【ドゥルーズ】同一性【差異とは何か】 (146レス)
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1 2024/03/01(金) 10:32:02.60 ID:0(1/146)
ドゥルーズの差異と同一性について、我々は好奇心を惹かれる。
小学校の頃の自分、中学校の頃の自分、高校生の頃の自分、昨日の自分、はそれぞれバラバラである。
それらすべてには差異が関わっている。大人の我々は、小学生の頃の自分を自分だと思うだろうか?
同一性がないとして大人は小学生の頃の自分を語るだろうか?
小学生の頃は視力が高かった。でも今は違う。もしそうなら同一性がない。
2 2024/03/01(金) 21:48:26.46 ID:0(2/146)
泥酢
3 2024/03/03(日) 10:17:54.61 ID:0(3/146)
6 名前:考える名無しさん 2024/01/28(日) 09:29:25.33 0
ドゥルーズは最後のテキストである「内在――ひとつの生……」では次のように述べている。「内在がもはやそれ自身以外のなにものにも内在しないとき、初めて我々は内在平面についてかたることができる
4 2024/03/07(木) 10:57:43.37 ID:0(4/146)
>>小学生の頃は視力が高かった。でも今は違う。もしそうなら同一性がない。   ←(>>1)
同一性がない、と書いたが、同一性を欠く、または同一性を欠いている、と書くべきだったか。
小学生の頃の視力は高かった・・・中学生になると視力が低くなり始めた・・・ここで、小学生の自分と中学生の自分に明らかに差異があることがわかります。
その差異とは何のことでしょうか。小学生の頃の視力と、中学生の頃の視力に差異があるのです。
また、高校生の頃の視力は、中学生の頃の視力より低いとしますが、そうすると中学生の頃の自分と高校生の頃の自分に差異があると言えます。

ところで、永劫回帰をご存じだろうか。今日から10億年経ったらワームホール(転送装置)の中に入って、宇宙の始めに戻るというプロセスだ。
それが毎回繰り返される、そんな世界に我々がいるとしたらどうだろう。同じ繰り返しなら、もっと善く生きればよかったと思うだろう。
ニーチェの永劫回帰にソクラテスの「善く生きること」がプラスされ、カントの道徳観も交えてみれば、いかに哲学が大事になってくるだろうか。
5 2024/03/07(木) 13:12:07.46 ID:0(5/146)
永劫回帰について、皆さんはどう考えるだろうか。永遠にサイクルする世界を想像できただろうか。
あちゃー;;「世界を想像」なんて詭弁的なこと書いてしまった。
ではこう言おう。永遠にサイクルする世界という概念を考えただろうか。
ニーチェはどう考えていただろうか。ここでは想像して書いてみたい。

「あの喜ばしい出来事、あの素晴らしい出来事、感謝できる出来事、貴重な出来事、それらすべてをもう一度経験できる!
ああなんと生は喜ばしいのだろう。生きるとは何と素晴らしいのだろう。生とは素晴らしい、生とは貴重だ」

ニーチェにも、ひとつくらいは過去に戻りたい場面があったに違いない。あの経験を、もう一度!と叫びたい出来事もあったかもしれない。
神が世界を作ったなら、そしてまた、永劫回帰を齎したなら、もっと違う人生だっただろうか。また、もっと社会は違かっただろうか。

また、永劫回帰が神に因るものではないという地点と自然に永劫回帰が起きるという地点から考えてみれば、やはり善く生きた方がいいと思える。

非決定論的で決定論的な永劫回帰を私は抱えている。というのも、
「神や何かのせいではない」・・・非決定論的。
何らかのタイミングでループする・・・ 決定論的。

非決定論的な永劫回帰に関して、私はワームホール(転送装置)という言葉で説明した。ワープという言葉でも説明した。
「AがワームホールでX(地点)にワープ(転送)」する、これが演繹法だろうか。
6 2024/03/08(金) 16:12:36.80 ID:0(6/146)
相対的な相互性について。

彼氏はフツメンだ。彼女は彼が美男子に見えてしまうということから物語は始まる。
彼女の友達(A)には彼がフツメンに見える。(相対的な相互性がこれである。)
彼女は彼がイケメン(美男子)に見える。(これも相対的な相互性である。)

フツメンのB君がイケメンになりたいと思っている。B君は他者にかっこよく見える様に変身してしまう。
彼氏にはB君がかっこよく見える(これも相対的な相互性である。)。
だが彼女にはB君はそのまま見える。つまりフツメンに見える。(これも相対的な相互性である。)

なぜ彼女には変身の姿が見えなかったのだろう。それは正眼しているからである。
正眼してしまえば、彼氏にもB君がフツメンに見えていたに違いない。

こうした相対的な相互性の差異が、現代でも見られてもおかしくない、または、どんどん変身が広まっていって社会問題になると、浅田彰と私は危惧している。
7 2024/03/09(土) 13:44:40.23 ID:0(7/146)
未来の自分はどういう自分が理想だろうか。こういう考え方を理想主義と呼称する。
理想主義には自由的な生き方を求めるものもある。もっと自由に生きたい、10割楽しみたいという自由人も現代にも見られる。

今の自分は、まだ議論が下手だ、口下手だ、シャイだ、臆病だ、などという欠点がある。
だが、未来の自分との差異がいい意味であればいいなと思う。

未来の自分は、勇気があり、大丈夫だということが当てはまる。

未来の自分に駆けよう
8 2024/03/13(水) 16:55:27.08 ID:0(8/146)
日本国民は戦争をしていません。ですが近頃ロシア兵は戦争をしていました。この二つの出来事にも差異があります。

日本国民がロシア兵と他己同一化した場合、日本国民は戦争を起こすかもしれません。これは危険です。
だから差異はあったままでいいのです。無理に戦争をしようとデモを起こす者もいないはずです。

ヒカルの碁をご存じだろうか。差異ではないが「sai(サイ)」という平安貴族のような天才棋士がヒカルと共に歩む物語。
この二人にも差異がある。それでいいのだな。
9 2024/03/13(水) 20:57:15.41 ID:0(9/146)
デリダのdeferranceなら、やっぱり、造船における全く同じコンセプトのシリーズの船を作ろうとするにも拘らず、
長さ、幅、高さなどにどうしても微差を生じてしまう慣例のことを言ってるのではないかと推測する。
デリダのデコンストラクションは船の解体に発してると思う。
まず、古代からチグリスやユーフラテスの大河では切り出したばかりの木材で筏を組んで川によって輸送し、
到着先で筏を解体し、売り払う。この習慣は紀元前2000年以上も昔からあったことが分っている。
戦前の日本の筏師が中国の揚子江などの大河で活躍したことは中上健次の小説・枯れ木灘シリーズでも描かれてるが、
筏師はキンマ引きの水上バージョンだ。筏とキンマの幅は同じに作られていた。
筏の製作以降、造船は必ず解体されることを想定して作られるようになった。
船会社のスクラップアンドビルド的に造船ー解体ー再建造の過程において生じる時間のズレと
再建造された船舶との大きさやデザインの微差を含めてデリダは
デコンストラクションにおける差異としたのだと思う。
伊勢神宮の20年ごとの式年遷宮は、古代船の耐用年数が約20年だったことから来てるのだろう。
伊勢や出雲の神社建築は船の建造を模したものだ。
建築家の磯崎新は伊勢神宮に強い関心を持っていたが、あれこそ世界に誇る?デコンストラクションの見本だろう。
そのデコンストラクションを由良君美のように脱構築と訳したのでは、何のことやらさっぱり意味不明なのだ。
デコンストラクションは解体&再建のリサイクル過程とすべきだろう。
九段理江の「東京同情塔」も脱構築に言及したのだという書評があるようだが、
脱構築とかのフォルマリズムの間抜けな残骸のようなものは一切いらんだろ。
10 2024/03/14(木) 09:24:54.32 ID:0(10/146)
>>9
デリダのdifferanceか。何が重要なんだ、もっと教えてくれ
11 2024/03/17(日) 22:25:51.89 ID:0(11/146)
周回遅れの◯◯が隆起してくるということかもしれないしそうでないかもしれない
12 2024/03/18(月) 02:40:29.61 ID:0(12/146)
>>11

13 2024/03/19(火) 12:21:03.20 ID:0(13/146)
「神は死んだ」—―ニーチェ

おそらく無限ではないにしろ長く生き続けた神様がおられました。
その神様は未来の状況をすべて網羅できるほどの神通力の持ち主でした。

星が無くなっても光が届くように、その神様はいなくなっても、その神様の施しは未来における限り届くのです。

神様やお父様は子を懲らしめます。それでいいのです。懲らしめないとダメなのです。

神様が一番上だったと言われています。人々は「この神様だとかいうこの方が一番凄い」と思いました。
もう一度言いましょう、神様が一番凄いのです。神様が一番上なのです。

救え、しからば、救われん。 与えよ、しからば、与えられん。
14 2024/03/20(水) 22:22:14.35 ID:0(14/146)
インテリの衒学だったなこれ
15 2024/03/21(木) 05:58:51.72 ID:0(15/146)
>>14
ごめんごめんミス☺
16 2024/03/21(木) 11:32:44.73 ID:0(16/146)
>>9
>>デリダのdeferranceなら、やっぱり、

スペルは違うが、deference (服従
defer ( 延期する;従う

ごめんね。終わったのね。
17 2024/03/21(木) 19:32:39.12 ID:0(17/146)
>>16
俺はスペルには余り、正確では無かったかもな。
ただ、デリダは造語をよくする人ではあったし、そもそも彼はユダヤ系でもあった。アジアとアフリカ文化の境界もある。
18 2024/03/24(日) 09:37:18.33 ID:0(18/146)
>>17
アジアとアフリカ文化の境界ってなーに?(−−)
19 2024/03/26(火) 09:39:06.20 ID:0(19/146)
アジアの文化

>>日本などの温帯の東アジアや熱帯の東南アジアでは、主食は米。 米は小麦と比べて降水量が多い地域で栽培されます。2023/06/28

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アフリカの文化

アフリカ人はどうやって食べていますか?

アフリカの国々では、食事を直接素手で食べることが圧倒的に多い。 日本のおにぎりのように固形のものであれば、指でつまんで口に運ぶことができるが、こうした米やパンのみならず、液状のソースや煮込み料理も、素手で食べる。 爪が伸びていては、爪の間に食べ物がつまり、なんとも心地が悪い。2015/09/09
20 2024/03/26(火) 09:46:12.95 ID:0(20/146)
アジアでは米を主食として食べる。しかしアフリカでは素手で食べる。

こうした文化の差異があるということを懸念していただきたい。
米を食べるという点はアジアもアフリカも同じだが、タロイモなどのイモ類はアフリカでよく食べられている。
21 2024/04/05(金) 17:07:51.96 ID:0(21/146)
ヘーゲルは私の猫として生まれ変わりました。その前は別の五十嵐さんと言う猫でした。
チョコ。愛してるよ。ヘーゲル、また逢おう。
22 2024/04/16(火) 13:09:03.43 ID:0(22/146)
自己とは何か。周囲にある机は本来自己とはかけ離れたものである。
お金は自己を操作する一部である。
そしてお金、すなわち貨幣は我々の生活に必要不可欠なものであると私は確信する。
それは自己の活躍なくして手に入るものではない、とは言い難いものの、
一般的には職業の給料として手に入るものである。
自己が職業に従事してから一か月ほど経てば、給料が貰える。
そのとき初めて自己は自己の実現の一歩を辿っていく。

貨幣を貰うということは、売り物の購入範囲を広げることであることは言うまでもないだろう。
そこで、自己は自己自身の可能性を模索する。
自己は自己の可能性を広めるべく努力を重ねる。
言い換えれば努力によって行動範囲を広めるのである。
努力とはむなしいものではなく、むしろ推奨されるものだと努力家は知っている。

「努力をすれば成功するとは限らないが、成功した者はみな必ず努力をしている」

こうした格言もあるので参考になれば幸いである。
ところで自己が世界だという一説もある。
世界に平和がもたらされれば、自己も平和になる。
こうした自己と世界の統一が自己実現の一つであることは言うまでもない。
自己が世界に影響を与える可能性を持っていることを忘れずに、世界平和を望むものである。
23 2024/04/16(火) 13:47:19.83 ID:0(23/146)
自己と自己意識について表題、すなわち「自己意識の理論と工夫」を設けたい。
自己に意識が宿ること、それを自己意識の初生と呼ぶ。
我々は常に意識することによって行動する。
「大変です、意識がないんです、助けてください」と叫ぶシーンを見て取るように、
意識がなければ、行動すらできないのは言うまでもない。
自己意識は、周囲の携帯電話にも触れられる。
携帯電話を見ていると同時に意識している、これを意識化と呼ぶ。

また、自己意識は、ぼんやりとした「教会の断片」を「思い描く」ことをも含める。

また、自己意識は「ワーグナー」という意味も持つ。これは女子語である。
24 2024/04/16(火) 15:43:10.32 ID:0(24/146)
自己の発達のプロセスは、幼い頃から始まっていることに注意したい。
《父》としての存在し且つ子へ影響を与えること。そしてその重要性。
母の母胎から産まれたのだという事実を確信していくプロセス。
こうした諸問題を我々はみな抱えてきたものである。

《父》の眼差し、母のぬくもり。そのどれもが煌々と甦る過程、これを愛情想起と呼ぶ。
言いかえれば、愛してくれたことを思い出すことである。

♬【君をのせて】という唄においては、「父さんが残した 熱い想い」
「母さんがくれた あのまなざし」 と歌詞がある。

あの熱い想い――それは自転車を乗れるようにしてくれたこと――に我々は感謝する。
あのまなざし――それは愛しているというメッセージ――に嬉しくなるものである。
25 2024/04/18(木) 10:41:05.62 ID:0(25/146)
自己の暴走によって世界を覆したくなかったらどうだろう。
世界は一変で変わるだろうか。否、世界はゆっくりと時間をかけて脱構築するのが普通であろう。

一変で世界を変えるとするならば、キリストの十字軍復活劇が挙げられるだろう。
イエス・キリストが十字軍という仲間を連れて現れ、悪を懲らしめるという物語である。


こうした非現実的な構造は近代社会に基いてあり得なくもないレアな革命である。
ところがこうした一変の革命の起きる可能性は著しく低い。
自己の一変により社会を変革させることも、
そして自己のたゆまない努力によっても社会を変革させることも、可能性はあるだろう。

自己は自己の内で「内省」ができれば、それは社会に影響を与え得る。
自己はそのとき悦びを体験する。その悦びこそが内省の原動力にほかならない。
そして悦びを友と共有するとき、はるかなる悦びとなるのである。

幸福には二種類ある。自分の幸福、そして自分と他者両方の幸福である。

自己は他者と幸せを分かち合った方がより至福に浸れるものである。
26 2024/04/18(木) 10:58:29.37 ID:0(26/146)
家族との触れ合いの悦びも、子どもの母に対する性の欲望も、
そして父親の確信的な家族観の幸せも知らず知らず移ろいで行くものである。

父親は家族を養っているという自負がある。母親は子どもに愛情の手を向ける。
子どもは父親に懲らしめられ、そして母親に教育され、成長の一途を辿っていく。

子どもは性の視線を母に向けることは、可能性としてはあり得る。
しかしそこに父親の視線を感じるとき、その欲望は叶わない願いとなる。
そして子どもは性の視線を学生に向け直す。それによって母は結果的には助かったといえよう。
27 2024/04/18(木) 12:15:22.10 ID:0(27/146)
★助かった母親
母親は性の対象から外された。だが子どもは学生に発情しているのは指摘するまでもない。
子どもは学生との関係を構築しようとし、そのときはじめて学生は子どもの視線に気づく。
学生は逃走することになる。「あの子どもと猥雑な関係にならないように」気を付ける。

★浅田彰の逃走論
「逃げろ逃げろ、どこまでも――」浅田彰の「逃走論」は読んでいないが、
レビューから少しばかり参照することにした。逃げて、遊撃して、ということだろう。

学生は子どもから逃げることによって自己の安定性を求める、これは言うまでもないか。
でもさ、子どもはやっかいなんだよね、あとをくっついてくるでしょ、ええ、それ追跡っていうんすわ
追跡されている学生はどこに逃げればいいの、という問題があるからね、大変だね
28 2024/04/18(木) 17:11:01.70 ID:0(28/146)
★キリスト教では発情は罪であると規定されている。
発情は姦淫と同等であると見なされる。こうしたキリスト教の罰は我々の日常に忍び寄る影を残す。
意外にも、男性はオナニーを経験する。女性の裸体を想像して興奮の思うままにマスターベーションを行う。
しかしながら、犬や猫はオナニーをしないな。でも猿はしようとするケースが多いだろう。
猿人、旧人、原人、新人の中でマスターベーションをしない存在はどれだけ多かっただろうか。
そのような研究は虚しいのだろうか。虚しくても価値はあるのだろうか。
29 2024/04/19(金) 17:50:20.58 ID:0(29/146)
そもそも猿人や原人が存在していたかも、それはマルクスが論じたと考慮しても、怪しい話だと私は考える。
化石は作り物だと考えるので、さらには進化論も怪しいと考える
30 2024/04/20(土) 18:28:30.82 ID:0(30/146)
進化論も創造論もどちらも根拠はあるのだろうか、化石が作り物を判明した例があるがあるなど
31 2024/04/22(月) 11:25:44.18 ID:0(31/146)
子どもは学生を乗り越えようと企てる、闇に逃したかのように思う最初の学生のことはもう諦めたも同然である。
ここで大きな契機が訪れる。学生はまたしても逃げ出すであろうが、上手く逃走し切れるだろうか。
逃走の経路は最初の学生から学んだのであるから、どこに逃げるかは分かり切っているかのように思える。
しかしながらクセのある子どもは二度目は前より精密に学生を追う。
32 2024/04/22(月) 12:22:15.76 ID:0(32/146)
もう前に通った道ではない新たな道をを通って追いかけることも視野に入っている。そこで学生は逃げ場所に迷う。
どこに逃げれば良いのかアドバイスをするとしたらどうだろうか。
何と言えば良いか私には解らない。
33 2024/04/22(月) 15:39:41.27 ID:0(33/146)
とすれば、語り得ないのだろうか。何について?どこに逃げるべきなのかについて、である。
ヴィトゲンシュタインはこう言う。「語り得ないことについては沈黙せざるを得ない」ということで、これについては沈黙する。
学生はとにかく逃げ道を作りたいが、ケースバイケースである可能性があるだろう。
どこに逃げようともセーフだったりセーフではなかったりするものなのだろう。  
34 2024/04/23(火) 09:37:32.10 ID:0(34/146)
こうした曖昧なところがある以上、どこへ逃走すればよいかは解らないはずである。
まあそれでも追跡から回避できる可能性が閉ざされたわけではない。
子どもから逃げ切る通路は何かしら見えてくるはずである。
性行為を共に行いたくないのであれば、近くに隣接しなければよい。
逃走が上手くいくよう祈るばかりである。

ヘーゲルのいう弁証法という形で一件落着するためには、まず学生の逃走を介さずとも、学生の手で子供を蹂躙するのである。
そうすることによって、学生は救われるのである。
攻撃は最大な防御と言われるが当てはまるだろうか。
では攻撃法は何か。それは拳銃でもよかっただろう。
銃で一発、ぶち抜けばよい、そのときニーチェの言った、殺してよい、を噛みしめるはずである。
逃走の否定としてのメカニズムによる反抗者がここで立ち現れる。
それは学生でも良いが、反子ども(者)でも良い。
学生はもう黙ってはいない。子どもを懲らしめることによって自分を救う――
弁証法とはこの様なコペルニクス的転回を介するものである。
こうした弁証法は、処世術としても考えられるものである。
処世術とはファイファイファイファイ弁証法、という意味である。
弁証法とは、ファイうファイファイファイ処世術、という意味である。

リアルで蠢く何者か、それを弁証法的処世術で解決することが求められることは、大いにあるだろう。
弁証法的処世術でどのように暮らしていくか、靴下が破れたら友人の靴下をもらえばよい。
こうした発想の転回が弁証法にほかならない。
パンとチーズが食べたいなら、チーズパンを買えばよい。又、かつとカレーどちらも食べたいなら、かつカレーを食べれば良い。
というふうに、弁証法は解決策を見出してくれる。
35 2024/04/25(木) 15:38:56.13 ID:0(35/146)
理解派に情報が世界に溢れることを嫌う者がいる。
過去に流れる情報を見て嫌な感じになる。
見抜くのも理解するのも媚びついていて微妙である。
ここからどうしたらいいものやら、手がないのだろうか。
自分が世界を作ったと思うなら、情報はいつか知れるものと考えるのが普通なのかもしれない。
情報は不正確なものを含むため、信仰してはならないものもある。
36 2024/05/01(水) 10:56:44.70 ID:0(36/146)
私は不死と永久を同じ類のものだと思っていた。
不死は永久をも満たしていると考えた。
しかし永久に生きようとしてもその過程で一度死んだらどうだろう。
不死は取り消されている。でも何度死んでも永久に生きることはできるだろう。
死んでも終わらない、という永久のシンボルは、永久に生きるため、死んでも終わらないものなのである。
永久と聞くと、「死なない者はいない」「いつか死ぬのがこの世の摂理」という意見が錯乱する。
いつかは死ぬとしても、永久はあり得る、と聞いていないはずだ。
いつかしら終わりが来るという説をちゃんと知っている者はいないのではないか。
不死なら永久に生きる、そして永久に生きるなら、死ぬかどうかはまだ言ってないけど死んでしまってもずっと生き続けるよ、というのが結論である。
しかしここで契機が訪れる。生き続ける「存在」とは何か。
37 2024/05/01(水) 11:56:26.50 ID:0(37/146)
それは精神ではないか。魂ではないか、という意見もあるが、魂は我にあらず。
精神の摩耗を経験していた精神がやはり我なのだろう。
我=精神はどう形成されていくのだろう
自己は失敗を繰り返しながら正しいものに気付きます。
自己は精神的ストレスに遭い、そしてヒーリングを繰り返します。
そして自己は「俺が」「私が」という自己の存在の論点に興味を持ちます。
「自己は〇〇〇である私だ」という〇〇〇に入る言葉を探します。
例えば、猫である私だ、というものです。
猫なら分かりやすい。でも猫の頭の中に人間と猫がいるとしたら――。
人間は、猫とは言わず、猫の頭の中にいる人間と言うのでしょう。
けれども、猫が頭の中から居なくなって、人間だけが猫というきぐるみの中にいるとしたら、
猫ではない――けれども頭の中にいる人間を想定してみよう。
そういう人間は猫というものに慣れてしまうだろう。
それでも自己はアイデンティティが人間なのだから、猫というわけではない。
猫の頭の中にいても、アイデンティティが人間である以上、猫と断ずることは、
生まれ変わったりしない限り在り得ない。
38 2024/05/01(水) 12:38:40.20 ID:0(38/146)
人間から猫に生まれ変わるというプロセスはあり得なくない。
人間から猫に生まれ変わるなら、生まれる前からその人間は猫である。
来世が猫であるなら来世に行く前からアイデンティティが猫だから人間でも猫でもある。ここに注意したい

来世の次、来来世がウサギだったら、生まれ変わる前からウサギである。
それに対して、前世が鳥だったとしたなら、当然アイデンティティは鳥なので鳥なのである。
こうした前世と来世の時間の差こそあれど、前世のアイデンティティは来世でも維持し続けることになる。
後世に対して気を付けるべきは、後世の決定性にある。
生まれ変わりたい存在に生まれ変わるように頑張ってみる、こうした前向きな考え方で生きてみよう。

誰に生まれ変わるのか、占い師に聞くのではなく、生まれ変わる諸点を作ればよい。
39 2024/05/02(木) 09:28:16.32 ID:0(39/146)
自己同一性を担保するものは記憶
そして記憶はあまりも不確かで曖昧で、なおかつ物理的損傷によっても失われる不安定なもの
自分が自分であると認識するのは、乱暴に言えば思い込みや自己暗示の類と言える
記憶がなければ、傍目には同一人物にしか見えないとしても、もうそこにかつての自分は存在しない
かつて自分だったものの名残・痕跡が確認できるかどうかといったところ
40 2024/05/03(金) 10:50:56.14 ID:0(40/146)
私の飼っている猫に知り合いが生まれ変わっているケースが多々あります。

前世の記憶があって私のそばにいました。
前世の記憶がある猫は一匹死んだら他も前世の記憶があるのです。
私はどうぶつに好かれているらしく、ヘーゲルも私のすぐそばに来ましたが、天に召されたのです。
41 2024/05/03(金) 13:26:01.42 ID:0(41/146)
近代資本主義は、女子語では、ワームサイガムドミリア、と言います。
資本主義は、ファイファイファイファイファイドミリアと言います。
42 2024/05/08(水) 17:00:44.05 ID:0(42/146)
永劫回帰においては、一義的ではないと聞きます。
戻ること、そして繰り返すことがあるからでしょう。
ニーチェは永劫回帰があるなら、快楽をひとつまみにでもすれば、戻って繰り返すことを肯定できると言います。
太陽を見て感動したなら、戻って繰り返すことを肯定できると言います。
43 2024/05/10(金) 11:10:23.77 ID:0(43/146)
永劫回帰による現実は、完璧な秩序性を顕にしている。
というのも、もう一度同じ素粒子で、かつ同じ場所で、そして同じ現象が起きるからである。
ああ、これは神様が仕組んだことなのだろうか、昔をもう一度生かされているのは誰かのせいだ!

ニーチェは回帰したという経験はない。回帰してないと思っていた。

我々はニーチェのいた時代に戻るなんて考えていない。
ニーチェは回帰不可能だからこそ、我々に安心を置く。
我々は今の時代を回帰しても正当化できるほど、一生懸命生かされれば良い。
44 2024/05/15(水) 18:03:47.49 ID:0(44/146)
永遠のロード


永遠への道においては、永い修練や試練が待っている。
あなたが放った想いが、何年も経って芽吹く。そんな因果の道。

パソコンが脳に悪いとは断言できない。スマホが悪いとは断言できない。

スマホが悪いとたくさんの人々が想うなら、それは確立してしまう。
スマホが脳を破壊するものなのか、今は言えない。

大丈夫が要と云う。大丈夫であれば、殺されない。
大丈夫すぎるも多分いいものだろう。
45 2024/05/19(日) 15:22:52.11 ID:0(45/146)
ヘーゲル 精神現象学 上

哲学書に「序文」は必要か?

著作といったものには、なんらかの説明が「序文」において習慣にしたがい先だって与えられているものである。


ヘーゲルの精神現象学(下)を書写しました。序文を大事にしていらっしゃいます。
46 2024/05/20(月) 08:47:18.23 ID:0(46/146)
★続き

それは、著書がその著作でくわだてた目的についてのものであるし、また著作の機縁や、対象をひとしくし、先行するほかの論考や、同時代のそれに対して、じぶん著作が立っているものと念(おも)っている関係にかんしての説明であることもある。

精神現象学(上)p10
47 2024/05/20(月) 08:49:03.58 ID:0(47/146)
誤 じぶん著作

正 じぶんの著作
48 2024/05/20(月) 09:11:50.36 ID:0(48/146)
続き

そうした説明は、哲学的な著作の場合にはよけいなものとなるばかりか、ことがら本性からして不適切であって、さらには目的に反するものであるかにも見える。
というのも、なにをどのように哲学をめぐって「序文」なるもののなかで語るのが適当であるとされようと//たとえば、傾向や立場、一般的な内容や帰結にかんする羅列的な論述であれ、あるいは真なるものをめぐってあれこれと述べたてられる主張や断言を繋ぎあわせることであったとしても//、そのようなものは、哲学的な真理が叙述されるべき様式や方式として、ふさわしいものではありえないからである。

精神現象学(上) p10より
49 2024/05/20(月) 09:23:20.12 ID:0(49/146)
続き

その理由はまた以下の点にある。哲学は本質的に普遍性という境位のうちで展開されるものであり、しかもその普遍性は特殊なものをうちにふくんでいる。
そのかぎりで哲学にあっては、他のさまざまな学にもまして、目的や最終的な帰結のうちにこそ、ことがら自身が、しかもその完全な本質において表現されているものだ、という仮象が生まれやすい。この本質にくらべれば、実現の過程はほんらい非本質的なものである、とされるわけである。

精神現象学(上) p10。
50 2024/05/20(月) 10:30:05.44 ID:0(50/146)
続き

これに対して言わなければならないことがある。
たとえば解剖学とは、生命を欠いて現にある存在という側面から考察された、身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである。
そうした解剖学をめぐってはそれが「なんであるか」という一般的な観念を手にしたところで、ことがらそのもの、つまり解剖学という学の内容をそれだけでは我がものとしているわけではなく、それにくわえてさらに特殊なものを手にいれるべく努力しなければならないというはこべを、ひとが疑うこともない。

精神現象学(上) p11
51 2024/05/20(月) 11:11:27.54 ID:0(51/146)
//ちなみに解剖学などは知識の寄せあつめであって、学の名を与えられる権利をもたないけれども、そのようなものについては、〔「序文」にあって〕目的とか、それに類する一般的なことがらにかんしておしゃべりがなされるのが通例である。
しかもそのおしゃべりは、羅列的で概念を欠いたしかたでなされるが、内容そのものである、この神経やこの筋肉などについて語られるのもまた、そのおなじ方式においてなのである。
哲学の場合は、これに対して、そのようなやりかたが用いられれば不整合が生じるのであって、そのけっか、このような様式では真理が把握されないことが、やはり哲学そのものによって指ししめされるはこびとなるはずである。

*1 Element ヘーゲルの場合はおおく、「要素」といった意味ではなく、なんらかのものがそのうちで「ところを得ている」場所といった意味あいで使用される。たとえば、魚にとっては水、鳥に対しては大気がその「エレメント」となる。
52 2024/05/20(月) 12:26:50.42 ID:0(52/146)
つづき

★哲学的体系どうしの関係について

同様にまた、或る哲学的労作が、対象をおなじくするいくつかのべつの努力に対して立っていると信じられる関係を規定してみるとしよう。その場合でも種類をことにする感心が引きいれられて、真理を認識するさいに重要なことがらが冥がりに閉ざされてしまう。

精神現象学(上) p12
53 2024/05/20(月) 12:33:29.83 ID:0(53/146)
デリダの「差延」で考える、大人と過去の自分との「つながり」

ドゥルーズの「差異と同一性」って知ってる? 簡単に言えば、人は常に変化し続けていて、過去の自分とは完全に違う存在だっていう考え方なんだ。

小学校の頃、中学校の頃、高校生の頃、昨日の自分... 確かにどれも全然違うよね。でも、それら全てが今の自分につながっているってのも事実なんだ。

もし、過去の自分が全く違う存在だとして、大人になった自分は昔の自分を「自分」だと思えるだろうか?

例えば、小学生の頃は視力抜群だったけど、今は眼鏡なしじゃ生活できない。だからといって、過去の自分は「自分じゃない」ってことになるのかな?

デリダは、このような「違い」と「つながり」の関係性を「差延」という言葉で表現したんだ。「差延」とは、時間や空間を超えて、互いに影響し合いながら変化していく関係性を指す。

つまり、過去の自分と今の自分は完全に違う存在だけど、互いに影響し合いながら今の自分を作り上げてきたってことになるんだ。

だから、大人になった自分は過去の自分を否定するのではなく、過去の自分との「違い」を受け入れ、「つながり」を感じることが大切なんだ。

視力が落ちたのは残念かもしれないけど、その経験があったからこそ、今の自分がいるってことも事実だよね。

過去の自分を否定せずに、今の自分と過去の自分との「違い」と「つながり」を理解することで、より自分自身を深く理解できるようになるんだ。
54 2024/05/20(月) 12:57:31.53 ID:0(54/146)
そうそう、昔の自分と今の自分、両方の違いを受け入れてみること、そして理解すること。

よく理解するなら許せるってあるよね。そんなふうに自分を許せたらいいのなね。

自分自身を深く理解してみるなんてステキだね
55 2024/05/20(月) 16:48:50.79 ID:0(55/146)
つづき

真なるものと偽なるものとの対立は固定されているとする思いなしがあるがゆえに、そうした思いなしによればまた、なんらかの現にある哲学的体系に対して賛成なのか、それと矛盾しているのか、〔その説明〕だけが期待されるのがつねとなる。

、、、

期待というワードが出てきた。それでは何のための〔期待〕なのだろうか。
思いなしとは珍しく出てきた。考えてみよう。
56 2024/05/20(月) 17:45:02.08 ID:0(56/146)
つづき

……こうして、そのような体系をめぐって説明をくわえようとしても、賛否のどちらかだけを見てとろうとするものなのである。
そのような思いなしがあると、哲学的体系どうしの相違は真理〔※ヴァールハイト〕がしだいに発展してゆくすがたとして把握されずに、むしろそうした相違のなかにひたすら矛盾のみがみとめられることになる。

、、、

「認められることになる」ではなく、ひらがなで「みとめられることになる」と翻訳されている。こうしたひらがなで明記することはこれだけではない。考えてみよう。
57 2024/05/21(火) 09:42:02.90 ID:0(57/146)
つづき

つぼみは花弁がひらくと消えてゆく。そこでひとは、つぼみは花弁によって否定されると語ることもできるだろう。
おなじように、果実をつうじて花弁は、植物のいつわりの現存在であると宣言される。
だから、植物の真のありかたとして、果実が花弁にかわってあらわれるのだ。
植物のこれからの形式は、たんにたがいに区別されるばかりではない。
それらはまた、相互に両立できないものとして、排除しあっている。
しかしこれらの形式には流動的な本性があることで、それらは同時に有機的な統一の契機となって、その統一のなかでくだんの諸形式は、たがいに抗争しあうことがない。

――――――

ヘーゲルはここで『つぼみ』と『花弁』という言葉を用いて説明している。

いつわり、とひらがなで翻訳されている熊野純彦さんの思いやりが『ひらがな』で訳すことだったのでしょうか。
58 2024/05/21(火) 11:31:57.47 ID:0(58/146)
つづき

そればかりか、一方は他方とおなじように必然的なものとなる。
そこで、このようにどの形式もひとしく必然的であることこそが、はじめて全体の生命をかたちづくるのである。
いっぽう或る哲学的体系に対して矛盾していることがみとめられる場合、ひとつには、その矛盾そのものがこうしたしかたではふつう把握されない。
もうひとつには、その矛盾をとらえたとしても、当の意識はつうじょう、矛盾をその一面性から解放し、あるいは自由なものとして保持することを知らない。
さらには、あらそい、反対しあっているかに見えるものが採っている形態のうちに、たがいに対して必然的な契機を認識するすべも知らないのである。

――――――

『精神現象学』(上) p13

――――――

哲学的体系に対して、矛盾がしていることがみとめられる場合、
多くの者たちは矛盾をはあくできないでいる。

そして矛盾をとらえたとしても、我々には、矛盾をそれ自身から解放し、あるいは自由なものとしてその矛盾を支えるすべを知らない。

――――――私=(ネット眠さん)の解説
59 2024/05/21(火) 12:22:10.79 ID:0(59/146)
右に挙げたような説明を要求することは、その要求を満足させることとならんで、本質的なことがらに従事していることと見なされやすいものである。
なんらかの哲学的著作について、その内奥にあるものは、当の著作の目的と帰結を措いて、それ以上にいったいどこで表明されているというのか。
さらには、そうした目的と帰結がはっきりと認識されるのは、なによりも、同時代人たちがそうはいってもおなじ領域で生みだしたものとの相違をつうじてのことではないのか。
〔ひとはそう主張するわけである。〕とはいえ、このようなふるまいが、認識するにさいしてそのはじまり以上のものと見なされ、それがまた現実的な認識と見なされる、などというはこびとになったとしてみよう。
その場合には、じっさいには手管に数えいれられるべきものが生まれているのであって、それによってことがらそのものが回避される。

――――――

『精神現象学』(上) p13‐14

――――――

なんらかの哲学的著作について、その真髄となりそうなものは、当の著作の目的と帰結以外に、どこにあるだろうか。

――――――ネット眠の解説
60 2024/05/21(火) 17:04:40.54 ID:0(60/146)
そのうえ、ことがらをめぐって真剣に努力しているかのような外観と、当の努力を現実には省略すること、この両者がむすびあわされているのである。
──そもそも、ことがらはそれが〔上ルビ〕目的〔、、〕とするところで汲みつくされるのではなく、その生成とともに全体となる。目的とは単独では[フユール・ジッヒ]生命を欠いた普遍的なものにすぎない。それは、傾向がたんなる駆動であって、その現実性をいまだ欠落させているのと同様である。
たほう剝きだしの成果とは、傾向を背後に置きざりにした屍なのだ。

──────

精神現象学(上) p14
61 2024/05/22(水) 09:43:20.31 ID:0(61/146)
つづき


──おなじく、相違(上ルビ、、)とはむしろことがらの限界であって、相違が存在するところでは、ことがらはおわってしまっている。
いいかえれば、相違とはことがらが「それではないもの」である。
そのように、目的や成果に、同様にまた或るもの〔ひとつの哲学的体系〕とべつのものとの相違やそれらの評価にかかずらうとすれば、それは、だから、たぶん見かけよりもたやすい仕事なのだ。
ことがらをとらえようとするかわりに、そうしたふるまいはつねにことがらを飛びこえてしまっているからである。
つまり、ことがらのうちで足をとめて、そこに没頭するのではなく、そのような知識はいつでもなにかべつのもとを追いもとめている。
要するに、ことがらのもとにとどまって、これにみずからを捧げるというよりは、かえってじぶん自身のもとにありつづけようとするものなのである。
――もっとも容易なのは、内実をそなえ、堅固なものを評価することだ。
より困難なのはそれをとらえることであり、もっとも困難であるのは、そのふたつのことがらを統合することである。
つまり、内実があり、堅固なものを叙述してみせることにほかならない。


──────

精神現象学(上) p14‐15
62 2024/05/23(木) 09:47:15.71 ID:0(62/146)
★教養のはじまりは、実体的な生からの離脱にある

教養のはじまりとはつまり、実体的な生*1の直接的なありかたを離脱しはじめようとつとめることである。
それがはじまるのはつねに、さまざまな一般的な(上ルビ、、、、)原則と立場にかかわる知識を手にすることによってであるほかはなく、なによりまずことがら一般(上ルビ、、)にかんして思考されたもの(上ルビ、、、、、、、)へと向上しようとつとめることによってである。
さらに、これにおとらず、ことがらを支持するのにも反駁するのにも根拠をもってすること、具体的でゆたかに充実した内容を、その規定されたありかたにしたがい捉えること、くわえて、この内容をめぐって正当な決定と厳粛な判断とを下すすべを知ることをつうじてなのである。
教養のこうしたはじまりは、しかしさしあたりは、充実した生の厳粛さに席をゆずり、その厳粛さによって、ことがらそのものの経験へとみちびかれることになるだろう。
いっぽうまた、なおこの件が付けくわわって、概念の厳粛さがことがらの深みまで達することになった場合でも、これまで語ってきたような知識や評価には、おしゃべりのなかでは、なおもその恰好な場所が残されるしだいとなるだろう。

p15

*1
「教養 Bilding」とはみずからを形成することであるのに対して、「実体的な生 das substantielle Leben」とは、いまだ対立を知らない素朴な生のこと。「反省 Reflexion」がそこに対立をもちこみ、統一された生を分裂させることになる。

p16


──────

精神現象学(上)p15-16
63 2024/05/23(木) 10:28:26.24 ID:0(63/146)
★真理は学的な体系としてのみ実現される

真理が現実在する、〔それじしん〕真なる形態は、ひとり真理の学的な体系以外にはありえない。
哲学〔愛知〕は学の形式へ、つまりその目標へと、より近づいてゆかなければならない。
その目標とはつまり、「知への愛」というみずからのなまえを脱ぎすてることができ、現実(上ルビ、、)に知(上ルビ、)となることなのだ。
そのための努力に参加することこそが、私のくわだてたことがらなのである。

──────

真理が現実在としてあり、それの真なる形態は、ただ真理の学的な体系以外にはありえない。
哲学は真理を探究する形式を学び、知を獲得する。こうした努力が、ヘーゲルのくわだてたことがらなのである。

──────

精神現象学(上)16
64 2024/05/24(金) 08:49:24.66 ID:0(64/146)
つづき

その内的な必然性からして、知(ヴィッセン)は学〔体系的知〕(ヴィッセンシャフト)でなければならず、この件は知の本性のうちに存することがらである。
しかもこの点にかんするじゅうぶんな説明は、ひとり哲学そのものを叙述することによってだけ与えられる。
外的な(上ルビ、、、)必然性であっても、しかしそれが個々人とその個人的な機縁という偶然性をはなれて、普遍的なしかたで把握される場合、そのかぎりでは内的な(上ルビ、、、)必然性とえらぶところがない。

😀
知は学体系的知であるべきであり、これが本性のうちあるべき在り方である。
この件はただ哲学そのものを叙述することによってだけ説明できる。


―――

精神現象学(上)p16
65 2024/05/24(金) 15:40:52.43 ID:0(65/146)
すなわち時代が、この必然性の諸契機が現に存在するありかたを表象してる形態にあってはおなじものである、ということだ。
哲学を学まで高めるべき時代が到来している。
この件をさし示すことによって、またそのことによってのみ、したがって、その目的をいだく〔本書の〕こころみが真に正当化されるだろう。
なぜなら時代が証明しているのは、その目的が必然的なものであることであろうし、そればかりか同時に、時代はこの目的を実現するにいたるだろうからである。

😂難易度85(最高100)



精神現象学(上)p16−17
66 2024/05/25(土) 10:10:52.50 ID:0(66/146)
★直接知の立場が、このことに反対している

真理がそなえるべき真の形態は、このような学であること《ヴィッセンシャフトリッヒカイト》のうちに定立される。
あるいはおなじことであるけれども、真理にかんして、それはただ概念においてのみ、みずからが現実存在するための境位《エレメント》を有するものと主張される。✤1

──────

✤1 「概念Begriff」とは、ことがらの全体をその本質にあってとらえるものである。真理が知においてとらえられ、知の体系的全体である学のかたちで、叙述されなければならないとすれば、真理を真理とする境位、あるいは場面は、この概念のうちにあることになる。
通常たんに「とらえる、把握する」という意味でも用いられる
begreifen という動詞をヘーゲルは、このような連関で、つよく概念という含意を強調して使用することがあり、そのような場合には「概念的に把握する」と訳しておく。

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注釈はp18でしたがわかりやすさを考えました。これがヒントです。

😂難易度93(最高100)

精神現象学(上) p17

p18を一歩早く書きました。
67 2024/05/25(土) 11:42:57.01 ID:0(67/146)
そのばあい私としても、このような主張が或る考えかた(フォアシュテルング)とその帰結とに矛盾しているかに見えるしだいは分かっている。
その考えかたはしかも、当代のひとびとの確信にあって、ひろく行きわたっているとともに、きわめて尊大な僭越を生んでいるものなのだ。

──────

😅💌 難易度98(最高100)

精神現象学(上)p17
68 2024/05/26(日) 10:34:54.93 ID:0(68/146)
それゆえ、このような矛盾についていくらか説明しておくことが、よけいなこととは思われない。
たとえその説明その説明が、ここ〔序文〕では一箇の断言を超えるものではありえず、それは当の説明が立ちむかおうとするものとえらぶところがないとしても、この点にかんしてはうごかない。

😂難易度92

精神現象学(上) p17
69 2024/05/26(日) 11:15:35.64 ID:0(69/146)
〔その考えかたによれば〕つまり、真なるものは、ただ以下のようなもののうにのみ現実に存在し、あるいはむしろ、ひとりそのようなものとしてだけ現実存在する、とされる。
そのものは、あるときは直観、べつの場合には絶対的なものにかんする直接知、宗教、存在──しかも、神的な愛の中心における存在ではなく、かえってその中心そのものの存在──と称されるのだ。
そうであるとすれば、ここからただちに哲学の叙述に対しても、概念による形式とはむしろ正反対のものが要求されるにいたる。

😅💌難易度99(最高値100)

精神現象学(上) p17.18
70 2024/05/26(日) 16:36:27.81 ID:0(70/146)
すなわち、絶対的なものは概念的に把握されるべきではなく、感得され、直観されるべきである、ということである。
絶対的なものの概念ではなく、かえってその感情と直観とが口をひらいて、その感情と直観が語りださなければならないというわけである。


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絶対的なものは、常に感得された、あるいは直観されたもので、概念として口をひらくのではなく、直観が語りださなければならない。
(解説 ネット民)
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😄🤩難易度56(最高100)

精神現象学(上) p18 
71 2024/05/26(日) 16:47:34.95 ID:0(71/146)
★精神の現況はどのようなものであり、哲学になにが要求されているのか?


このような要求があらわれてきたことを、その要求を生んだより一般的な脈絡にしたがって把握し、自己を意識した精神が現在たっている段階に目を向けてみよう。

😄😂難易度76

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精神現象学(上) p18
72 2024/05/27(月) 08:56:58.28 ID:0(72/146)
そうすると精神は、実体的な生──精神はかつて思考の境位(エレメント)という点でそのような生をいとなんでいたのだ──を超えでてしまっていることがわかる。
つまり精神はみずからの信仰が有していたこのような直接的なありかたを超え、確信したありかたに満足し、安らっているありようを超えてしまっている。
そのような確信を意識は、実在とじぶんが宥和していること✤1について、また実在の普遍的な、内的かつ外的な現在にかんして所有していたのである。

😁😆難易度86

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精神現象学(上) p18-19
73 2024/05/27(月) 09:09:35.97 ID:0(73/146)
精神は、このような段階を超えて、実体を欠いてみずから自身のうちへと精神が反省的に立ちもどる(レフレクシオーン)、もう一方の極へと超えでているばかりではない。
このような反省(レフレクシオーン)をも超えてしまっているのだ。
じぶんにとって本質的な生が、精神には失われている。それだけではない。
精神はまた、この喪失を意識し、有限性がじぶんの内容となっていることをも意識している。 〔かつて存在していた実体的なありかたの〕残りかすをやめ、みずからが悪しき状態に置かれているしだいを告白し、それを呪いながら、精神がいまや哲学に要求するにいたったところは、むしろ「精神とはなんであるか」をめぐる知ではない。

難易度86

精神現象学(上)p19
74 2024/05/27(月) 09:19:55.39 ID:0(74/146)
かえって、くだんの実体的なありかたと、存在の堅固さとが、哲学によってふたたび恢復されるにいたるところを望むのである。
このような要求に応じるために哲学がなすべきところは、したがってむしろ、実体の閉ざされたありかたを開示して、それを自己意識〔の次元〕まで高めることではない。
つまり、カオスをはらんだ意識を、思考を経た秩序と、概念という単純なあれりかたへと連れもどすことではない。

──────



😄😆難易度83

精神現象学(上)
75 2024/05/28(火) 11:03:51.22 ID:0(75/146)
かえって、思考を分離したものを〔ふたたび〕攪乱し、区別だてをおこなう概念を抑止して、
実在(ヴェーゼン)をめぐる感情を再興すべきである。すなわち、洞察*3ではなく、むしろ信心をこそ与えるべきだ、というのである。
美しいもの〔シラー〕、聖なるもの、永遠なもの〔シェリング〕、宗教と愛〔シュライエルマッハー〕といったところが、必要となる餌であって、それらによって喰らいつく快楽が喚起されるのだ。
概念ではなく忘我(エクスターゼ)が、ことがらが冷然と進行してゆく必然性ではなく、むしろ滾りたつ霊感こそが、実体のゆたかさをささえ、それを不断に拡大してゆくものである、とされるのである。


😍難易度85
──────

✤1と2と3は省かせていただいた。詳しくは「精神現象学 上」
76 2024/05/29(水) 11:13:37.21 ID:0(76/146)
★哲学に対するそのような要求の背後にあるもの

こういった要求に対応するものが、張りつめた、ほとんど熱狂にも接し、いらだっているかにも見える努力であって、そのような努力によってひとびとを、感性的なもの、卑俗なもの、個別的なものへの惑溺から引きはがして、その視線を星辰へと振りむけさせようとするのである。
それはあたかも、ひとびとが〔いまや〕神的なものをまったく忘れはて、塵と水とを与えられて、虫けらのように微小な一点で満ちたりたままであるかのようなのである。
かつてひとびとには、思想と形象の大いなる富をともなう天界が与えられていた。
存在するすべてのものは光の糸につながれて意義をもち、その光の糸によってあらゆるものが天界へとつなぎとめられていた、ということである。
この光の糸をたどることで、この現在に立ちどまることなく、視線は現在をこえて神的存在(ヴェーゼン)を振りあおぎ、いわば彼岸的な現在を仰ぎみていた。
そのとき精神の眼を地上的なものに向けさせて、そこに縛りつけておくためには、むしろ強制が必要であったのである。
だから、長い歳月をかけて、地上を超えたものだけが有していたあの明るみを、彼岸的なもののそなえる感覚が置かれている、陰鬱と混乱のうちへみちびき入れ、現在的なものそのものへの注意━━この注意が経験と呼ばれる━━が関心を惹くもの、意味をもつものとされる必要があったのだ。
━━いまや正反対のことがらが、必要なものとして現にあらわれているかのようである。


━━━━━━

😲難易度87


精神現象学(上)p20-21
77 2024/05/30(木) 09:38:56.93 ID:0(77/146)
つまり、感覚は地上的なもののうちにあまりに深く根を下ろしているので、そのような感覚をおなじく暴力をもって地上的なものから引きあげなければならない、ということである。
精神が示しているすがたはあまりに貧しく、精神はまるで砂漠をさすらう者のごとくただ一杯の水に焦がれるかのように、神的なもの一般をほんのすこしでも感じとって、みずからの英気を恢復しようと憧れているとでも言いたげなのだ。
精神に満足を与えているこのささやかなものをもって、精神が喪失してしまったものの大きさが測られるべきなのである。

受けとったものでかくて満足してしまうこと、あるいは与えることがかくも貧しいものであることは、しかし学にとって似つかわしいところではない。
みずからが地上に現にあり、思考しているにふくまれている、多様なありかたを霧のうちに包みこんで、このふたしかな神性のさだかではない享受を追いもとめる者は、じぶんがどこでそれを見いだすのかを思ってみるがよい。
そのような者であるならば、なにかに熱狂して、その或るもので得意になるすべを、じぶんでたやすく見いだすことになるだろう。
哲学がみずから戒めなければならないのは、だが、信心ぶかくあろうとすることなのである。

──────
😂難易度99

精神現象学(上) p21-22
78 2024/05/30(木) 11:19:42.23 ID:0(78/146)
このようなもので満足してしまうことは、学を断念するしだいであって、そのような満足がましてこのような感激と混濁とをもって、学を超えたなにより高きものであるする要求におよぶことなど、あってはならないところである。

😒難易度92〜94

精神現象学(上)p22
79 2024/06/03(月) 17:02:22.68 ID:0(79/146)
そうした預言者めいた語り口は、まぎれもなく、〔ことがらの〕中心と深みとに佇んでいると思いこんでいるものであって、かくして〔ことがらの〕限定されたありかた(ホロス Horos)〔ギリシャ語〕を、侮辱をこめて見やって、概念とその必然性とから、わざと身を遠ざける。
そういったものは、ひとえに有限性をすみかとする反省にすぎないからだ。
とはいえ、空虚(レール)なひろがりといったものが存在するように、空々しい(レール)深みといったものもまた存在する。
多様であるとはいえ有限的なありかたへた流れでながら、それを総括する力を欠いた実体の延長が存在する。
おなじように、内実をともなわない強度も存在するのであって、それはただの力であるにとどまり、ひろがりを欠いている。
──────

😄💌 難易度86(最高100)

精神現象学 p22-p23
80 2024/06/04(火) 12:43:36.40 ID:0(80/146)
これはつまり、表面的であることにひとしい。
精神の力が大きなものとなるのは、ただそれが発現する(オイセルング)のに応じてのことであり、その深度が深まってゆくのはひとえに、精神みずからを展開し、ひろがりを増してゆくことで、じぶんを喪失するのに耐える度合いにひとしい。

──これと同時に、このように概念をともなわない実体的な知が、自己の固有なありかたを実在(ヴェーゼン)のうちに沈めてしまい、真に神聖なしかたで哲学しているのだ、と称するとしよう。

😍 難易度85(最高100)

精神現象学 p23
81 2024/06/04(火) 15:25:56.07 ID:0(81/146)
その場合でもみずから隠していることがらがある。
それは、この知は神に身をゆだねるのではなく、規準と規定とを軽蔑することで、むしろ或るときにはしぶん自身のうちに内容の偶然性を、べつの場合には内容のなかにあるしぶん自身の恣意を放置しているということだ。
──こうした者たちは実体が制御を欠いて発酵してゆくのに身をまかせるのだから、じぶんが自己意識を包みかくし、悟性をばなすことで、「いとし子」〔旧約聖書、詩篇一二七─二〕
となり、じふんには、眠っているうちに神から智慧が授けられるものと思いこんでいる。かれらがじっさいに眠りのなかで身ごもって産みだすものは、それゆえにまた夢なのである。

──────

自分なりに拘ってしまい、恣意を放置してしまう者は、眠っているときの恩恵もなく、彼が産みだすものはそれゆえにまた夢だ。

😁難易度83(最高100)

──────

精神現象学(上)p23-24
82 2024/06/04(火) 15:37:02.43 ID:0(82/146)
てす
83 2024/06/04(火) 15:59:24.64 ID:0(83/146)
★私たちの時代は誕生の時代である

ちなみに、見てとるかにかたくない消息がある。
私たちの時代が誕生の時代であり、あらたな(かく期、ここではかくが漢字表記)へと移行する時代であるということだ。

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かく期とは漢字で表記できない場合がある。そのためひらがなで表記しました。
84 2024/06/05(水) 09:51:09.59 ID:0(84/146)
精神は、これまでの世界と、その現にあるありかた(ダーザイン)においても、そのとらえかた(フォアシュテレン)にあっても手を切って、それを過去へと沈めさり、みずからを改造する仕事に取りかかろうとしている。
精神はというものは、どのようなときでも静止することがなく、たえず前方へと歩をすすめる運動をつづけているのは、たしかなところである。
けれども、〔ここで言おうとしているのは、それだけのことではない。〕子どもは、ながいあいだ静かに〔胎内で〕養われたのちに、〔胎外で〕最初の息を吸い、それまでのただしだいに量を増やしてゆくだけの進展がとつぜん途切れる。
ここに質的な飛躍が生まれ、いまや子どもが誕生する。ちょうどそれとおなじように、みずからを形成する精神もゆっくりと静かにあらたな形態にむかって成熟してゆき、これまでのじぶんの世界という建築物の小部分をひとつずつ解体してゆく。
そのばあい世界の動揺は、ひとえに個々の徴候をつうじて感知されるにすぎない。
徴候というのはつまり軽薄さや倦怠感は、現存しているもののうちで蔓延ったり、未知なものへの不定型な予感がひろがったりすることであるけれど、これらはなにかべつにのものが近づきつつあることの前兆なのだ。
ゆっくりとすすむこうした崩壊によっては、全体の相貌が変じることがなかったとはいえ、そのゆるやかな崩壊は日の出とともに断ちきられる。
陽光が、一閃の光によって一挙に照らしだすものは、あらたな世界のすがたなのである。

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🌝 難易度97(最高100)

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精神現象学 p24-25
85 2024/06/06(木) 09:36:14.78 ID:0(85/146)
★登場してきたばかりの学には、避けがたく欠陥がある


しかしながら完全に現実的なありかたを、このあらたなものがそなえてはいないことについては、たったいま生まれたばかりの子どもとえらぶところがない。
この件は、本質的にいってみすごされてはならない。
それがはじめて立ちあらわれたときには、このあらたなものはようやくその直接的なありかたを示しているにすぎず、いいかえればみずからの概念であるにすぎない。
建築物が完成したといえるのは、その基礎が置かれたときではないように、全体の概念に到達したからといって、その概念が全体そのものであるわけではない。
一本の樫の木を、逞しい幹とひろがった枝、茂った葉をそなえたすがたで目にしたいと願っているときに、それにかえて樫の実をひとつ示されたとしても、私たちとしては満足するわけにはいかない。
それとおなじように学、精神の世界におけるこの王冠は、そのはじまりにあって完成されているわけではない。

(……あらたな……につづく)

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🌝 難易度86(最高100)

精神現象学(上) p25
86 2024/06/06(木) 10:30:42.58 ID:0(86/146)
あらたな精神のはじまりとは、多様な教養の形式が広範なしかたで変革されてきたことの所産であり、さまざまに入りくんだすじみちが辿られてきたことの賜物であって、おなじようにさまざまな緊張と努力の賜物である。
そのはじまりは、〔多様なみちすじが〕つぎつぎと開け(ズクツエシオン)、ひろがってきて(アウスブライトウング)、しかもそこからみずからに立ちかえってきた全体であって、つまり生成を経てきた全体がしめす単純な概念なのである。
このような単純な全体が現実になりたつのは、いっぽう、〔いまや〕契機(モメント)となっているくだんの形態のさまざまなふたたびあらたに、しかも境位(エレメント)をもあらたにし、つまり生成してきた意味において展開され、形態を与えられるはこびをつうじてのことなのである。

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🌝 難易度89

精神現象学(上)p26
87 2024/06/07(金) 10:34:01.08 ID:0(87/146)
一方では、あらたな世界がはじめてあらわれたときには、それはみずからの単純なありかたのうちで蔽われた全体であり、あるいはその全体に対する一般的な根拠であるにすぎない。
その場合〔あらたな世界に直面した〕意識にとっては、これに対して、先行する〔すでに過ぎ去った〕現にあるありかたがそなえていた豊かさが、いまなお想起のうちで現前している。
そうした意識が、あらたにあらわれつつある形態をまえにすると、そこには内容のひろがりと特殊化が欠けているのを託つしだいとなる。
この件にもまして、しかしこの意識が嘆くのは、形式がなおその形成をおえて(アウスビルドウング)いないことである。
そのような形式によってこそ、さまざまな区別が確実に規定され、それらの確乎たる関係へと整序されるからである。
そうした形成をおえていないばあい学には一般的な理解可能性が欠けており、学が身にまとう外観は、それがいくらかの個人の秘教的な所有物にすぎないといったところになる。

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😄 難易度93(最高100)

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精神現象学(上)p26
88 2024/06/08(土) 15:13:23.41 ID:0(88/146)
──いま「秘教的な所有物」といったのは、学がようやくその概念であるにとどまっているからであり、いいかえれば目のまえにあるものは学の「内なるもの」にすぎないからである。
たほう「いくらかの個人の」とも語ったけれども、それは、学がなお展開されたしかたではあらわれていないかぎり、その現にあるありかたは個人にぞくするものであるからだ。
かんぜんに規定されたものであってはじめて、同時に公教的となり、把握可能であって、学ばれ、したがって万人の所有物に帰することができる。
学の理解可能で悟性的(フェアシユテンディッヒ)な形式が、すべてのひとに提供され、あらゆるひとに対してひとしく開かれた、学へといたるすじみちであって、悟性(フェアシユテンタント)
をつうじて理性的(フェアニユンフテッヒ)な知へと到達しようとすることは、学へと近づこうとする場合、意識が正当に要求しうるところなのである。
悟性とは思考することであり、純粋な〈私〉一般であって、悟性的に理解可能なことがら(ダス・フェアシユテンデイゲ)こそがすでによく知られているものであり、学と学に到達していない意識とに共通した場面だからである。
その場面をつうじて、意識は直接に学へとすすむことができるのである。

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😄 難易度99(最高100)

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精神現象学(上) p26-27
89 2024/06/09(日) 14:29:15.12 ID:0(89/146)
ここで✤つきの説明文がかいてあるが、省かせていただいた。

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学は、それがようやく開始されたばかりで、したがってその細部については完璧ではなく、形式にかんしても完全なものとなっていない場合には、この点をめぐって批難にさらされることになる。
とはいえ、この批難が学の本質(ヴェーゼン)にかかわるものであるなどというならば、それは不当なものであろう。
他方おなじように、学を完全に形成することへの要求を承認しようとしないことも、許されないところだろう。
このような対立がもっとも主要な結び目であって、その結び目をほどくために、学を形成しようとする努力が現在のところ奮闘しているのであり、しかもその件にかんしては、いまだ適切な理解がえられてはいないのだ。
一方のひとびとは素材の豊かさと〔形式の〕理解しやすさ(フェアシュテントリッヒカイト)とを誇っている。
他方のひとびとは、すくなくとも悟性的であること(フェアシュテントリッヒカイト)を軽蔑し、ただちに理性的であり、神的なものであることを誇示している。前者が──真理の力のみによってのことであるか、あるいはまた後者が喧噪をきわめているがゆえにであるかはべむとして──、沈黙を余儀なくされ、そのうえ、ことがらの根拠にかんして圧倒されていると感じているとしても、かれらが、だからといってくだんの要求について満足させられているというわけでもない。
要求は正当であるのに、それが充足されていないからだ。
前者のひとびとが沈黙しているとすれば、それはなかばは〔後者の〕勝利のゆえであるにすぎず、なかばは倦みはて、無関心になっているせいである。
そうした倦怠と無関心は、たえず期待が換気されるのに、約束の履行がともなわないばあい生じるのがならいなのである。

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😀 難易度99(最高100)

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精神現象学(上)p28.29
90 2024/06/10(月) 12:16:15.74 ID:0(90/146)
★学の内容と形式をめぐるあらそい

内容にかんしてはいえば、後者のひとびとがときとして、いともたやすくやってのけるのは、多大なひろがりを手にすることである。かれらがみずからの地盤に引き入れるのは大量の素材であって、それはつまりすでによく知られており、整理されたものなのだ。
その者たちがとりわけてかかずらっているのは、珍奇で好奇心をそそるものであるから、かれらはそれだけに、それ以外のもの、知がそれなりにすでに片をつけてしまったことがらにかんしては〔いうまでもなくすでに〕所有さており、同時にまたまだ整理されていないものも思いのままにすることができるかのように見える。
こうして、そのひとびとはいっさいを絶対的理念のもとに従属させているかに見えるし、その理念がかくてまた、すべてのもののなかで認識され、ひろがりをもって学にいたるまで成長しているかに見えるのである。
しかしより立ちいって、このひろがりなるものを考察してみよう。
そうすれば分かるとおり、そのひろがりがもたらされるのは、「一箇同一のもの」がみずから自身にことなったしかたで形態を与えたことによるのではない。むしろそのひろがり……

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😄 難易度97(最高100)

むしろそのひろがり、までがp29である。

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精神現象学(上)p29
91 2024/06/10(月) 16:58:52.52 ID:0(91/146)
むしろそのひろがりにあっては、「一箇同一のもの」が形態を欠いて反復されている。
「一箇同一のもの」がさまざまな素材に対して外的に適用されているぎすぎないかぎり、そこにふくまれているのは、相違をよそおう退屈なみかけだけなのてある。
ここには、たしかにそれだけで見れば(フユール・ジッヒ)真の理念があるのかもしれないが、その理念にはじっさいにはただみずからの出発点にいつまでも停止しているほかはない。
そこで展開がなりたっているのは、同一の定式がこのように反復されることを措いてはほかにないからである。
ただひとつの不動の形式が、知る主観によって目のまえにあるものに手あたりしだい適用され、素材がこの形式という静止した境位(エレメント)のうちに外から持ちこまれて、そこに漬される。
このようなやりかたでは、内容にかんする恣意的な思いつきを挙げることにおとらず、要求されていることがらを充足することにはならない。
要求されているのはつまり、さまざまな形態がじぶんから豊かなものを溢れださせ、みずから自身を規定して区別することであるからだ。
ここにあるのはかえって、単調な形式主義によって素材の区別が到達されるとしても、それはひとえに区別がすでに準備されていて、よく知られているからにほかならない。

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😀 難易度99(最高100)

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精神現象学(上)p30
92 2024/06/11(火) 09:25:23.20 ID:0(92/146)
ジルときてドゥルーズだからな
93 2024/06/11(火) 16:46:41.67 ID:0(93/146)
★形式主義の批判──すべての牛が黒くなる夜

そのさい形式主義は、こうした単調なありよう、しかも抽象的に普遍的なありかたをもっと絶対的なものであると主張する。
形式主義の断言するところによれば、この普遍性に満足することができないのは、能力が欠けていて、絶対的な立場を我がものとし、それを堅持することができないからなのである。
かつてならば、或ることがらをべつのしかたでも、考えること(フォアシュテレン)ができる空虚な可能性が存在するというだけで、なんらなの考えかた(フォアシュテルング)を反駁するのに充分であった。
そのうえ、このおなじたんなる可能性、一般的な思想であっても、現象的な認識という積極的価値のすべてをそなえていたのである。

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形式主義は、普遍的なありかたや単調なありかた、どれもが抽象的にせよ、絶対的なものであると主張する。
形式主義の断言だが、この普遍性に満足することができないのは、能力に欠けていて、絶対的な立場を堅持することができないからなのである。
かつては、或ることがらをべつのしかたでも考えることができており、その空虚な可能性が存在するだけで、なんらかの考えかたを反駁するのに充分だった。
そのうえ、このおなじ可能性、一般的な思想であっても、現実的な認識という積極的価値のすべてを網羅していたのだ。

byネット民
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😄 難易度94(最高100)

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精神現象学(上)p30.31
94 2024/06/12(水) 09:45:52.01 ID:0(94/146)
そうであるとしても、私たちが形式主義にあって、同様に見てとるところもまた、非現実的なものでしかないこの形式をとった普遍的な理念に対して、いっさいの価値が帰せられていることである。
そこでは区別されたもの、規定されたものが、さらに展開されることなく、また空虚な深淵へと投げこまれ、そうすることがそれじしん正当化もされていない。
このようなやりかたが、思弁的な考察様式とみなされているのだ。
なにか或る現に存在するものが、絶対的なもののうちでどのように存在するのか。
この件を考察することが、形式主義にあっては、その現に存在するものにかんして、以下のように語ることにほかならない。
すなわち、「いまこの現に存在するものをめぐって、それがなにか或るものであると語りだされることはたしかなところである。
絶対的なもの、つまりA=Aのうちでは、しかしながら、そうした或るものはまったく存在せず、むしろそこではいっさいが「一」なのである。」
絶対的なもののなかでは、いっさいがひとしい。
このただひとつの知をもって、区別をともなって充実した認識、あるいは充実をもとめ、それを要求する認識に対して対抗している。
ことばをかえれば、じぶんがいうところの絶対的なものは、そう語るのがつねであるように、すべての牛を黒くする夜であるなどと公言されている。

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😐 難易度92(最高100)

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精神現象学(上)p31.p32
95 2024/06/13(木) 11:08:49.55 ID:0(95/146)
このようなことは、認識ついては空虚であることに由来する素材さというものである〔以上、シェリングとその学派に対する批判〕。
──形式主義については、最近の哲学がそれを見とがめ、軽んじるようになっている〔ヤーコビとヘルダーによる批判〕。
それでも、最近の哲学自身にあっても、形式主義はふたたび生みだされているのだ。
形式主義が不十分なものであることがよく知られ、また感じられているにしても、学から形式主義がすがたを消すとすれば、それは絶対的に現実的なありたかを認識することが、その本性にかんしてかんぜんに明晰なものとなるはこびを待ってのことだろう。
──一般的な 構 想 (フォアシュテルング) が、それを実現(アウスフユールング)しようとするこころみであるものに先だって与えられれば、それがじっさいに、遂行(アウスフユールング)されるさまを把握することを容易にする。
そも事情を考えてみると、その構想のあらましをここで暗示しておくことも一法である。
それはまた同時に、この機会をとらえて、いくつかの形式を遠ざけておくことを意図するものであって、その形式とは、それが習慣となることで、哲学的な認識を妨げてしまうものなのである。


😆 難易度99(最高100)

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精神現象学(上) p32
96 2024/06/14(金) 13:01:38.91 ID:0(96/146)
★真なるもの主体として把握され、表現されなければならない。

私が見とおしたところ(アインジヒト)は、ただ体系そのものを叙述することをつうじて正当化されなければならない。
その 洞察(アインジヒト)にしたがうならば、いっさいは、真なるものを実体としてではなく、むしろ同様に主体として把握し、表現することにかかっている。
同様に注意されなければならないことがある。
それは実体的なありかたが、普遍的なもの、あるいは知そのものの直接性を含んでいるとともに、知に対しての存在であり、もしくは知に対しての直接的なありかた(ウンミツテルバーカイト)である 直接性(ウンミツテルバーカイト)をもふくんでいるということである。

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ウンミツテルバーカイトというドイツ語を、直接的あるいは直接性と、熊野純彦氏は訳している。また、アインジヒトを、見とおした、あるいは洞察と訳している。

😄 難易度97(最高100)

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精神現象学(上)p33
97 2024/06/14(金) 13:55:44.75 ID:0(97/146)
──神はただひとつの実体として把捉すること〔スピノザ〕が、そのような規定が言明された時代、当時のひとびとを激昂させたことがある。
ひとつにその理由は、そのように規定すれば、自己意識はただ没落するばかりであって、維持されることはない、というしだいが本能的に感じとられたことにある。
いっぽうしかしその反対の見解、つまり思考としての思考に、すなわち普遍性そのものに固執する見解もまた〔カント、フィヒテ〕おなじように単純なありかたに固執しており、区別をふくまず、動くこともない実体的なありかたに陥っている。
さらに第三に、思考が実体の存在をみずからと合一させて、直接性あるいは直観作用を思考して把握する場合〔シェリング〕であっても、なお問題が残っている。
つまり、こういった知性的な直観作用もふたたび惰性的で単純なありかたに立ちもどってしまい、現実的なありかた自身を非現実的なしかたで呈示するものとなるのではないか、ということなのである。

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😅 難易度97(最高100)

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精神現象学(上)p33.34
98 2024/06/15(土) 15:36:33.49 ID:0(98/146)
生き生きとした実体とは、さらにいうなら、存在でありながら、その真のありかた(ヴァールハイト)においては主体であるものである。
あるいは同じことであるが、その存在が真に(イン・ヴァールハイト)に現実的であるのは、ただ実体が自己自身を定立する運動であるかぎりにおいてにすぎない。
いいかえれば、みずから他のものとなってゆくことでじぶん自身と媒介するかぎりにあってのことなのである。
生き生きとした実体は、主体であるがゆえひ純粋かつ否定的なありかたをともなっており、まさにその消息をつうじて単純なものでありながら、ふたつに分化していることであり、あるいはふたつのものへと二重化して対立しつつ、当の二重化がふたたび、このたがいに無関心な相違とその対立とを否定するはたらきなのだ。
このように〔他のものから〕みずからを恢復してゆく〔自己〕同等性であり、いいかえるならば、他であることのうちでじぶん自身へと反省的に立ちかえること──つまり、根源的にもともと 統一されたありかた(アインハイト) をしているのではなく、あるいはもともと直接的な統一性(アインハイト)であるわけでもないというこた──、これこそが真なるものである。
真なるものとはじぶん自身への生成であり円環であって、その円環はみずからのおわりをその目的として前提し、当のおわりをはじまりにおいて有している。
だから真なるものは、ひとえにその目的を実現して、おわりへと到達することによってのみ、現実的なものとなるのである。


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😀 難易度99(最高100)

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精神現象学(上)p34.35
99 2024/06/16(日) 13:13:31.66 ID:0(99/146)
ジル・サンダーの叔父か
100 2024/06/16(日) 13:51:03.52 ID:0(100/146)
★実在(ヴェーゼン)それをとらえる形式は不可分である

神の生命ならびに神的認識についていえば、それは、したがってたしかにか〔神の〕「愛がみずから自身とたわむれること」〔スピノザの神の知的愛 以下ドイツ語省略〕であると言明されうることだろう。
こうした観念は、しかし、ただの信心ぶかさ、そればかりか陳腐なものにすら成りさがってしまうことがある。
それは、否定的なものが有する真摯さ、痛み、忍耐、さらには労苦がそこに欠落している場合なのだ。
それ自体として(An sich)みるならば、神の生命は、みずから自身とひとしく、ひとつであること(アインハイト)であって、そこに攪乱はない。
この統一されたありよう(アインハイト)にとっては、他であることは真摯に受けとめられるべきことがらではなく、異他的なものとなることも、この異他的となること〔そのもの〕を克服することも真摯に受けとめられてはいない。
とはいえ、いま語りだされた「自体的なありかた」とは抽象的に普遍的なありかた(アルゲマインハイト)であって、当の自体的なありかた(Ansich)である普遍的(アルゲマインハイト)のうちでは、その本性からして、しぶんに対して存在することが、度外視されている。

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😁 難易度99(最高100)

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精神現象学(上) p35.36
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