで一向一揆に対する大名間の軍事同盟という意味で幕藩体制は安定したのではないか?(cf:島原の乱の平定)
逆に一向一揆の要因を考えると戦乱による民衆への被害や徴用への反発が考えられるが、幕藩体制というシステムが提示され平和と兵農分離が約束されると戦う理由は無くなるのではないか
これが理由の全てではないが、フレームワークとしてはこのようなモチベーションがあったのでなないだろうか?
4 2023/02/24(金) 17:11:38.73 ID:e1Rc32nz(3/9)
>>2
分裂抗争の時代というのなら南北朝時代も全国で群雄割拠した時代だったけど、その上に立った室町幕府は弱体だった
そう考えると分裂抗争に勝ち抜くことだけが理由ではないのかもしれない
室町幕府と江戸幕府の違いを生んだのは何だろう?
また三国時代を勝ち抜いた晋は簡単に内部崩壊してしまったが、江戸幕府はそうはならなかった
5 2023/02/24(金) 17:14:11.10 ID:e1Rc32nz(4/9)
秦→漢
隋→唐
平家政権→鎌倉幕府
建武政権→室町幕府
豊臣政権→徳川幕府
最初の統一政権がすぐに倒れ、次に立つ政権が長続きするという現象も考慮すべきかもしれない
6 2023/02/24(金) 17:50:07.39 ID:e1Rc32nz(5/9)
>>2
あと豊臣政権のように、有力大名が他大名をまとめてある種革命を起こしてしまうようなことは江戸幕府には無かった
これはなんでだろう?
7 2023/02/24(金) 20:45:59.32 ID:wBUrRh0H(1)
豊臣政権もそうだったけど、近世政権はその配下の大名の、家中における
権威権力も同時に引き上げるんだよ。大名権力が大名を頂点とした
ピラミッド構造になるのは近世から。そういう意味で江戸幕府の強大化は
大名にとっても利益が大きかった。
8 2023/02/24(金) 21:43:18.43 ID:RXlso0xv(1/2)
江戸時代は争いの少ない平和な時代ではあった
それは競争を徹底的に排除したから
家督は必ず長子、優秀かどうかは関係ない
優秀な人間にとっては大変生きにくい時代
平和ではあるが希望のない世界だった
9 2023/02/24(金) 22:09:38.59 ID:e1Rc32nz(6/9)
>>7
戦国大名の家中構造はあくまで同輩中の第一人者でしかないもんなあ
しかし大名権力の強大化が起きるのならば家中で反動も起きるはず
そのようなことが書いてある書籍とかオススメがあれば教えて欲しい
10 2023/02/24(金) 22:12:52.04 ID:e1Rc32nz(7/9)
>>8
完成系は確かに競争排除が行われているように見える
身分秩序の固定もそうだし、兵農分離も同じ文脈で捉えられそう
じゃあなんでそうなったんだろう?
主にどの階級が望んだんだろう
全階級でコンセンサスが取れたんだろうか
11 2023/02/24(金) 22:58:22.05 ID:RXlso0xv(2/2)
>>10
望んだのは家康と将軍家
それより下の者にとっては立身出世は夢だから
外様大名も親藩大名も将軍になりたいが、その気配がある者は全て改易した
そうしてみんな反逆は諦めた
12 2023/02/24(金) 23:12:29.48 ID:e1Rc32nz(8/9)
>>11
強力な武力を背景にした改易はとても有効な手段だったと思う、秀吉は家康が重すぎて制御しきれなかったようだけども…
でもこれは少しアクターを支配層に限定した考え方な気もする
民衆たちは戦乱をどのように捉えていたのだろう
13 2023/02/24(金) 23:20:43.88 ID:e1Rc32nz(9/9)
家格の固定について今思いついたこと
国境に近い国人の動向が戦国大名を半ば強制的に戦争へと追い立てていたわけだけども
惣無事によって戦乱が無くなると国人層の寝返りなどは原則無くなる、つまり国人層の政治世界が所属領国内に固定・限定されるわけだよね
そうなると家格の固定化は一気に進行し、大名家中の秩序は安定するように思う
戦争を止めること自体が戦争の原因を無くすという逆説的な現象と…いえる?
14 2023/02/25(土) 13:53:25.25 ID:TMIHvIjU(1/3)
細かい事は良い
「何故、尾張の田舎者に武士は臣従しなかったのか?」
コレをしっかり捉えるのが大事
当時の武家社会の奴らにしてみりゃ、混乱収束の落としどころは、今まで通り既得権益はそのままで、室町幕府の枠組み維持でやろうぜつー事
すると足利氏の代わりに誰かをトップを据えなあかんが
結果、今まで通り三河の王をトップに据えて、その三河の王にみなが臣従した
室町幕府枠組み維持だからこそ、武家社会は急速に安定した
三河期足利将軍時代、三河期徳川将軍時代
三河期は約530年続いたつーわけだ
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平
15 2023/02/25(土) 16:50:59.89 ID:JOJSQOGv(1)
>>14
全く説明になっていないし、足利は三河ではない
16 2023/02/25(土) 18:18:41.92 ID:TMIHvIjU(2/3)
◇元弘の変(1331~1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
17 2023/02/25(土) 18:21:34.32 ID:TMIHvIjU(3/3)
おそらく足利尊氏、直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
18 2023/02/25(土) 18:56:46.63 ID:vteCfuPA(1)
>>8
頭がキレれば戦下手でも出世出来る世界でもある。
堀田が良い例
19 2023/02/25(土) 21:05:31.89 ID:WnXcbjYh(1)
>>16
スレチだと思うので三河スレとか立ててやってくれるとありがたい
20 2023/02/26(日) 10:44:07.49 ID:UqRsy0dx(1)
>>530
三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだが、三河の徳川家康だ
三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない
滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像
全てはこの仏像に秘密がある
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
21 2023/02/26(日) 12:53:57.41 ID:ElSBMFYv(1)
>>20
お前こんなスレにもおるんか
もうキモイからレスすんなアスペガイジ
22 2023/02/26(日) 19:43:26.54 ID:elSDVKuq(1)
あーもうめちゃくちゃだよ
折角良スレっぽかったのに台無し
23 2023/02/26(日) 19:57:56.15 ID:Bcqt4FCl(1)
最初の50年間くらいは武士も民も戦国メンタルのままだけど徳川家が強すぎて全く勝ち目がなかったから誰も蜂起しなかっただけ(島原の乱除く)
それ以降は平和慣れや儒学の浸透でそもそも人の命とか奪うの良くないよね…って感じになったし
平和の基に築かれている各々の既得権益を壊すのもアホらしくなった
24 2023/02/27(月) 03:16:03.98 ID:cI+xfGrh(1)
>>1
そこそこマシなスレだが、少し浅い。
十四世紀から地球を覆った気候寒冷化は世界的に軍事/政治の激動をもたらした。
日本の所謂「戦国」も根本的にはこの人類史的運動の一要素である。
更に日本個有の事情として同時期に列島周辺のプレート運動が活性化、大規模地震が異常な頻度で発生した。
これも「戦国」の主要原因を成していた。
十七世紀後半に至ってこれらの地球物理学的変動は漸く緩和鎮静に向かう。
江戸幕府統治下の日本が概ね平和に推移したことの原因は全てここに在る。
25 2023/02/27(月) 06:39:00.21 ID:kQvErfLA(1)
そもそも論
不安定から安定な世の中に移行するのがなぜ疑問なのか?
不安定な状態が通常状態ならいざ知らず大きな歴史の流れでは安定してるほうが通常なんだが
26 2023/02/27(月) 09:12:28.63 ID:rKsj7oWO(1/6)
>>24
世界的気候変動が政治システムの変動をもたらすというのは確かにもっと考慮すべきかもしれない
後漢から魏晋南北朝の乱世になったのとローマ帝国の崩壊がパラレルだったのも、世界規模の気候変動による遊牧民の南下という背景を共有していたから
ただ、古代秩序の崩壊が温帯帝国の崩壊だった一方で、16世紀世界は熱帯まで手を広げていたし、南北アメリカという広大な後背地があったわけだから気候変動だけに原因を求めることはできないと考えたい
気候が安定していたとしても中世的秩序ならば江戸時代のような完全平和は成し遂げられなかったはずなので、やはり政治的基礎構造の転回に戦国という歴史的経緯による影響があったと考えるのが自然と思う
戦国という経験があり地下からの武士の乖離と集住が発生したこと、農村の政治的経済的成長があったことを他の要素と上手く結びつけたい
27 2023/02/27(月) 09:14:38.13 ID:rKsj7oWO(2/6)
>>25
江戸幕府は古代律令国家に次ぐ第二の日本統一政府と見る歴史観があり、これを評価したい
中世の世界は安定していたが平和では無いだろう
それに歴史における「通常」とは何だろうか?
28 2023/02/27(月) 12:57:05.35 ID:JgDEj8Xa(1)
織豊政権の地均しによって徳川幕府が相対的に強大化したというのはあるんじゃない
秀吉による統一~関が原で土着の勢力は転封で土地と切り離されるか敗北による領地の召し上げで弱体化して
その後釜に入った成り上がりの大名は統治権の保障を幕府に求めざるを得ないので
公然と幕府に背くことができるようになるまで時間がかかった
29 2023/02/27(月) 14:13:20.51 ID:rKsj7oWO(3/6)
関ヶ原の戦いがあったのは大きいと思う
武士の棟梁の本質は本領安堵と新恩給付であり、家康はあの大きな戦いがあったことで正当に全国の武士に対して領地差配権を振るえた
そう考えると大阪の陣は頼朝でいうところの奥州合戦のアナロジーでも捉えられる(秀吉の唐入りも同じ文脈で考えても良いかもしれない)
関ヶ原のような特殊な合戦は織豊政権による統一が無ければ発生し得ないという点も押さえるべきではある
30 2023/02/27(月) 21:52:33.59 ID:o6X+fjw1(1/2)
武士の起こりが自分の開拓した土地の権利を保証しろだからねえ
武士は先祖伝来の土地のために戦い、幕府は働いた武士のその権利を保証する
信長秀吉の大規模な統一戦争によって武士達は先祖伝来の土地から切り離されて新たに天下人信長秀吉から土地を与えられて鉢植え大名化した
31 2023/02/27(月) 21:58:56.65 ID:rKsj7oWO(4/6)
石井進の名著『中世武士団』で導入に使われるのが秀吉による鉢植え化に反抗して滅ぼされる古武士然とした地侍だったなあ
そのエピソード自体は小説の話だけど中世的世界と近世織豊権力の衝突の本質を捉えていると書かれていた
32 2023/02/27(月) 22:08:57.73 ID:o6X+fjw1(2/2)
律令導入して公地公民にしたのが骨抜きにされて以来の公地公民化と言って良いからな
実際江戸時代の大名は上様から預かった領地をきちんと治めるのが私の務めとか言ってるし、中世の俺の土地を守るために戦うぜ!っていうのとは明らかに違う
33 2023/02/27(月) 22:13:59.58 ID:uiDsso9i(1)
>>30
武士が開拓領主というのは現在はほぼ否定されてるぞ。武士というのはその出現からあくまで都市居住者であり、
荘園などの管理者として在地の土地に権利を持ったに過ぎず、彼らが一定の土地に縛られるようになったのは
戦国大名権力による支配地域の一円化が進行した中世末期から近世だな。
34 2023/02/27(月) 22:38:21.73 ID:rKsj7oWO(5/6)
>>33
「武士の発生は開発領主である」ということが否定的に語られるようになっただけで、中世を通して武士が開発領主的性格を持っていたのは確かだろう
武士の源流として都市居住だけでなく在地と行き来する都鄙往還というのが大切だった(cf京都大番役)わけだし
実際、父系としては源平藤氏だったとしても母系を辿ると郡司の血が入っていることが分かる
郡司こそは律令国家の古代的統一秩序の中に色濃く残る未開時代の在地領主の末裔なわけで、やはり平安期武士が在地性を持つのも確かだろう
地頭の職掌で重要なものに勧農があるが、鎌倉時代を通して耕作地はかなり拡大している
やはりこれは開発領主と呼ぶべき
だからこそ新恩給付よりもむしろ本領安堵が御恩の本質とされ、鎌倉武士は一所懸命の精神を持っていた
荘園管理者でしかない、というのは制度上のことであって、鎌倉幕府に御家人たちが集まったのは土地への執着があったからだろう
一円化だが、鎌倉期は各地に散在的に領地を持つことが多かったが南北朝動乱による秩序弛緩、及びその後の守護大名権力の伸長により(非本拠地は守りきれず守護領に編入されるなどし)領地の集中が行われ、同時に一円化も進行しているね
この一円化の流れの一つの極北として戦国大名の領国を見ることもできるだろう
やはり中世的な世界の最終形態とみなすことができる
ただ一方で戦国大名が近世的なものの萌芽を持っていたのも確かで、そこをこのスレでは議論したいわけっす
35 2023/02/27(月) 22:45:03.88 ID:rKsj7oWO(6/6)
>>32
古代から中世への転換という点では、公地公民から荘園制へ、というのがよく語られるが
本質的には負名制が中世の本質的な始まりだろうね
つまり人的な把握・支配をするには行政的なリソースが古代日本では維持できず、より把握しやすい土地による支配へと移行した、これが中世なんではないかなと
近世というのは文書行政が発展して再び人的支配を行えるようになり、実際に行われた時代と考えられる
秀吉による作り合いの否定というのはそれを端的に表しているように思う
ヨーロッパも、(古代ローマの行政システムをよく知らないけども、)ローマ帝国の衰退による行政リソースの不足から中世的な世界に移行したのではないのだろうか
そこら辺は上手くアナロジックに考えたいところではある
36 2023/03/10(金) 23:59:48.93 ID:y+c5fDPh(1)
中世続いてた土地と武士の繋がりを1度ほとんどぶっ壊して改めて土地を預け置くという形で与え直した
そうやって武士の鉢植え化を進めた信長秀吉からの流れだよね
37 2023/03/11(土) 03:22:49.68 ID:faORgWPf(1)
んなもん武田も北条もやってる。
わざわざ特筆するべきことでもない。
38 2023/03/11(土) 09:11:21.93 ID:Kz2CXwCY(1)
そうそう誰でもやってる
その辺のニートだってやってる
39 2023/03/11(土) 13:06:08.55 ID:CC8e7d7m(1)
比叡山とか本願寺みたいな宗教勢力や自治商人などの武力を信長秀吉が削いでたから
40 2023/03/11(土) 20:37:54.50 ID:TWD8r0Oq(1/2)
みんななんやかんや理屈を捏ねるが
単純に徳川の軍事力が圧倒的になったからでしょ
闘争は人間の本質だから圧倒的支配者の存在以外の理由で平和になることなんて無いよ
41 2023/03/11(土) 21:07:12.40 ID:7f2/SOIo(1/2)
>>40
それも一つの見識だと思うが、
ではその状態は何故生じたか、その原因の更に原因は、という所まで突き詰めなければ考察としては未徹だ。
42 2023/03/11(土) 22:43:49.55 ID:7f2/SOIo(2/2)
>>40
ついでだから指摘しておく。
> 闘争は人間の本質
この如何にももっともらしい(しかし極めて浅薄な)言説は、生物学、人類学、脳科学などの学術成果によって否定されつつある。
ヒト及び類縁種の生態観察のみならず大脳というハードウェアの研究からも
生物ヒト種の最重要の本能は「共感・共生」であることが見出されている。
43 2023/03/11(土) 23:41:15.68 ID:TWD8r0Oq(2/2)
俺も一応反論するとそれらの概念と闘争は表裏一体の関係じゃないのか
家の繁栄を願うから他の家と争う
ロシアを愛しているからウクライナに攻め込む
人間個人の本質に闘争が無くても人間社会の本質に闘争が有るのは古今東西の世界史を見れば明らか
稀に地域的な平和が実現するとそれはパックス何たらと圧倒的支配者の名を冠して命名される
まあ俺は何の専門家でもないからやはりこれも「浅薄な」意見なのかも知れないが
44 2023/03/12(日) 01:30:55.28 ID:AdXlRoXn(1)
>>43
その歴史観は否定しない。
生物種ヒトの本能を上書きしてしまう、それが共同幻想というものの恐ろしさだな。
しかし共同幻想の論理が生物本能を著しく侵害する時、例えばロシア革命の如く本能回復への激しい反動が発生する。
(まあ、あれは即座に別種の共同幻想がその本能を利用したわけだが)
話をスレのテーマに戻すならば、俺の考えは>>24に記した通りで特に加えることは無い。
飢餓と暴力は常に螺旋的な循環拡大再生産に向かうが、
飢餓の程度が閾値以下になれば、
つまり暴力によらずとも生存が実現できるならば、物理的危険を冒して暴力を発動する理由は消滅する。
江戸幕府体制下で重ねられた再分配機能充実への人為を否定するものではないが、
やはり気候寒冷化終焉による生産状況改善こそが「徳川の平和」の根本要因だろう。
45 2023/03/12(日) 06:24:14.37 ID:8JA0Phz7(1)
農業生産力は室町時代初期から増加しているぞ。それにより農村に余剰労働力がうまれ
農業から切り離れた様々な座が勃興し、更にはタダ飯喰らいの専業軍人や軍役衆も誕生していた。
46 2023/03/29(水) 20:57:05.65 ID:CILXCJVc(1)
よほど戦国時代がみんな嫌いだったんかな
47 2023/03/29(水) 21:07:45.04 ID:DMJnBWl1(1/2)
>>46
飢餓地獄を抜け出す為の、生きる為の暴力として「戦国」という運動は発動された。
一時は確かにその光明が見えたと思ったのに、飢餓と暴力の無限連鎖の果てに辿り着いた場所は更なる地獄だった。
そこへ「暴力を強制封鎖する。それ以外の方法論で喰わせてやる。」という新たなイデオロギーが降臨したんだ、誰だって飛び付く。
48 2023/03/29(水) 22:37:15.62 ID:07lAhLP3(1/2)
普通の文章を書けないの?
厨二なの?
49 2023/03/29(水) 23:01:50.81 ID:DMJnBWl1(2/2)
>>48
貴君の文章の方が遥かに異常性が強いと思うが。
少なくとも、日本語文としての体裁を成してはいない。
50 2023/03/29(水) 23:42:38.15 ID:07lAhLP3(2/2)
反応するってことは恥ずかしいってことは理解しているのかな
51 2023/03/30(木) 00:27:09.31 ID:SUSXmML3(1/4)
>>50
アンカー無しで釣ろうと云う卑しくも賤しい意図は見えていた。
その辺りで貴君の品性が知れる。
無知も卑賤もそれ自体は恥ではないが、無知や卑賤に居直ることはこの上無き恥であると知るが良い。
52 2023/03/30(木) 00:34:51.40 ID:6qZl8pc8(1/5)
全然面白くないから普通の文章で書いてね
53 2023/03/30(木) 00:43:41.83 ID:SUSXmML3(2/4)
>>52
日本語の「書き言葉」として至って尋常の文言を用いている。
また貴君を面白がらせる為に書いているわけではない。
貴君は万人の目に触れる、そして十年二十年経っても何かの拍子に人目に触れる可能性のある発信について根本的な勘違いをしている。
なお、以上のことは貴君が日本語を母語とする者であろうとなかろうと変わらず適用される。
54 2023/03/30(木) 00:47:05.77 ID:6qZl8pc8(2/5)
中二病が改善されるといいね
55 2023/03/30(木) 00:52:15.64 ID:SUSXmML3(3/4)
>>54
貴君は「中二病」なる単語自体が一般に通用する日本語ではないことも理解していないようだ。
また一面識も無い俺に向かって旧知の人を相手にするが如き文言で語りかける幼稚さも。
何処で誰が読んでも理解し得る語彙と文面、
これが不特定多数に向けて発信する書き言葉の鉄則だと認識されたい。
56 2023/03/30(木) 01:01:33.41 ID:6qZl8pc8(3/5)
中二病が嫌なら難しい言葉を使いだけの馬鹿でもいいよ
57 2023/03/30(木) 01:02:49.56 ID:6qZl8pc8(4/5)
難しい言葉を使いたいだけの馬鹿ね
58 2023/03/30(木) 01:42:45.50 ID:SUSXmML3(4/4)
>>56 >>57
正統な日本語を使う基本的な素養さえ無いようだ。
対応するだけ無駄だったな。
届かないだろうが、最後の老婆心。
貴君が仮に日本語を母語とする者ならば、日本語に対してもっと真摯に向き合うことだ。
59 2023/03/30(木) 01:48:17.79 ID:6qZl8pc8(5/5)
まだ頑張るのかよw
60 2023/03/30(木) 08:07:32.66 ID:IB6RIYpa(1)
>>50
関係なくね?
61 2023/04/02(日) 11:59:00.78 ID:jPDpbURk(1)
✕ 中二病
○ 厨二病
外国人なんじゃね?w
62 2023/04/02(日) 21:09:06.22 ID:cXBaHOhp(1)
中二病が正しいんだぞ
外国人かな?
63 2023/04/21(金) 22:36:38.30 ID:3f/HInAB(1)
厨は言い換えだからな
64 2023/04/21(金) 23:35:22.00 ID:cjNfX1B6(1)
厨弐病でいいんじゃね
65 2023/10/18(水) 04:21:24.82 ID:EQs86RwN(1)
アンタ、どないしとんの?
66 2024/05/18(土) 23:20:38.09 ID:GrE0dvQz(1)
国産の金銀銅で国内を統一した貨幣で賄う事が出来て
貨幣経済が樹立されたから
その当時の貨幣で生まれた資本が元となって
時代が変わっても今では銀行になってたり
その頃から続いてるお店があったりしている
67 2024/05/20(月) 18:11:56.02 ID:8vVobznH(1)
🟣 おおよその江戸時代
🔴 おおよその相場
江戸時代 前期 中期 後期 幕末
1603~ 1690~ 1780~ 1853~
1両 = 4000文 5000文 6000文 8000~10000文
🟠 おおよその円換算
五両 50万円 50万円 45万円 48~60万円 五両判金 1837年~
一両 10万円 10万円 9万円 9万6000~12万円 一両判金 1601年~
二分 5万円 5万円 4万5000円 4万8000~6万円 二分金 1818年~
一分 2万5000円 2万5000円 2万2500円 2万4000~3万円 一分(金) 1601年~ (銀) 1837年~
二朱 1万2500円 1万2500円 1万1250円 1万2000~1万5000円 二朱(金) 1697~1710年 1832年~ (銀) 1770年~
一朱 6250円 6250円 5625円 6000~7500円 一朱(金) 1824年~ (銀) 1829年~
百文 2500円 2000円 1500円 1200円 天保通宝 1835年~
四文 100円 80円 60円 48円 寛永通宝 四文銭 1768年~
一文 25円 20円 15円 12円 寛永通宝 一文銭 1636年~
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