【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参拾 (674レス)
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1 2024/03/29(金) 07:11:38.99
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!

九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。

議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!

前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖
2chスレ:history

過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。
それは声闘という朝鮮人の文化です。
反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。
2 2024/03/29(金) 07:12:12.15
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
3 2024/03/29(金) 07:12:48.59
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
4 2024/03/29(金) 07:13:22.92
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン

https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg

熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する

https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
5 2024/03/29(金) 07:14:00.91
◆邪馬台国の場所

383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな

309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg


当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
6 2024/03/29(金) 07:14:40.63
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html

伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう

では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
http://inoues.net/iron_nakoku.gif

博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区〜南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう

春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる

奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう
7 2024/03/29(金) 07:15:21.32
考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ

298 :日本@名無史さん :2020/11/24(火) 22:51:33.01
>>234
>伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない
そうやって考古学的事実から逃げるから君は事実に辿り着けない
古代史を考えるときに文献から出発するのは間違いの元
まず考古学的事実を確かめ、それを文献から解釈するようにしないと文献の嘘や誤りに流されるだけ

https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
> 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3〜4世紀のもので、
> 福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。
> 鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

分かるかい?
日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ
紀元前から鉄を手に入れ、その後も半島航路を牛耳っていた伊都国が畿内の田舎に仕えるなどあり得ないことだ
8 2024/03/29(金) 07:15:53.28
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/qQUIcdb.jpg

> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない
9 2024/03/29(金) 07:16:26.67
220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w

まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)


包囲される奈良盆地の図
https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
10 2024/03/29(金) 07:17:00.99
九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か
ではその時期はいつか、となると考古学でみるしかない

九州から本州西部への民族大移動の形跡は破鏡の分布の変遷で見ることが出来る
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する

その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期〜終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より

弥生時代後期〜終末期
https://i.imgur.com/r08Lrgf.jpg
古墳時代前期
https://i.imgur.com/AeBKKnz.jpg

弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している

破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する

考古学的に見て、神武東征の時期は3世紀末〜4世紀初頭頃
11 2024/03/29(金) 07:17:34.42
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg

> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と

> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ
12 2024/03/29(金) 07:18:03.69
淡路島の遺跡は瀬戸内海を支配した北部九州の海人族の遺跡

弥生時代の海の勢力図
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下


弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。

https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2020/11/23/31436/
> 調査の結果、4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170もの鉄器が出土。
> また、九州産のヤリガンナや山陰地方の土器などが見つかったほか、中国から来たとされる青銅鏡の一部が出てきました。

> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
13 2024/03/29(金) 07:18:45.20
136 :日本@名無史さん :2021/01/11(月) 01:47:53.36
>>70
そうではなくて、北部九州の海人族が本州の沿岸部や淡路島にも進出してたってことだよ
絹の話になるが、絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると北部九州は400年ほど養蚕技術を独占して他に渡さなかったという

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。

つまり弥生期の北部九州には重要技術を独占して自らの優位性を保つという発想が既に存在していたわけで、
まして兵器に使用できて絹より軍事的に重要な鉄加工の技術を他国においそれと渡したと考えるのは難しい
海人族自身が現地に行って鉄加工していた痕跡と見るのが正当だろう
14 2024/03/29(金) 07:19:18.69
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
15 2024/03/29(金) 07:19:45.88
対馬の霹靂神社には磯武良も祀られている
式内社なので言うまでもなく江戸時代どころの話ではなく、はるか昔から磯武良の呼称は存在する
キナイコシ君がどんなに捏造しても無駄

https://genbu.net/data/tusima/ikaduti3_title.htm
> 霹靂神社
> いかづちじんじゃ
> 長崎県対馬市上対馬町大増1073
>
> 式内社 對馬嶋上縣郡 能理刀神社
>
> 御祭神
> 雷大臣 日本大臣 磯武良
> 伊弉諾尊 事解男 速玉男 『大小神社帳』
16 2024/03/29(金) 07:20:31.75
鹿島のタケミカヅチは安曇磯良だから九州系

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
> 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
> (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)

http://www.genbu.net/saijin/isora.htm
> 袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
> 一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。


古代にも要職にある人物等は事実を知っていたらしく、宮城の磯良神社では坂上田村麻呂が筑前志賀島ではなく常陸国鹿島郡から磯良を勧請している
つまり茨城の鹿島神宮に祀られるタケミカヅチが安曇磯良だと坂上田村麻呂は知っていたわけだ

http://miyagitabi.com/sikama/isorajinja/index.html
<磯良神社の由来>
> 延暦23年(804)、坂上田村麻呂が常陸国鹿島郡から磯良明神を勧請して祀ったもので、阿度目神・河童明神ともいい、「おかっぱ様」という名前で広く知られています。
> 古くはここから南方にある真山三十郎(大崎氏の家臣)の屋敷の氏神として祀られていましたが、後に現在地に移されたといわれています。
17 2024/03/29(金) 07:21:00.89
576 :日本@名無史さん :2021/01/23(土) 19:31:56.74
さて、どうやらこれに対する反論は無いようだな
では皆納得したようなのでテンプレに入れるとしよう

https://i.imgur.com/hLZdESM.jpeg
18 2024/03/29(金) 07:21:42.28
>>4のデータについて

184 :日本@名無史さん :2021/03/16(火) 23:57:12.76
>>159
>>114で何ら問題無いし、やはり>>4の考古学事実に照らすと筑後山門が妥当だろう

>此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか??
広範囲の調査とか言い出すのはちょっと常識が無さすぎないか?
普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに
ソースはもう>>4で提示されているのだから、ソースのソースがほしければ自分で番組に問い合わせればいいだろう

と言いたいところだがググったら割とすぐそれっぽいのが見つかったから出してやろう
孫引きだが川越哲志氏の「弥生時代の鉄分化」が出所のようだ
https://pds.exblog.jp/pds/1/201802/21/45/a0237545_16344442.png
19 2024/03/29(金) 07:22:08.33
>>10補足

923 :日本@名無史さん :2022/03/16(水) 12:54:07.02
>>10
大中遺跡発見60周年記念春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」(兵庫県立考古博物館)
https://web.pref.hyogo.lg.jp/kh01/yayoisyuurakutennsei.html
> 竪穴住居が数多く見つかり国の史跡に指定されている大中遺跡は、弥生時代から古墳時代へ社会が移りゆく時期に突如として大きな集落に成長します。
> この頃になると、東播磨ではそれまでの集落から様相が変化し、弥生のムラが生まれ変わります。

> 【おすすめの展示品】
> 1.大中遺跡出土鏡(播磨町郷土資料館蔵・画像提供)
> 大中遺跡で発見された中国からもたらされた鏡の破片です。5センチメートル程度の小さな破片ですが、孔があけられていて割れ面が擦り減っていることから、
> 割れた後もペンダントのようにして大切に使われていたことがことがわかります。

> 3.大中遺跡出土鉄製品(当館・播磨町郷土資料館蔵)
> 大中遺跡の調査研究を進めるなかで、新たに短剣や鋤(すき)、ヤリガンナ、板状の鉄製品などが発見されました。
> 弥生時代の集落から多様な鉄製品が見つかる例は多くなく、大中遺跡が大きなムラであったことがうかがえます。
> また、出土した全長10センチメートルの短剣は、墓以外で発見された貴重な例です。


確かに弥生時代から古墳時代へ移り変わった頃に集落の巨大化と破鏡の伝来があったようだな
多様な鉄器と共に出土しているのは鉄原料の輸入を独占していた北部九州との関係抜きにはあり得ないから
東征の結果と見ることには妥当性があるな
20 2024/03/29(金) 07:22:35.14
カバネについて
臣が外様で連が譜代

> 989 :日本@名無史さん :2020/11/21(土) 23:18:49.29
> >>987
> それは県主が畿内系という解釈が間違っているだけ
> 連(ムラジ)の姓を持っているということは神武以前からの皇室の家臣の家系
>
> のちの氏姓制度には古代氏族の関係性が現れている
> 姓(カバネ)の中で特に有力だったのは臣(オミ)と連(ムラジ)の2つだが、この両者には外様と譜代の違いがある
>
> https://kotobank.jp/word/%E6%B0%8F-34455
> > 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> > 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> > 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> > すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、
> > 実力の向上に伴って頭角を現した家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
>
> 神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征以前から皇室に付き従っていた元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
> たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となる
> 逆に畿内の土着勢力の王家は臣姓となった豪族の中にいると考えられる
>
> 筑後山門の物部氏は大連となった連の中の連なので、当然東征前からの重臣ということになる
> 筑後山門の邪馬台国に仕えていたと見るのが自然だろう
21 2024/03/29(金) 07:22:58.01
テンプレ終わり
以下引き続き議論継続
22 2024/03/29(金) 07:23:25.12
◆魏志倭人伝には「伊都国の一大率が女王国の北の国々を監視している」と記されている

↓これを見てどちらが正解か考えてみよう

●畿内説の場合
https://i.imgur.com/Qk3GCoQ.jpg

●九州説の場合
https://i.imgur.com/MGIbKXf.jpg
23 2024/03/29(金) 12:06:35.29
シン日本古代史 概論
カテゴリ:シン日本古代史
◆シン日本神代古代史◆
高天原=邪馬台国=九州北部
天照大神=卑弥呼+台与
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族

神武天皇以降は、邪馬台国連合から独立した。
十代崇神天皇が邪馬台国を制圧したので、天照大神=卑弥呼+台与が祟った。

「高天原=邪馬台国=九州北部」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)

天照大神の生誕地=筑紫の日向(九州の南or北)
天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」

日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。
畿内に独立国を成立させた神武天孫族系が、その後に高天原=邪馬台国と勢力争いになって、十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。
欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。

・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。
崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。
そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。
24 2024/03/29(金) 14:43:12.57
>>18
ここのリインク先は、別人の同名論文で、くだんの図はかかれていないようだ。

川越哲志氏の「弥生時代の鉄器文化」は、同名の別の本らしい。
それを読んでないので、分からぬが、
くだんの豊肥線ぞいの谷間は、数万年前、鉄を多量に含んだ阿蘇火砕流が流れ下ったところ。
今、酸化した鉄鏃のような小鉄塊が至るところから無数に出土してもおかしくない、ご用心、ご用心。
25 2024/03/29(金) 15:19:35.70
安物の鉄器は3000年も前からあった。しかし、青銅器にも劣るナマクラ鉄。
それに革命的革新をもたらしたのは、漢の第5代皇帝・文帝の頃、1200度くらいに熱する高温炉が開発され、
鋭利な刃物にできるハガネ鉄が発明された。

漢王朝極秘のその製法は、やがて市中に漏れ出し、大量の武器が製造されて、
中国、半島二郡、倭は戦乱の大地に変わった。
「韓、濊、倭、皆したがってこれをとる」とは、このハガネ鉄のこと。
26 2024/03/29(金) 15:50:20.57
阿蘇市下扇原遺跡・・・阿蘇カルデラ南面にある彌生末期の製鉄遺跡
この製鉄炉の学術調査で、出土鉄の分析から1180度〜1300度までの高温炉の使用が判明。
漢王朝の極秘だった技術が、郡、倭にも伝わっていたことが分かる。
よって、楽浪・帯方二郡傘下の馬韓族の邪馬台国は、熊本・阿蘇で間違いない。 
27 2024/03/29(金) 22:15:32.20
>>24
そんなすぐにバレる嘘をつくから畿内説は嘘だってバレちゃうんだぞw

元のリンク先はここだが
https://tizudesiru.exblog.jp/238349821/
> 邪馬台国が狗奴国と戦ったとすれば、戦場はは何処だったのか。九州で戦い、二手に分かれて日本海がわと瀬戸内を逃げながら戦ったのかもしれません。
> 鉄鏃が出土する地域は、邪馬台国とつながりの深い所ばかりです。
> 何処で戦ったのか、弥生後期の鉄鏃の分布で明らかです。
> まさに弓矢が弥生の武器でした。
28 2024/03/30(土) 09:54:51.28
>>27 ・・・オレは畿内説ではないけどな。
このブログにあるのは、川越哲志氏の資料を高島忠平氏がマスコミに提示したということだね。
高島氏は畿内説で、今は表向き博多経由・吉野ヶ里邪馬台国説の人だから、熊本/狗奴国で固まっている。
そこに、そもそもの立場・見解・行動の違いがある。

漢王朝が開発したハガネ鉄生産技術を、帯方郡に敵対した狗奴国が自由に出来はわけはない。
狗奴国は県南の球磨国であり、県北の山鹿菊池の邪馬台国こそ、楽浪・帯方二郡の倭国拠点だったのだ。

つまり2-3世紀、佐賀伊都国+熊本邪馬台国+宮崎投馬国は、
旧彌生の盟主、博多那の津の倭奴国王と戦闘状態にあった。
その関ケ原分け目の合戦が倭国大乱だったのだよ。
そこを正しく認識すれば謎は解ける。
29 2024/03/30(土) 12:09:35.30
>>184
>普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに

ご存知の通り、埋蔵文化財は、個人が自由に発掘調査できるわけではない
地元各県の教育委員会が、しかるべき学者・研究者に依頼して公表する。
熊本県分は熊本県教育委員会、大分県分は大分県教育委員会所管であろう。
で、この公式記録は誰がまとめたのであろうか。
30 2024/03/30(土) 12:15:03.53
https://i.imgur.com/In62R0B.jpg
寺沢センセが監修した県別鉄器出土MAPを
古墳時代初め(3世紀初〜中頃)だけわかりやすいように加工した
31 2024/03/30(土) 12:27:54.13
>>30
3世紀後葉になると
前方後円墳への鉄器大量副葬によって
九州と畿内の鉄器量が逆転する

3世紀初〜中頃は九州が優位
3世紀後葉は畿内が優位

3世紀中頃にいったい何があったんだ……
そういえば魏から西晋への禅譲もその頃だな
32 2024/03/30(土) 12:43:01.30
つまり列島に、
日本神話の神武東遷のような劇的変化があったということ、
近世でいえば、御所が京都から東京へ移ったような・・・
33 2024/03/30(土) 13:36:32.34
>>31
逆転する、つーのが眉唾
古墳の年代が怪しいんだから、集落や住居など生活部分から出土した鉄器量で比較すべき
34 2024/03/30(土) 13:37:00.01
>>27
>九州に邪馬台国があったとしたら、鉄を持っていたのに、なぜ、邪馬台国は狗奴国に負けたのか? 
>いえいえ、大丈夫です。

>もっと、武器を持ち(武力)、工具を持って生産力を上げていた地域がありました。
>当時、福岡より武器・工具の鉄製品を持っていたのは熊本ですから、そこが狗奴国です。
>邪馬台国の南の国になります。川越哲志氏の「弥生後期の鉄鏃の分布」を資料として、
>高島忠平氏が提示されていました。

熊本・狗奴国説といっても、球磨郡は熊本県の南半分を占め、県下11郡の内で最大の郡だった。
ここが狗奴国だったとみるべきでしょう(球磨郡、球磨川、球磨人=狗奴国)
そして方保田東原のある山鹿市/菊池市が、邪馬台国国衙だったのでは(廣志の耶馬嘉国)
35 ネトウヨ撲滅隊! 2024/03/30(土) 13:44:03.76
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう
36 2024/03/30(土) 17:40:33.07
正しい纏向四世紀をサラッと入れるんじゃんねえ、お前がネトウヨだろ
37 2024/03/30(土) 17:46:33.64
そもそも日本書紀がウソ八百だ、
あんな山奥に高天原-高千穂王朝があったなんて、
荒唐無稽な万世一系のおとぎ話で、オレの青春を無駄にしてくれた・・、
まして、あの九州の山奥の高千穂に、卑弥呼王朝なんかあるわけがない・・、

関東・関西・中四国・博多の都会育ちお坊ちゃん学者は、皆そう思ってきたんだろな。
特に、昭和一ケタ参入組のほとんどはそうなんでないかな。

馬鹿馬鹿しい、卑弥呼は天照大神だー、
オレがきちんとした平野部に見つけて〆てやるわい・・、
と、平原やら、大宰府やら、甘木朝倉やら、筑後山門やら、纒向の箸墓・ホケノやら、阿波徳島やら・・・

探し回るけど、なーも出てこらっさん。
そら、出るわきゃなかろ。
高天原・高千穂王朝も、卑弥呼王朝も、その山奥の天然の大要塞・高千穂にあったのだ。
曰く、倭人伝の灯台下暗し(笑www
38 2024/03/30(土) 18:04:18.51
高天原はそのまんま御所市の金剛山の麓の高天の事に決まっとるだろが

地名をよく見てみ

御所だぞ

皇居の事だよ
39 2024/03/30(土) 18:10:48.34
御所は 京都にもある、
皇居は 東京にもある、
問題は、それが3世紀前半だったかどうかだ・・、
40 2024/03/30(土) 18:31:07.23
3世紀中頃に滅びたのが邪馬台国
その後繁栄したのは狗奴国と倭種の国
41 2024/03/30(土) 18:59:55.92
晋の後ろ盾で、邪馬台国は臺与の時代に東遷した。
狗奴国は其の伴に就いた。
倭種は服属した
42 2024/03/30(土) 19:04:18.25
高天原は楽浪郡・帯方郡
天の鳥船は、帯方郡の軍船
高千穂は、そのまんま高千穂
みな、日本神話の筋がき通りだ。
43 2024/03/30(土) 19:13:55.35
晋が後ろ盾>ナイスジョークwww
44 2024/03/30(土) 19:17:47.56
?まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
?次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900?)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850?)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50?)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50?でピッタリです!
?そして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国✖阿波説)
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(嘘)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(女王之所都=沖縄那覇あたり)
45 2024/03/30(土) 20:34:31.62
>>31
銅器が入って来なくなったから、鉄器が供給される
ようになっただけっしょ。

>>37
平野部は湖沼地帯で生活しにくかったんじゃね。

古墳時代の寒冷期は海退が進んで開発し易くなったと。
46 2024/03/30(土) 22:08:15.70
>>45
確かにそういうこともあるな
古代九州の平野部は今より温暖で、湿地帯にはマラリヤ蚊がいたらしい。
今も、九州の男たちは体中剛毛がはえている人が多いが、
あれはマラリヤ蚊が止まるのを防ぐ効果があるという。

だから古代の貴人たちは、剛毛の上にマラリヤ蚊除けの刺青をして、
涼しい高千穂で、涼しい顔して暮らしていたのだろう。
高千穂住まいは、高級な生活の知恵だったわけな。
47 2024/03/30(土) 22:25:27.16
蚊は気温が下がると血を吸わなくなる
とすると蚊が原因の伝染病が流行ったら気温の低い土地に住めば良い
果たして古代人は、経験則で蚊の伝染病避けに気がついていただろうか
48 2024/03/30(土) 23:56:29.50
通訳兼水先案内の役目やってそうな
ヒナモリがつれてくる貿易船以外は
博多湾に入れると思えないし

船は見つけ次第沈めて
物も命も奪っていいってなってそう

正規ルート以外で勝手に船停めていい所から侵入(松浦、唐津)

道案内と通訳と護衛が必要
食べ物や宿を使うなら
軽くて価値のあるモノが沢山必要
しょぼい船を何艘チャーターして渡ったのか?
中国地方歩ける分の貴金属類とか物理的に持てる?
話聞くのもタダじゃないだろ
49 2024/03/31(日) 00:13:32.12
倭人の酋長よりも明らかに身なりがいい貴人がいかつい護衛に守られてるんだろうから
道の端の草むらに土下座してアイアイサーというのが精一杯
50 2024/03/31(日) 01:35:26.51
>>46
つまり毛深い縄文人は南のマラリア地域から北
51 2024/03/31(日) 06:29:22.98
明帝の勅使が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096
52 2024/03/31(日) 08:37:57.99
>>48
脳みそ腐ってんのか?
地方の官であるヒナモリがなんで水先案内人するんだよ?
お前の地元では副市長が観光バスガイドでもやってんのか?

正規ルートが松浦唐津なのに何言ってんだ?
パラレルワールドからやってきたのかね?
53 2024/03/31(日) 10:14:31.28
>>51
ほう、これが女王様の樓觀、城柵、守衛宮殿だったのか
豪勢なもんだ、纒向の古竹の柵とはぜんぜん格が違うわ、、、
54 2024/03/31(日) 10:56:34.03
>>51
うゎ、すげー!
55 2024/03/31(日) 14:49:39.42
太国や満州はどこにいったの?
56 2024/03/31(日) 15:27:00.41
極楽楽浪郡へお帰りになりました。
57 2024/04/01(月) 01:22:57.01
>>30-31
畿内説の古墳年代は実際より100年古いよ
原因は元々1世紀中頃とされていた池上曽根遺跡を年輪年代法で100年遡って紀元前1世紀中頃にしたことで
畿内の遺跡の推定年代が全体的に100年古くされたが、これが誤りだったせいで全てが狂った
よって畿内の鉄が増えたのは実際には4世紀なので>>10の東遷後の出来事となる


222 :名無しさん@1周年 :2020/01/11(土) 00:38:26.96 ID:h8y9RzJ30
>>202
日本語でおk

池上曽根遺跡は遺物から見て1世紀だ
年輪年代法による紀元前説は疑義が呈されているし、そもそも基礎データが公開されていない
「私のブラックボックスによれば紀元前です」などというのは科学の世界では通用しない

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/keisaironbun.pdf
> 日本では、奈良文化財研究所(奈文研)の光谷拓実が 1980 年から研究を開始し、ヒノキ、スギ、コウヤマキ、ヒバの標準パターンが作成されている
> (図 2。奈良文化財研究所『埋蔵文化財ニュース』99 号 2000 年。および
> 光谷拓実「年輪年代法と文化財」―『日本の美術』421 号 2001 年に鷲?ア加筆)。ただし、基礎データは非公開でブラックボックス化している。
> なお、スギの標準パターンはヒノキに連動し作成されており、ヒノキが 100 年狂えばスギも 100 年狂う。この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が
> 通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
> しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。基本となる標準パターンの作成時、飛鳥時代で年輪パターンの接続に失敗し、奈良時代〜現代は正しいが、
> 640 年以前(弥生中後期〜古墳〜飛鳥時代)の測定値は全て 100 年古くズレている(表1、表 2 参照。ほとんどがヒノキで、一部はスギ)。


925 :日本@名無史さん :2021/11/29(月) 01:10:26.76
池上曽根遺跡の年輪年代が100年ずれているのは
昨年更新されたIntcal20を用いた炭素14年代でも確認できる

https://www.youtube.com/watch?v=h7zsSM7rcKk
58 2024/04/01(月) 03:10:00.26
長い時間かけて古くしてやっと卑弥呼時代にたどりついたんだからw
59 2024/04/01(月) 04:17:40.19
たどりつくとかなんとかそんなもんじゃねえから

適当に合わせりゃいいってもんじゃねえだろ
60 2024/04/01(月) 05:24:54.87
筑前助広のはまるで漫画みたいで低品質だな・・・
61 2024/04/01(月) 06:22:50.26
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?
62 2024/04/01(月) 10:27:15.28
男系とか女系とか万系一世とかお前に何の関係がある?
63 2024/04/01(月) 11:58:33.18
このように日本人と天皇は関係ないのだ
64 2024/04/01(月) 12:08:41.33
楽浪郡・帯方郡の肝いりで建てられた卑弥呼の都
その高千穂の宮殿こそ、古事記に云う高天原だった。
つまり天津神とは、渡来の漢民族系馬韓族のこと、弥生以来の古日本人ではない。
65 2024/04/01(月) 12:51:30.15
それは朝鮮人らの歴史だろ
66 2024/04/01(月) 17:24:14.55
朝鮮人といっても、大きく分けて新羅・高句麗(高麗)・漢系朝鮮の三種族になるわけだが、
倭人伝とのかかわりでいうと、
漢の武帝後の楽浪郡時代、漢より渡来して反映した楽浪韓氏のグループは、
倭にも渡来してきた。
やはり、其のこととの関連を念頭に置くべきだろうね。
67 2024/04/01(月) 19:50:33.38
楽浪・帯方の力の源泉は、
軽くて鋭利なハガネ鉄の武器、或は斧、鋸、鉈、小刀、縫い針など大小の工具。
武力にもなったが、樹木やツタで道を切り開き、材木を整えて橋を掛け、駐屯所や兵舎も作った。
つまり広域統治のためのインフラを整えたことで、邪馬台国7万戸などの大国が続々誕生したわけだ。
それが倭人伝の語る三世紀の九州倭国。
68 2024/04/02(火) 11:00:56.86
ナマクラ青銅やナマクラ鉄に革命をもたらしたのが、
漢の第五代文帝の時、漢で発明され、彌生末に渡ってきた、軽くて、硬くて、鋭利なハガネ鉄。

持ち込んだのは、勿論楽浪郡・帯方郡。
これを武器に、東の倭種の国々へ突き進んだ。
そして青銅器狩りで集めた銅鐸・銅剣を鋳直し、三角縁にして服属者へ配り直した。
これを知った出雲国では、あわてて銅鐸・銅剣を集め、かんなび山の斜面に隠した。
これが国譲り騒動の一端。
69 2024/04/02(火) 11:11:45.26
>>66
百済新羅はもはや謎だが
高句麗は北方中国だよ。
唐以降は中原進出。

四郡以降に入った百済王も
高句麗分家だったが
扶余を名乗った。

漢四郡もだが
半島の支配者層は中国系
百済以降で、倭系だが
石器人以来の土民が何か?
は、縄文人より分からない。

中国系の愚民化
奴隷化だっただけなのか?
消えたらしい?
70 2024/04/02(火) 19:54:12.67
倭人伝論争の戦後昭和の先駆けといえば、
復員兵で、糸島中学に職を得ていた原田大六氏。
平原イト国説を唱えるとともに、東京教育大学教授を師と仰ぎ、
卑弥呼は倭姫(ヤマトヒメ)の名を持つ女性と教わった。

垂仁皇女にヤマトヒメはいるが、残念ながら墓所が明らかでない。
そこで、ヤマトトトヒモモソヒメに乗り換え箸墓説を唱えるところとなり、
それで箸墓は三世紀前半ということになった。
ところが面白くないのが畿内の古学者たち。やがて、そろり横から箸墓説にのめり込むこととなった・・、
71 2024/04/03(水) 14:05:50.12
天照大御神は卑弥呼だった、というなら、
高天原・天孫降臨神話の高千穂との関係を再整理しなくてはならぬ。
どっちも高千穂ではなかったというのは、根拠に欠け、安直すぎる。

古代のすぐ近くで暮らしていた大和朝廷人は、それなりの自信を持って高天原神話を創作したはず。
古代とはいえ、全くのおとぎ話が、豪族たちの間で通用したとは思えない。
大国主命でさえ、杵築の島に宮殿をしつらえてもらえました。
まして高千穂は九州島のど真ん中、万地の利あり、そして何より天然の大要塞だったのですよ。
72 2024/04/03(水) 14:15:09.64
3世紀から話を始めるからワケわからん。
2世紀があって3世紀がある。1世紀があって2世紀がある。
少なくても数百年前から始めるべき。文献無いから、妄想しかないけど
73 2024/04/03(水) 15:37:14.76
後漢書にちゃんと倭国の大倭王の歴史が書かれてる
卑弥呼が初代の大倭王というのは大いなる勘違いだな
74 2024/04/03(水) 15:49:21.91
そういうことだ。
紀元前数百年の神に天照大御神があったが、
これはすでに神話だから、仮に大和朝廷の役人が卑弥呼をモデルに創作した話だったとしても、
いまさら動かしようがない。

その後に日向三代があり、そして神武となる。
そして紀元が開けると、金印紫綬の倭奴国王が九州島の南界まで極めた。
次いで面土国王の朝貢話あり、
そのあと後漢書の大倭王居邪馬臺国があって、
それからやっと、倭国大乱後の卑弥呼共立となる。

だから創作された天照大御神と、現存の卑弥呼を同一視して論を進めると混乱する。
時代設定が大きく違う天照大神も、大倭王も、卑弥呼も、ともに高千穂居住だったかもしれないのだ。
75 2024/04/03(水) 15:58:50.41
>>73
ほんとそれなw
76 2024/04/03(水) 16:16:06.20
後漢書の云う大倭王の頃、卑弥呼は幼い王女だったのだろう。
魏略には王女と書かれている。
77 2024/04/03(水) 17:18:54.64
神話の天照がこうだったから、実話の卑弥呼もこうだったはず、とか

神話の天照がああでなかったから、実話の卑弥呼もああではなかった、とか

神話と、実話を紐付けるのは、大間違いの始まり。

神話は架空小説、実話は記録文書。
78 2024/04/03(水) 18:32:07.77
実話がこうだからあの神話は間違ってる、というのはお子様

同様に、神話がこうだからあの実話は間違ってる、というのもお子様

ところが、けっこうあるんだよな、大人の世界でもな・・。
79 2024/04/03(水) 18:56:47.81
天照と卑弥呼が同じなど、、、
80 2024/04/03(水) 23:58:30.55
不都合すぎる事実だよなあ
81 2024/04/04(木) 06:47:41.87
天照は男だ
82 2024/04/04(木) 09:18:30.78
天照大御神は卑弥呼とよく似た境遇の女性だった、というようなことを、
明治の白鳥博士も匂わしてはいたが、そうとは言ってなかった。
ま、大人の対応だろう、、
83 2024/04/04(木) 10:21:32.69
というように持ってこおとしてるわけなおまえら

バレバレやで
84 2024/04/04(木) 11:43:51.38
卑弥呼の女王国とは奴国だから卑弥呼は漢時代から続いてる奴国王なんだよ
85 2024/04/04(木) 11:58:58.61
奴国=奴隷労働者の国が、楽浪・帯方郡側の女王国はない
そもそも漢字には意味がある ←表意文字。
センスがないねえ。
86 2024/04/04(木) 14:12:32.49
各国にいるのは楽浪が授けた官ばかり、
楽浪郡/帯方郡と伊都国・邪馬台国は、いい仲だったと思うね。
公孫淵のことを過大に言ってる学者も多いが、あれは馬鹿殿、一時の気迷い、
87 ネトウヨボクメツタイ! 2024/04/04(木) 22:56:37.94
ネトウヨは参政党や保守党といったイロモノを支持するカルトの馬鹿だからな
鳥山明の死因がワクチンとか、こんな連中が学問を口にするのがネトウヨクオリティ

九州説ネトウヨの思想はこんな低脳って事だ
88 2024/04/05(金) 01:10:16.79
シン日本古代史 概論
カテゴリ:シン日本古代史
◆シン日本神代古代史◆
高天原=邪馬台国=九州北部
天照大神=卑弥呼+台与
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族

神武天皇以降は、邪馬台国連合から独立した。
十代崇神天皇が邪馬台国を制圧したので、天照大神=卑弥呼+台与が祟った。

「高天原=邪馬台国=九州北部」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)

天照大神の生誕地=筑紫の日向(九州の南or北)
天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」

日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。
畿内に独立国を成立させた神武天孫族系が、その後に高天原=邪馬台国と勢力争いになって、十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。
欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。

・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。
崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。
そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。
89 2024/04/05(金) 03:06:59.25
なるほどなるほど卑弥呼は男だったのか
90 2024/04/05(金) 11:28:32.88
天照も男だった。神武が女だった。
91 2024/04/05(金) 12:04:10.47
天照は卑弥呼だった―、といって畿内まで遠征するの悪くはないが、
肝心の九州拠点があいまいでは、足元を見られ、返り討ちに遭う。。

倭人伝の行程記録では、どう見ても平原や、那の津や、大宰府は通過しない。
まして甘木・朝倉は一段と困難。
見直しが必要と思うけどね。
92 2024/04/05(金) 12:48:07.22
日本紀の仲哀・神功記辺りに阿って、
平原・那の津・大宰府・甘木朝倉あたりを通過させたがる学者が大多数・・。
しかし皇后は、三韓征伐と称して帯方郡下の馬韓も攻撃したことになっている。

則ち大和朝廷・不比等は、郡使が皇統の博多湾岸を通過するなどありえなかったと、
言外に主張しているわけだ。
このことを踏まえれば、「末盧国東南陸行500里」は、
原文通り、佐賀平野を通過して九州中部以南の女君のもとへ向かったと解すべきと思う。
93 2024/04/05(金) 15:28:05.59
それが日本が半島支配したと言われてるときの狗邪王(温羅王)のことだろ

現地における執政代行官で半島における軍隊🪖などの副官だった人だよ

上官として毛野一族が派遣されてその縁で関東に移住したのも多いんだからよ
94 2024/04/05(金) 15:30:46.47
狗邪王が現地における代行官

百済王や新羅王などに対して登場して日本から出された命令を伝えた人だよ
95 2024/04/05(金) 15:35:24.93
まあ実質的な任那国王やな
96 2024/04/05(金) 15:38:25.65
倭軍てより任那連合軍として現地で軍勢を指揮したわけやな

百済王もいたがこの任那連合軍と合流して参戦したりよ
97 2024/04/05(金) 19:52:20.83
?まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
?次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900?)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850?)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50?)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50?でピッタリです!
?そして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096
98 2024/04/05(金) 19:53:26.92
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)
99 2024/04/05(金) 20:17:51.74
前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
100 2024/04/06(土) 07:25:20.86
魏王の妻の出身国だったのかよ日本?

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