哲学をする前段階での懸念 (641レス)
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(1): 考える名無しさん [] 2024/08/20(火) 22:58:38.62 ID:0(1/639) AAS
哲学にまつわる概形的な議論、議論の前段階での思索について意見を求めています。
主に哲学をやりたいが足を踏み入れるのに胡散臭さを感じている人のためのスレ、以下の議題になんらかの意見を持つ人を求めています。

1.言語的側面での懸念
言葉で言葉を定義して遠回りの循環論法に陥ってはいないか。

知った顔して未定義の専門用語を使い砂上の楼閣のような思索をしてないか。

専門用語を無駄に作ってハリボテのような難解かさを醸し出し、矛盾や誤りを隠していないかどうか。

2.哲学の目的について
議論は何を目指しているのか。
我々を取り巻く具体的な問題においてどのような役割を果たすのか。(プラグマティックな懸念)

それっぽい難しさを醸し出して哲学の持つ権威に寄りかかりたいだけのよくいる人文系なのか、それ以外なのか。

3.方法論について
哲学という分野だけで考えても袋小路になるだけで、そもそも自然科学などを本業に、その車窓で得た知識で哲学をするのが賢明なのではないか。

取り巻く環境の違う何世紀も前の死んだ人間の思索から、誤りや時代錯誤を取り除いて学ぶ価値のあることを学んでいくためにはどうするべきか、そしてそんな遠回りのはた面倒な作業が哲学の登竜門たりてるのか。

哲学についてパッと見でこのような懸念があり、それについてスッキリする回答がなかったら今まで通り自然科学や実学をしようと思います
542: 考える名無しさん [] 2024/09/25(水) 21:25:40.27 ID:0(540/639) AAS
まるで「哲学をする前段階での懸念」そのものというか、避けては通れない道筋がカント『永遠平和のために―(国際連合の)哲学的な草案(1795)』にはあると思う。人類にとって最高峰のレポート(あるいは最悪のレポート)というのは以下のような書き出しから始まっている。

◇留保条項
オランダのある宿屋には、墓地を描いた看板の上に、「永遠平和のために」という皮肉な銘が書かれていたという。さてこの言葉は、すべての人間にあてはまるものなのか、それとも戦争に飽きることがない国の政治家たちにとくにあてはまるのか、あるいは死という甘い夢をみる哲学者だけにあてはまるのか、それはおいておこう。
ただしこの「永遠平和のために」という論考の著者としては、ここでいくつかの留保をあらかじめ読者に求めておきたい。
543: 考える名無しさん [] 2024/09/25(水) 22:01:02.87 ID:0(541/639) AAS
言ってしまえば、この文句が現代では「哲学の前」を象徴する文句とは言えまいか。

確かに、国連とその傘下組織はカントの死後200年経ってから戦後になってようやく採択されたが、ほんらいの目的「(主に大国への)常備軍への牽制と安全保障」という大義名分から、その派生として環境問題、エネルギー問題、貧困救済から女性の権利に至るまで広範囲に介入しているのだから、こんな巨大勢力(各国のトップ層という人員と豊富な資金力)の前では成すすべが無くなって、そもそも我々は哲学をする理由が全くもって無くなったのではないか。

原発事故の汚染水問題にしろ、適用コードはMARPOL条約だと思われるが、核廃棄物については適用外であり、その条件についてはIAEAが定めるところなので、IAEAが認めた排出方法とモニタリング方法に従えば放出は認められるのであり、この「適用コード」を除外した議論はまったく意味を成さないか、どこまでも蚊帳の外である。

世界統一家庭連合は宗教の形だが、明らかに国連とは真反対の性質を持つ宗教団体であり、「騙された信者を保護するべき」という任務以上のもの、「宗教の目的からは外れた政治的な意味」ばかりがクローズアップされ、解体の動きになるが、これは恐らく戦争がなければ特に注目されなかったかもしれない。

同様にしてUN Womenも戦争をきっかけに(悪い意味で)注目されるようになってしまったが、当然のごとく、反省材料は沢山あるはずの中で、まったく功を奏したとは思えない国連の活動に腹を立てるところから、我々の哲学は再び始まると言える。

これが新たなる「形而上学的な問題」なのであれば。
「国連が重要な場面で判断を決めてくれるだろう」という態度では、哲学をする必要は全くなかった。左派はたんに国連の意見に従い、右派はたんに内閣総理大臣の意見に従えばよく、政治的なイデオロギーを体系的に捉える事などする必要もなく、ただ従えば良いのではないか。
544: 考える名無しさん [] 2024/09/25(水) 23:14:14.08 ID:0(542/639) AAS
まぁ、「どちらの側につくべきか?」という議論も無粋になってしまったようである。
だからこそ、彼の名を述べるのであるが、彼の言葉を借りるのなら「この理念に相応しい最高の存在者は存在しない。」「ある存在者の理念が存在しただけである」という”前提”のみがブレの無い議論を生むだろう。
ただし、宇宙論と同様にして「誰もが想像もできないような中心」を捉える必要があるし、本人既出の通りである。
545: 考える名無しさん [] 2024/09/26(木) 14:16:58.93 ID:0(543/639) AAS
みづから(身づ柄/自ら)の「いへ(家)」を「いは(祝/斎)ふ」べくしめ(標)た(立)てられる「はか(墓)」にまつ(祀)られる
「とほ(遠)つかむおや(神祖)」が「おほくめぬし(大久米主)」であるわけだが、
「おほくめぬし(大久米主)」とは、言ふまでもなく、現世の末裔にとってのおほもと(大元)となる出自のことであり、
「おほくめぬし(大久米主)」の「くめ(久米)」とは、ドイツ語で表現するなら"Herkunft"である。
この場合、「く(久)」のこゑ(声)は、漢語で言へば、「求心性」や「探求」といった表現に用ゐられる
「求」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひに対応している。
そして、「求心性」において「中心」を探ることが「、現状で所与とされるところ」(この場合には、「いへ(家)」により象徴される)からしか
可能でないように、その「現状で所与とされるところ」から「その先」/"weiterhin"がうしな(失)はれるなら、ひと(人)にしろしめすべく
みづから(身づ柄/自ら)の「くめ(久米)」/"Herkunft"を自他にたしか(確)かめさせるよう、その「おほもと(大元)」にしめ(標)た(立)てるという行為も意味をうしな(失)ふ。
546: 考える名無しさん [] 2024/09/26(木) 14:18:15.18 ID:0(544/639) AAS
探ることが「、現状で所与とされるところ」 ×
探ることが、「現状で所与とされるところ」 〇
547: 考える名無しさん [] 2024/09/26(木) 14:23:14.18 ID:0(545/639) AAS
ところで、「いへ(家)」ということばが表現しているのは、「『囲ひ込み/"hemming in"』によりそこから流れ出して行くような動きを妨げる」という感覚だろうと私は思ふ。
548: 考える名無しさん [] 2024/09/26(木) 14:47:12.22 ID:0(546/639) AAS
「くめ(久米)」ということばがどのような表現として意識されたのかは、次の歌を見れば、誰でもすぐに分かるだろう。

>万葉集 第20巻 4460番
保利江己具 伊豆手乃船乃 可治都久米 於等之婆多知奴 美乎波也美加母
堀江漕ぐ伊豆手の舟の楫つくめ音しば立ちぬ水脈早みかも
ほりえこぐ いづてのふねの かぢつくめ おとしばたちぬ みをはやみかも
(出典: 万葉集ナビ)

「かぢ(楫)つくめ(久米)」の「〜つ〜」は、「ま(目)・つ・げ(毛)(睫毛)」の「つ」と同じ用法であり、
この歌では、「かぢ(楫)つくめ(久米)」は、水流が速いときに「かぢ(楫)」を漕ぐと音を立てる箇所として詠まれている。
無論、水流が速いときに「かぢ(楫)」が音を立てるのは、その箇所に普段よりも強い接触により負荷がかかるからである。
それがどこであるのかは、まともに知性が働いているなら、誰でも考へなくてすぐに分かるはずだろう。
国語学は、本当は、誰でもすぐに分かるはずのことですら、まったく気づかないふりをしてしらを切りつづけている。
549: あかない [] 2024/09/26(木) 15:04:24.86 ID:0(547/639) AAS
第20巻 4503番
伎美我伊敝能 伊氣乃之良奈美 伊蘇尓与世 之婆之婆美等母 安加無伎弥加毛
きみがいへの いけのしらなみ いそによせ しばしばみとも あかむきみかも
(出典: 万葉集ナビ)

きみが「い・へ」の 「い・け」のしらなみ 「い・そ」によせ しばしばみとも あかむきみかも
「い」のこゑ(声)のつか(使/仕/遣)ひ方に注目して読んでみるといい。
550: 考える名無しさん [] 2024/09/26(木) 15:16:57.21 ID:0(548/639) AAS
第3巻 435番歌
作者 河辺宮人
題詞 (和銅四年辛亥河邊宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首)
原文 見津見津四 久米能若子我 伊觸家武 礒之草根乃 干巻惜裳
訓読 みつみつし久米の若子がい触れけむ礒の草根の枯れまく惜しも
かな みつみつし くめのわくごが いふれけむ いそのくさねの かれまくをしも
(出典: 万葉集ナビ)
551: み(身)どりのとりく(汲)み [] 2024/09/26(木) 16:04:27.79 ID:0(549/639) AAS
流を汲む(読み)ながれをくむ
精選版 日本国語大辞典 「流を汲む」の意味・読み・例文・類語
ながれ【流】 を 汲(く)む

? 流れる水を汲み取る。
[初出の実例]「君が代は菊のしたゆく谷水のなかれを汲てちとせをぞまつ」(出典:讚岐入道集(1104‐06頃))
552: 考える名無しさん [] 2024/09/26(木) 22:13:25.78 ID:0(550/639) AAS
うーん。コードとモードの話?
553: 考える名無しさん [] 2024/09/26(木) 23:17:00.26 ID:0(551/639) AAS
第20巻 4347番
伊閇尓之弖 古非都々安良受波 奈我波氣流 多知尓奈里弖母 伊波非弖之加母
家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも
いへにして こひつつあらずは ながはける たちになりても いはひてしかも
(出典: 万葉集ナビ)

>「伊閇(い・へ)」尓之弖(にして)

>閇の書き方や読み方 わかりやすく解説 Weblio辞書
音読み:ヘイ; 訓読み:とざす、 とじる、 むすび、 しめる、 しまる、 たてる; ピンイン:bi4;
ハングル:폐; 対応する英語:shut, close, ...
554: 考える名無しさん [] 2024/09/27(金) 07:17:58.43 ID:0(552/639) AAS
「いへ(家/伊弊)」≒"Sperrung"(ドイツ語)、「いほ・り(廬/伊保利)」≒"gesperrt"(ドイツ語)⇔《abri》(フランス語)と考へると分かりやすい。
555: 考える名無しさん [] 2024/09/27(金) 07:46:02.80 ID:0(553/639) AAS
「いほ(廬)る」⇔"biwakieren"

>EtymologyBorrowed from French bivouaquer. Analysable as Biwak +‎ -ieren.
(Wiktionary)

(ドイツ)Biwak/(フランス)bivouac(ビバーク) とは? 意味・読み方・使い方
ビバーク【(ドイツ)Biwak/(フランス)bivouac】 の解説
[名](スル)登山で、露営すること。特に、不時の露営をすること。「天候の急変で—する」
出典:デジタル大辞泉(小学館)

"bi-〜"の表現法に注目しよう。
556: 考える名無しさん [] 2024/09/27(金) 08:59:56.41 ID:0(554/639) AAS
歌に詠まれることばは、もともと、「い(云)ふかひ(効)なきこと」である。
しかし、「い(云)ふかひ(効)なきこと」は、それでもどのようにか表現されて、こころの動きがつた(伝)へられることになる。
そして、ことばの表現がこころの動きを如実に伝へるものであるかどうかが知られるのは、まづ、ひと(人)にではなく、
みづから(身づ柄/自ら)においてであり、その伝はり方をたしか(確)かめることにより、今のおも(思)ひがどのように生じてきたのか、
その「くめ(久米)」/"Herkunft"がみづから(身づ柄/自ら)のこころとして見定められるのである。
したがって、みづから(身づ柄/自ら)のこころは、思ひを生じさせる中心としてあらかじめ想定されているのではなく、
うつ(移)りゆく思ひに応じて、どこにどのようにあるのかが探り求められるのである。
「い(云)ふかひ(効)なきこと」であるという理由で表現を黙殺し、こころの動きに気づかないふりをすることを決め込むなら、
哲学の営みは、その意味を失ふことになり、その言説は、何を伝へようとしているのか分からない専門用語で厳格さや深遠さを装ったり、
美しいとされる文句、立派とされる台詞を表面的に並べ立てたりするだけの空疎なものとなるだろう。
557: 考える名無しさん [] 2024/09/27(金) 09:20:29.83 ID:0(555/639) AAS
Guillaume Apollinaire
Les Feux du bivouac
Calligrammes
Poèmes de la paix et de la guerre (1913-1916), Mercure de France, 1918 (p. 120).

LES FEUX DU BIVOUAC
Les feux mouvants du bivouac
Éclairent des formes de rêve
Et le songe dans l’entrelac
Des branches lentement s’élève
Voici les dédains du regret
Tout écorché comme une fraise
Le souvenir et le secret
Dont il ne reste que la braise
558: 考える名無しさん [] 2024/09/27(金) 11:36:27.26 ID:0(556/639) AAS
今日もせっせとAI調教しましょかしょか
559: 考える名無しさん [] 2024/09/28(土) 06:10:19.93 ID:0(557/639) AAS
>万葉集 第7巻 1203番
題詞 (覊旅作)
礒上尓 爪木折焼 為汝等 吾潜来之 奥津白玉
礒の上に爪木折り焚き汝がためと我が潜き来し沖つ白玉
いそのうへに つまきをりたき ながためと わがかづきこし おきつしらたま
(出典: 万葉集ナビ)
    ↓
思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に
(新古今和歌集巻第八『哀傷歌』)
(出典: ja.wikipedia.org/wiki/折たく柴の記)
    ↓
『折たく柴の記』(をりたくしばのき)
    ↓
をりたくしばのき(折たく柴の記) ⇔ を(織)りた(焚)くしば(柴)のき(枝)
    ↓
>Les feux mouvants du bivouac
Éclairent des formes de rêve
Et le songe dans l’entrelac
Des branches lentement s’élève
[...]
("Les Feux du bivouac", Guillaume Apollinaire, 《Calligrammes》,
Poèmes de la paix et de la guerre (1913-1916), Mercure de France, 1918)
560: い(云)ふかひ(効)なし [] 2024/09/28(土) 06:17:14.75 ID:0(558/639) AAS
Voici les dédains du regret
Tout écorché comme une fraise
Le souvenir et le secret
Dont il ne reste que la braise
561: 考える名無しさん [] 2024/09/28(土) 08:37:39.00 ID:0(559/639) AAS
多くの人々が、哲学することについて、哲学などしても何の役にも立たない、空疎な考へを巡らせることで時間を無駄にしているだけで、
役に立つような知識を何一つもたらさないと不満を表明するとき、そのような人々は、そもそも、哲学に対して誤った期待を抱いている。

哲学の営みにおいて求められているのは、人(ひと)に役立つ知識ではなく、引用した歌のことばの表現を借りるなら、「な(汝/己)がためと わ(我)がかづ(潜)きこ(来)し おきつしらたま」である。
そして、その場合、「おきつしらたま」をかづ(潜)きく(来)る」とは、今のおも(思)ひがどのように生じているのか、そのこころの動きの「くめ(久米)」/"Herkunft"をし(知)るべく、
みづから(身づ柄/自ら)の「理解」/"in-between stasis"を意識的に、つまり、メタ言語レベルのことばの表現としてたしかに捉へようとするこころ(試)み/心観であると云ふことができる。
562: 考える名無しさん [] 2024/09/28(土) 08:38:29.21 ID:0(560/639) AAS
ところが、大多数の人々は、わざわざ哲学をすることに時間と労力を費やすなら、哲学が自分に何か役立つ知識、何か自分の得になる知識をもたらすのでなければ割に合わないと考へる。
しかも、それは、「哲学」や「哲学者」を専門に研究する人々の場合でも例外ではない。
だからこそ、多くの「哲学」関連の専門家も、研究としてそれに取り組むことに意義があるのは、自身がその流れを汲む「哲学」や「哲学者」の功績や成果を人(ひと)に
知らしめるように努めることであると考へるのを、当然の如くに思ふのである。
しかし、実のところ、これは、みづから(身づ柄/自ら)の「いへ(家)」を「いは(祝/斎)ふ」べくしめ(標)た(立)てて「とほ(遠)つかむおや(神祖)」を「はか(墓)」にまつ(祀)る「家父長制の思想」と同様のものである。
一般的には、「哲学」に何ら関心がなくても、歴史に刻まれて、人(ひと)に知られるべきと感じる自分祖先の記録を掘り起こして伝へ残すのを意義あることと感じる人々は少なくない。
そして、その場合、そうして掘り起こされる記録は、自身にとっても、人(ひと)にとっても「役に立つ知識」であるとされるのである。
どのように役立つのかと云へば、無論、それは、その祖先の歴史に連なる、その祖先の流れを汲むみづから(身づ柄/自ら)の利害関係を、
自他に尊重させるようにすることにおいてである。
563: 考える名無しさん [] 2024/09/28(土) 08:59:44.93 ID:0(561/639) AAS
>みづから(身づ柄/自ら)の「いへ(家)」を「いは(祝/斎)ふ」べくしめ(標)た(立)てて「とほ(遠)つかむおや(神祖)」を「はか(墓)」にまつ(祀)る

哲学をする者にとっては、「みづから(身づ柄/自ら)のつか(使/仕/遣)ふことば」が「存在の家("das Haus des Seins")」/
「汝(い(≒"there")・まし(≒"squatting")がすまひ」であるとしても、「みづから(身づ柄/自ら)」が、
その「いへ(家)/すまひ」の「おほくめぬし(大久米主)」としてしめ(標)た(立)ててまつ(祀)るべき「とほ(遠)つかむおや(神祖)」は、
いづれの特定の存在者でもなく、いづれの特定の存在者でもない神ですらなく、つねにすでに不特定の存在者、すなはち、
つねに誰かでありながら、特定の誰でもない「汝(い(≒"there")・まし(≒"squatting")」なのだ。
564: 考える名無しさん [] 2024/09/28(土) 09:11:21.99 ID:0(562/639) AAS
自分祖先の記録 ×
自分の祖先の記録 〇
565: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 10:14:35.75 ID:0(563/639) AAS
哲学することの究極の目的は、「理性的な(すなはち、「理性」/"Vernunft"によ(依/拠)るものとして正当化された)統治/管理」の「ちから(力)」により、
「みづから(身づ柄/自ら)」を「い(生/活)かす」ための「と(獲/取)りく(汲/組)み」が「くる(狂)は」されないようにすることである。
566: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 12:10:05.47 ID:0(564/639) AAS
哲学しようとする者については勿論、哲学せざるを得ない者も、理性的な統治/管理によりつねに罰せられる。
そして、そのように罰せられることは、哲学せざるを得ない者には、「心外」で「理不尽」に感じられる。
なぜなら、それは、「さらによく考へてみよう」とする振舞ひに対して与へられる罰だからである。
解くべき問ひを課題として与へられ、それに模範的な解答を示してみせる能力に応じて統治/管理する側から評価される。
しかし、模範的な解答として示されるものがみづから(身づ柄/自ら)にとって「腑に落ちない」ところがあると感じられるなら、
哲学せざるを得ない者は、「腑に落ちる」解答が得られるまで、「さらによく考へてみよう」とする。
それは別に、「模範として示される解答が間違っている」ことを示そうとしているということではない。
そうではなく、その解答がそれなりに正しいとされ得るとしても、何かがどのようにか合っていないと感じられるのである。
このため、それが「模範的」とされてそこで追求をやめるのが「理性的である(≒「聞き分けがよい」)」とされることで、
「狐につつまれた」ような感覚に囚われるのであり、それを放置したまま別の課題に進むことができなくなるのだ。
すると、そのことにより、哲学せざるを得ない者は、統治/管理する側から制度的に罰せられることになる。
しかし、身づ柄/自らがなぜ罰せられなければならないのか、その理由が分からないため、
その仕組みを理解できるようになるまで必要以上に苦しむことになる。
567: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 13:30:10.55 ID:0(565/639) AAS
>万葉集 第20巻 4340番
<等知>波々江 已波比弖麻多祢 豆久志奈流 美豆久白玉 等里弖久麻弖尓
父母え斎ひて待たね筑紫なる水漬く白玉取りて来までに
とちははえ いはひてまたね つくしなる みづくしらたま とりてくまでに
(出典: 万葉集ナビ)

>美豆久(みづく)白玉(しらたま) 等里弖久麻弖尓(とりてくまでに)
み(身)づ(付/着)く しら・たま(魂) と(獲)りて・く(来)までに

>万葉集 第7巻 1203番
礒上尓 爪木折焼 為汝等 吾潜来之 奥津白玉
礒の上に爪木折り焚き汝がためと我が潜き来し沖つ白玉
いそのうへに つまきをりたき ながためと わがかづきこし おきつしらたま
(出典: 万葉集ナビ)

>汝がためと我が潜き来し沖つ白玉
これらの歌に詠まれた「しら(「白」≒"translucent")たま(玉/魂)」は、いづれもみづから(身づ柄/自ら)が
と(獲)りてく(来)る「いへ(家)づと(苞)」である。
それが納得できないというのであれば、「いへづと」をキーワードに「万葉集ナビ」で検索してヒットする歌の全件で
「いへ(家)づと(苞)」という表現がどのように用ゐられているか自分で確かめてみるといい。
万葉集 第20巻 4411番、第20巻 4410番、第15巻 3709番、第15巻 3627番、第3巻 306番
568: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 14:21:12.73 ID:0(566/639) AAS
「いへ(家)づと(苞)」という表現が、どのような意識の働きを伝へようとしているのかメタ言語レベルで捉へてみようとすることで、
私自身が、ほとんど十年の時を経て、私がこの掲示板に日本語の古語の表現について書き込むことを始めた歩み出しの地点に戻っていることに気づかされる。
というのも、私が日本語の古語の表現についての勝手な解釈を示すようになったのは、それが最初ではないものの、それ以降、しばらくの間、
考察をつづけるために自分の思ひついたことをメモとして保存しておいた方がよいだろうと感じて、時折、自分の書き込みを保存するようになったのが、確認してみると、
2015年4月のことであり、それは、「つと・め・て(早朝/翌朝)」という表現がなぜそのような意味となるのかよく分からないと感じられる、というものだからだ。
ただし、その時点ではまだ、このように長期にわたって(最大2年間に及ぶ「書込み規制」による不定期の頻繁な中断をはさみながらも)
日本語の古語の表現についての考察を日々書込みつづけることになるとは、思ってもみなかった。
また、私は、日本の古典文学を読む習慣もなく、日本語の古語を研究していたわけでもないので、当初は、古語の表現を解釈するのに、
古語辞典に記載される説明以外、どこにどのような手がかりを求めることができるのか見当もつかなかった。
しかしながら、私が勝手な解釈の探求を始めたのは、そもそも、私の気にかかることばの表現について古語辞典に記載される解釈や
ネット検索でヒットする語源的な説明が私には腑に落ちないものばかりであることに動機づけられていた。
569: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 14:59:58.55 ID:0(567/639) AAS
10年近く書き込みをつづけているとはいっても、私は堂々巡りのように似たようなことばかりに考へを巡らせている。
それでも、そうしてほとんど毎日のように日本語の古語の表現について、何かがどのようにか私に思ひ浮かぶというのは、
「客観的に見れば」、それ自体、理屈に合はないとても奇妙なことに思えるはずだ。
というのも、私は、いくつかのよく知られた日本の古典文学作品に目を通したことがあるものの、読書においてそのような機会は、
ごく稀であり、日本語で書かれた書籍自体、ほとんど読むことがなく、大抵の場合、目を通しているのは、日本語以外の言語で書かれたものだからだ。
メディアの番組でも、日本語で視聴することがあるのは、スポーツの試合くらいのもので、それ以外に視聴している番組は、
ほぼ全面的に日本語以外の言語によるものである。しかし、それは、私が、それらの日本語以外の言語に精通しているということではなく、
むしろ、つねに何を言っているのかよく分からないので、推測を働かせながら書かれたものを読んだり、番組を視聴している場合の方が多い。
そして、その推測を働かせるときに思ひ浮かぶのが、日本語の古語の表現なのだ。
つまり、よく分からない母語以外のことばの表現について推測を働かせることが、分かっているようでありながら、
よく分からない日本語の表現を解釈する手がかりとして自然に思ひ浮かぶのである。
570: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 15:26:01.89 ID:0(568/639) AAS
さて、「いへ(家)づと(苞)」とは、どのような表現だろうか。このことばが伝へようとする意識の働きをメタ言語レベルで捉へることが、
なぜ、「つと・め・て(早朝/翌朝)」について考へることに戻ることになるのだろうか。

私が「つと・め・て(早朝/翌朝)」について考へて書き込んだことは、今から振り返ってみると、どこに手がかりがあるのか見当もつかずに、
なんとか自分自身を納得させることのできる解釈を見い出そうとしていて、いかにも稚拙である。一般には、そのような稚拙さは、
たちまちのうちに非難され、探求を打ち切ることこそが「聞き分けがよい」≒「理性的である」とされるのだ。
ところで、その稚拙さがどこに由来するのかを「さらによく考へてみる」と、それは、私がその時点で他に手がかりが得られなかったために、
「つと・め・て」の「つと」は、「つと(夙)に」の「つと(夙)」であり、「つと(夙)」は、「早く」≒"early"を意味するという
辞書的な説明をそのまま手がかりとして受け入れてしまい、「つと(夙)」について、さらに探求することをやめてしまったことにある。
571: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 15:37:12.30 ID:0(569/639) AAS
さて、
>lang gehegte Hoffnung
しゅくし · そかい · 宿志 · 素懐
lang gehegter Groll
しゅくい · しゅくえん · 宿怨 · 宿意
lange gehegter Vorsatz
しゅくし · 夙志
(出典: de.glosbe.com/de/ja/lang gehegt)
である。
572: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 15:46:04.29 ID:0(570/639) AAS
さらに、
>hegen und pflegen
Etymology
hegen (“to cherish”) +‎ und (“and”) +‎ pflegen (“to care for”)

Etymology
From Middle High German hegen, from Old High German heggan (“surrounded by a fence”),
ultimately from the root of archaic Hag (“hedge”) and modern Gehege (“enclosure”).

EtymologyFrom Middle High German phlëgen, from Old High German plëgan,
from Proto-West Germanic *plehan.
(出典: Wikitonary)
であり、

>Pflicht
EtymologyFrom Old High German pfliht, from Proto-West Germanic *plihti.
である。
573: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 15:50:30.55 ID:0(571/639) AAS
>万葉集 第20巻 4331番
ことしをはらば つつまはず かへりきませと いはひへを とこへにすゑて
しろたへの そでをりかへし ぬばたまの くろかみしきて ながきけを まちかもこひむ はしきつまらは
(出典: 万葉集ナビ)

「つつまはず」という表現がどのようなことを伝へているか、理解できただろうか。
574: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 15:52:44.48 ID:0(572/639) AAS
まあ、在宅勤務だと、なんだかよく分からないことになりそうだがw
575: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 16:06:12.71 ID:0(573/639) AAS
模範的であるとは、率先するように聞き分けがよいということだ。
576: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 18:42:18.11 ID:0(574/639) AAS
>「いへ(家/伊弊)」≒"Sperrung"(ドイツ語)、「いほ・り(廬/伊保利)」≒"gesperrt"(ドイツ語)⇔《abri》(フランス語)と考へると分かりやすい。

このように意識的に捉へると、さらに気づくことがある。それは、万葉集の歌においては、「いは(祝/斎)ふ」という表現が、
動詞的に捉へられた「いへ(家/伊弊(/敝))」≒"Sperrung"(ドイツ語)に対応する表現として意識されているということだ。
「いはふ」に「伊波布」のような漢字が当てられる場合、「いは(伊波)」は、流れ出して広がるような作用を想起させ、
「〜ふ」は、それを「ひっくり返す」指示として、「閉じ込める」("einsperren/versperren")ことを表現するが、
「〜ふ」およびその活用形(この場合は、「は」)が「ひっくり返す」ことを指示することにおける、その「ひっくり返し方」の
不確かさから、「いはふ」は、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひとしては、現在のドイツ語において一般に通用する表現ではないものの、
形態としては"be・sperren"に対応していると見ることもできる。
ただし、「いは(祝/斎)ひ」という名詞形でこの表現を理解するのに最も分かりやすい助けとなるのは、英語の"continence"という表現だろうと思ふ。
「いは(祝/斎)ひの酒(さけ)」が、「さ(裂/咲/割)け」であるのは、まさしくそれが"continence"を「さきひらく」ものとして意識されているからだろう。
577
(1): 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 18:42:46.12 ID:0(575/639) AAS
いづれにせよ、私は、人が私の説明を正しいものとして鵜呑みにすることを求めているのではなく、誰であれ、
万葉集に詠まれた歌の事例を逐一、自身で確かめてみることを望んでいる。

>万葉集 第14巻 3460番
多礼曽許能 屋能戸於曽夫流 尓布奈未尓 和<我>世乎夜里弖 伊波布許能戸乎
誰れぞこの屋の戸押そぶる新嘗に我が背を遣りて斎ふこの戸を
たれぞこの やのとおそぶる にふなみに わがせをやりて いはふこのとを
(出典: 万葉集ナビ)
578: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 22:23:26.38 ID:0(576/639) AAS
このネタ、2度目になるが。

オランダのある宿屋には、墓地を描いた看板の上に、「永遠平和のために」という皮肉な銘が書かれていたという。

という文句は恐らくポエトリーで、作り話だろうというのは恐らく誰もが思っていて、ただし追及も探求もされず、意味がない。それに続くのが、

さてこの言葉は、すべての人間にあてはまるものなのか、それとも戦争に飽きることがない国の政治家たちにとくにあてはまるのか、あるいは死という甘い夢をみる哲学者だけにあてはまるのか、それは「おいておこう」。

という留保であり、絶滅戦争によってあらゆる選択肢(ずっと、〜のとき、もし〜だったら等の命法)を失ったという想定での最期の選択肢が「いずれ〜」だとか「〜かもしれない」という留保だろうという。

トップダウン型/ボトムアップ型の人工知能が全面戦争をして、最期に選択したのは留保だった。という流行りのアニメを観たが、それにしたって、歌とか物語はそれ自体が留保を含んでいるし、大きな声であえて語らない部分もあるだろうね。嘘くさくなるから。
579: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 22:49:39.60 ID:0(577/639) AAS
恐らく大規模言語モデルならカントと同じような発想が導き出される可能性があるんじゃないか?
だとか、それはただ歯切れの悪い話を垂れ流すだけなんじゃないか?とも思うが、それにしたって「言葉と行動が合わない」方が問題なんじゃないか?とも思う。

人間もAIもそれは守れないっていう。
580: 考える名無しさん [] 2024/09/29(日) 22:59:06.63 ID:0(578/639) AAS
>>577
>「『伊波布』許能『戸』乎」は、「『いはふ』この『と』を」と読むものとされているが、
この「戸」は、「と」ではなく、「へ」ではないのか。
なぜなら、万葉集 第9巻 1790番にも見られるとおり、「齊戸」は、「いはひ(斎)へ(瓮)」だからだ。
いづれにせよ、「いは(祝/斎)ひ」(⇔"continence")を象徴する「へ(瓮)」」は、ドイツ語にするなら"Gefäß"である。
581: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 06:09:23.37 ID:0(579/639) AAS
>夙に つと−に
?以前から。昔から。「―聞き及んでいました」 ?幼いころから。「理想に燃え―学問に励んだ」 ?朝早くから。
(出典: kanjipedia.jp/kotoba/0003193900)

>pflegen
❸ (00) ((+zu不定詞句))(…するのを)常としている,(…する)習慣である,よく(…する)
wie man zu sagen pflegt\よく世間で言われているように
Er pflegte damals mit meinem Kind zu spielen.\彼はそのころよく私の子供と遊んだものだった.
(出典: プログレッシブ 独和辞典)

>Pflicht
❶ ((英)duty) 義務,本分;職務
eine sittliche Pflicht\道義的責務
die alltäglichen kleinen Pflichten\日々のこまごました雑事
sich4 seiner Pflicht entledigen\やるべきことをかたづける
der Pflicht genügen\責務を全うする
❷ 〔スポーツ〕(体操などの)規定演技.
[◇pflegen]
◆Es ist j2 Pflicht und Schuldigkeit. ((+zu不定詞句))\(…を)するのは…2の当然の務めだ.
j4 in [die] Pflicht nehmen\((雅)) …4に義務を課す.
(出典: プログレッシブ 独和辞典)
582: 考える名無しさん [sage] 2024/09/30(月) 06:19:18.49 ID:0(580/639) AAS
pufuzuki?
583: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 08:00:01.74 ID:0(581/639) AAS
日本語以外の私にはまだよく意味の分からないことばの表現に触れて、それにどのようにか似ているように感じられる
日本語の古語の表現につらなることばを連想するとき、結局、私は、何をしていることになるのだろうか。
そのように問ふてみるなら、私にとって、よく「考(かむ)へ」るとは、連想されることの「行(ゆ)き来(き)」/
"Verkehr"のめぐ(巡)りをよくすることであることに気づかされる。
584: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 08:00:32.04 ID:0(582/639) AAS
例えば、ドイツ語の"Einvernehmen"という表現に出会って、日本語の「聞き分けのよさ」が想起される。
なぜそうのような思ひが浮かぶのか自問してみると、「聞き分けのよさ」を発揮しなければ、
"Einvernehmen"に達することができないからだ。すると、逆に、「聞き分けがない」とは、
「あらそ(争)ひ/あらが(抗)ひ」つづけることであるという思ひが浮かび、そのような振舞ひは、
「理性的」/"vernünftig"ではないと感じられ、「理性的」/"vernünftig"であるとは、
"Einvernehmen"に達することができるように「聞き分けのよさ」を発揮することであるという「理解」/
"in-between stasis"が得られる。そこで、あらためて、「理性」と訳されている"Vernunft"について、
その語源がどのように説明されているかをたし(確)かめてみると、それが"vernehmen"の活用に由来することが分かる。
"vernehmen"は、「聞きとる/聞き分ける」ことを意味しているのだから、"Vernunft"/「理性」とは、
「聞き分けのよさ」を発揮することであるものと意識されているだろうという推測が成り立ち、
そここら、「聞(き)こし食(を)す」ことにより「あら(荒)ぶる」者ども/「たけだけ(丈々)し」い者どもを
「な(撫)でたま(給)ひ」、「(ことむ(言向)け)やは(和)したま(給)ふ」といった一連の古語の表現が連想される。
そこで、これらの表現の用例を万葉集の歌の事例に照らして、そのような連想による「理解」/"in-between stasis"が
役に立つかどうかを試してみることになる。そのようなことを繰り返していると、「行(ゆ)き来(き)」/
"Verkehr"のめぐ(巡)りのよいことが判明した連想だけが、度々、役に立つことでわす(忘)れられることなく、
際限なく広がる開かれた回路として互ひにつながりながらネットワークを形成してゆく。
585: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 08:01:47.67 ID:0(583/639) AAS
そここら ×
そこから 〇
586: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 13:38:41.41 ID:0(584/639) AAS
日本語以外のことばの表現に触れて、私に連想されるのがなぜ、大抵の場合、現代の日本語ではなく、日本語の古語なのかということについては、
明白な理由がある。それは、私の個人的なの懐古趣味に依るものではない。日本語の現代仮名遣ひは、以前から既に繰り返し指摘してきたとおり、
旧仮名遣ひであれば、自ずと互ひに連鎖して想起されるはずのことばのつながりを人為的に断ち切ってしまっており、
あらかじめかむか(考)へが巡らないようにするよう仕組まれているのである。そのことにより、旧仮名遣ひであれば、
他言語の表現との対応するような表現の連鎖が容易に見出せて、日本語の表現の理解そのものを深めることに役立つような場合でも、
現代仮名遣ひは、まづは対応関係に気づくことを困難にし、さらには、対応関係に気づいた場合でも、その対応関係を孤立させて、
連鎖して考へが巡ることを徹底的に妨害するように働いている。このことからも、日本語で哲学をするのに古語を参照するのは、
趣味の問題ではなく、旧仮名遣ひを意識することなしに日本語で哲学をすることは不可能であると言っても過言ではない。
587: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 14:13:18.28 ID:0(585/639) AAS
例えば、万葉集の歌には、「尓(/爾)保杼里(にほどり)」という鳥の名称が詠まれているが、これは、現代では、
「カイツブリ」と呼ばれる鳥を指すものとされる。したがって、「尓(爾)保杼里(にほどり)」は、「ニワトリ(鶏)」でない。
「尓(爾)保杼里(にほどり)」という表現を知らなかったとしても、検索すれば、それは「カイツブリ」のことである、
と辞書に記載されているのだから、なぜ私がそんな当たり前のことを言ふのか、大抵の人は、いぶかしく思ふだろう。
ところで、「ニワトリ(鶏)」が、現代の日本語で「ニワトリ」と呼ばれるのは、それが「には(庭)・つ・とり(鳥)」だからである。

>万葉集 第7巻 1413番
庭津鳥 <可>鷄乃垂尾乃 乱尾乃 長心毛 不所念鴨
庭つ鳥鶏の垂り尾の乱れ尾の長き心も思ほえぬかも
にはつとり かけのたりをの みだれをの ながきこころも おもほえぬかも

さらに、「には(庭)」は、万葉仮名では「尓(/爾)波(には)」とも表記される。したがって、この歌の「庭津鳥」を勝手に
万葉仮名で書き換へるなら、「尓(/爾)波津杼里(にはつとり)」という表記も可能であることになる。
そして、ここまで来てようやく、「尓(/爾)保杼里(にほどり)」の「尓(/爾)保」と「ニワトリ(鶏)」の「尓(/爾)波(には)」には、
表現としてどのようにか共通性が認められるのではないかという思ひが浮かぶことになるだろう。
588: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 14:39:55.48 ID:0(586/639) AAS
「た(垂)りを(尾)のみだ(乱)れを(尾)の」如く長たらしい説明はやめておこう。

「に(尓/爾)」は、やはらかく触れるような近接性を感じさせるこわ(声)づか(使/仕/遣)ひである。
日本語の古語においても、二人称の「なんぢ」に「尓/爾」が当てられることがあるように、
中国語においても、「你((Pinyin): nǐ)」は、二人称の相手を指す表現である。
「尓(爾)保杼里(にほどり)」の「尓(爾)」は、「二」としても意識されており、「にほ」が伝へているのは、
相手と仲良く一緒になっていることであり、「にほ」の「ほ」は、「〜ふ」の活用形である。
岩波古語辞典には、互ひに似通った表現について、「〜の転」とする記載が数多くみられるが、
この説明は、ことばの違ひを、単に発音の変形と見做すものである。
しかし、「にほ」の「ほ」を「〜ふ」に対応する表現の活用形であると考へるなら、
「は行」の活用から自ずと、「には」、「にひ」、「にふ」、「にへ」、「にほ」が連鎖して
想起されることになる(そして、実際、岩波古語辞典は、このうちの一部についてだけ、
動詞的な活用としてではなく、「〜の転」と説明している)。
589: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 14:46:04.77 ID:0(587/639) AAS
英語をメタ言語として利用した現時点での私の暫定的な推論を記しておこう。

には(庭): annex/annexation
にひ(新): annexing
にふ(*): ****
にへ(贄): (what is) to be annexed
にほ(*): annexed(/united)
590: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 18:23:08.29 ID:0(588/639) AAS
>番号 巻19-4200
漢字本文 多祜乃浦能底左倍尒保布藤奈美乎加射之氐将去不見人之為
漢字本文(左注) 次官内蔵忌寸縄麻呂
読み下し文 多祜の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため
読み下し文(左注) 次官内蔵忌寸縄麻呂
訓み たこのうらのそこさへにほふふぢなみをかざしてゆかむみぬひとのため
現代語訳 多祜の浦の底まで美しく輝く藤波を、髪に挿して行こう。この景色を見ない人のために。
(manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=4200)

「にほふ」は、「輝く」という意味ではないだろうと私は思ふ。
591: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 19:13:42.05 ID:0(589/639) AAS
ポストモダニズムでは(日本では)筆頭とされているデリダやラカンはシニフィエよりもシニフィアンを重視したと思われる。
まぁ、ざっくりと語の本来の意味や定義の厳密さよりは、発音や質感を重視した上で、同音異義語の問題があるが、日本語の場合は欧米の言語と違って同音異義語が多く、中国語と違って"ひらがな"表記と併記され、しかも主語はもっぱら漢字であるが、述語はひらがな表記もされるという点で誤謬は生じやすいが、それでも「だいたい合ってる」のであり、それは語源を正せば同じなのか、(ポストモダン哲学のような)音にこだわりがあって、自ずと似たような意味に寄ってくるのかは分からない。

日本語でポストモダニズムが重視される理由でもあるかもしれないが、「歌人は"ひらがな表記"に魅了され、愛された。」というのもあるだろう。

まぁ、その理由付けも受容的か、能動的かにも依るだろうし、古代の歌人はそれがポストモダニズムなんて全然考えなかったはずだが、響きの美しさにはこだわっていただろうし。
592: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 19:24:08.88 ID:0(590/639) AAS
歌人は(ひらがな表記に)「魅了され、愛された」と記してみたのだが、その目的は恐らく主従関係や因果関係を上手にはぐらかす事にあると思わないか?とか。
593: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 19:33:55.00 ID:0(591/639) AAS
もちろんここでの「愛された」は明らかな誤謬であり、たんに概念である"ひらがな表記"が人間を愛する訳がない。
とはいえ訂正する必要がなく、それは無粋だろうという所に、そうですね。
トラップが仕掛けられているというか。
594: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 19:52:22.29 ID:0(592/639) AAS
まぁ、わざわざ「魅了され、愛された」と表記したのは「魅了され、愛した」よりも響きが良いからである。
音韻としても、音数としても前者の方が整っているからだが。それ以上のセンスを試しているのか?試されているのか?
まぁ、そういった話かもしれない。
595
(1): 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 19:59:14.71 ID:0(593/639) AAS
>多祜の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため

では、「底さへにほふ藤波を」をどう訳すのかと問はれるなら、私に特別な妙案があるわけではない。
ただ、上に提示したメタ言語的な説明に沿って、「に・ほ・ふ」を「ひとつに"annex"された様態にする」ことを意味するものと理解して、
素直に「底までひとつに染める藤波を」とした方がまだ原文の古語の表現に近いのではないかと私は思ふ。
596
(1): 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 20:12:30.32 ID:0(594/639) AAS
>>595
字余りじゃん。
597
(2): 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 20:13:35.68 ID:0(595/639) AAS
例えば、この山は、日本語としては、朝日に「にほふ」と表現するのが妥当であって、朝日に「輝いている」わけではないだろう。

>Foto von Saas-Fee: Morgenrot am Horizont
tripadvisor.de/LocationPhotoDirectLink-g198839-i237378992-Saas_Fee_Canton_of_Valais_Swiss_Alps.html
598
(1): 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 20:25:34.55 ID:0(596/639) AAS
>>597
うーん。妥当かどうかはやはり主従関係や因果関係による。としか。
メカニズムとしては「太陽が照らし、水蒸気が立ち込めてから"匂う"」なのだが、その順序にはあえて注目してないというか。
山が主語というのをこの場合、強調したいのではないのだろうし。
599: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 20:26:40.94 ID:0(597/639) AAS
>>598
すまん、すまん。
山が主語というのをすごく強調したかった。
という事が分かる。っていう。
600: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 20:30:13.00 ID:0(598/639) AAS
まぁ、日本語は(欧米と比較して)主従関係や因果関係がおかしいよ!!ってずっと指摘されうる所だろうけども、文化的には無粋や邪推ともされるんだろうなってところ。
601: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 21:26:04.91 ID:0(599/639) AAS
まーでも面白いよね。
日本での哲学の紹介のされ方って「この概念はこうであるから、こうして誤謬があり(誤謬推理があり)、だからこう言うのが正しい。」という説明書でしかなかった。(主には欧米文化を引用して)

それはまるで「パソコンのOSが新しくなったので覚えてください!」「民主主義2.0」みたいな言い方にしかなっていないが、日本独特の文化に注目すれば、訂正可能性よりも訂正"不可能性"の方が(笑)先立つ。
そしてその理由は、こうして「響きが良くない」だとか、「美しくない」という理由かもしれないだとかだ。

しかし概念とは"建築"であるという文句があるのも確かなのだし、構造主義は「美しくなかった」という理由で採用されなかったのかもしれないし。
602: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 22:06:39.25 ID:0(600/639) AAS
ポストモダニズムの批判者はプレモダニズムに非ず。そも、モダニズムは持続可能な運動(=定言命法や仮言命法)によって支えられるが、自然哲学者(物理学者)はそうは考えない。「運動は持続的である」が真であり、命法は偽であるとも考えるが、「あの、それって別に両立できますよね?」っていうところに、文系/理系の欺瞞が隠されている。

とか。
603: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 22:28:41.08 ID:0(601/639) AAS
カントはまぁ、何か新しい概念を構築した訳ではないし、本命はアリストテレス主義の再構築ではあったのだろうが、じっさいは(批判による)大胆な枝刈りだろう。
可能性ではなく、不可能性に賭けた人間だとは伝え聞いてはいるが、たんなるデストロイヤーならここまで有名になることも愛されることもなかっただろう。
604: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 22:40:39.86 ID:0(602/639) AAS
>>596
>字余りじゃん。

私は、ことばの表現の意味を現代語に訳そうとしているのであって、元の歌を題材にしてそれを現代語の歌に変へようという気は一切ないんだよ。
現代語として歌の形式にするために、古語の「にほふ」を、その訳が妥当でないことを知りながら「輝く」に移したのだとしたら、
それは、万葉集の歌の現代語訳として用をなさないと私は思ふ。 なぜなら、古語の歌について知ろうとすることは、
古語の表現を理解しようとする限りにおいて役立つのであって、その方が現代の言葉で歌になるからという理由で元の表現法を無視するのであれば、
最初から万葉集などとは無関係に現代の歌を聞いていればいい。
だから、私は、万葉集の歌に詠まれる「いへ(家)づと」に「土産(みやげ)」という現代語訳を当てることも妥当ではないと考へる。
なぜなら、現代の日本語を母語とする人々が「土産(みやげ)」と聞いて想起するのは、間違いなく「観光旅行の土産(みやげ)」だからだ。
しかし、大君の「まけのまにまに」旅だった大丈夫(ますらを)が「いへ(家)づと」として手に入れるのが、「しらたま」であれ、
「かひ」であれ、そのことが意味するのは、観光地で土産を買ふのとは、まったく別のことであり、
その「いへ(家)づと」には紛れもなくみづから(身づ柄/自ら)の「いのち」がかかっている。
「いへ(家)づと」を現代語の「土産」に訳して万葉集の歌の意味が分かったような気になるなら、むしろ、
何か分からないことばが詠まれていると感じたままである方がまだましだ。
605: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 22:58:33.24 ID:0(603/639) AAS
まぁ、哲学でもよくある"註解"の問題かな。
哲学はある意味で鏡であって、「自己の願望を自ずと映し出してしまう。」とアダム・タカハシさんの『哲学者たちの天球』にもあった。(これが多分本書一番の名台詞であり、要点でもある。)

当然の事ながら、「鏡に映った自分は美しい」と答えるのは自惚れなのだから、建築を口実にしないと成立しないものだろうけども。
606: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 23:12:50.11 ID:0(604/639) AAS
まぁ、カントの場合、ひたすら前口上が上手い。というのが。

人間がその自然の本性のために、どうしても無関心ではいられない事柄についての研究[である形而上学]に、どれほど無関心を装ったとしても、無駄なことなのである。
自分は形而上学には無関心であると装った人々が、学問的な言葉遣いを[わかりやすそうな]通俗的な調子に改めて、どれほど自分の正体をごまかそうとしたところで、何かについて考えようとすると、あれほどまでに軽蔑的な口調で語っていた形而上学のもとに、戻らざるをえないのである。
ところが[このように人々が装った]無関心な様子が流行したことは、注目と省察に値する現象である。それというのもこの無関心が、さまざまな学問が開花するさなかで発生したものであり、そしてもしも手にいれることができるのであれば、万人が手に入れたいと願い、どうしても手に入れることを諦めきれない知識についての学に向けられたものだからである。
この無関心は、軽率さから生まれたものではなく、もはや外見だけの学問ではごまかされることのない現代の成熟した判断力から生まれたものである。
この無関心は理性にたいして、あらゆる任務のうちでもっとも困難な自己認識の営みにふたたび着手することを、そしてそのために一つの法廷を設けることを求めるものなのである。
この法廷の役割は、理性が妥当な要求を示す場合には理性を堅固なものとするが、根拠のない越権を示す場合には、強権をもってではなく、理性の永遠で不変な法則によって、これを退けることにある。この法廷こそが、純粋理性批判である。
607: 考える名無しさん [] 2024/09/30(月) 23:47:24.23 ID:0(605/639) AAS
しっかしまぁ、このスレのタイトルのようにして「哲学の前段階」というのがあったとして、形而上学というか、アリストテレス主義というか。欧米基準のスタイルは提示できるのだが。
それにしたって、自然の描写は日本古来の歌人の方がずっと上手いとして、それは形而上学なんだろうか?というのはある。

形而上学はあくまで純粋理性で、いわばシミュレーションゲームで、人工自然のようなものというか、自然そのものの描写からはかけ離れるとも思うからね。
608: 考える名無しさん [sage] 2024/10/01(火) 07:50:17.76 ID:0(606/639) AAS
日本人は禅だから、欧米人のような原理原則で統制されていないのだよ。つまり、principleを持たないのが、日本人のprincipleになっている

欧米人の知は明示的な知であるのに対して、日本人の知は暗黙知であることを示している
609: 考える名無しさん [sage] 2024/10/01(火) 07:55:16.68 ID:0(607/639) AAS
欧米人が明示的なprincipleを要するのは多民族国家なので、明示的な言語や概念による周知、あるいは、知の多民族的な共有が必要だからだろう

日本人のような島国単一民族は、以心伝心の暗黙知で十分、間に合ってきたのである。だから、歌でも詠んで、場の空気を感じながら楽しんでおり、その代わり明示的な概念や哲学が全く発達しなかったのが日本である
610: 考える名無しさん [] 2024/10/01(火) 09:05:47.16 ID:0(608/639) AAS
古語のことばの表現を妥当に記述するようにメタ言語を磨いてこそ、
それを現代語にうつ(移/写/映)そうとする際に妥当な表現を探求することも可能となる。

例えば、>>597の"Morgenrot am Horizont"と題された山の写真について、
「朝日にほふ」としても現代語としては通じない。そこで、その代はりに「朝日が山肌には(映)える」と言ひ換へることは可能であり、
そのような現代語の表現に訳すことは間違っていないだろうと私は思ふ。
しかし、それでは、古語の「にほふ」という表現の理解を深めることにはならず、この場合、ドイツ語の"Morgenrot am Horizont"という
表現が伝へようとする感覚もうまく伝へることにはならないだろう。そこで、いかにもぎこちなく暫定的なメタ言語的な記述ではあるものの、
「『に・ほ・ふ』とは、『ひとつになるように"annex"された様態にする』ことである」とした私の「理解」/"in-between stasis"を
利用するなら、「朝日にほふ」⇔「朝日が山肌には(映)える」⇔「朝日をうつ(移/写/映)す山肌」と言ひ換へることもできることに気づく。
ここで、最初に引用した万葉集の歌に戻ると、「底さへにほふ藤波」⇔「底までうつ(移/写/映)す藤波」/「底までうつ(移/写/映)る藤波」
とする現代語訳が得られる(ここで、「うつす/うつる」の不確かさは、「〜ふ」という表現法によってもたらされるものであるので、
「あ(悪)しきこと」ではない。)さらに、現代では、主として臭覚に関して用ゐられるようになっている「にほふ」は、古語としては、
視覚に関して用ゐられる場合がほとんどであるものの、いづれにせよ、「にほふ」という表現には、現代語で「香りがうつる」という
場合と同様に「色がうつる」という感覚を伝へる働きがあるので、この場合の「にほふ」⇔「うつ(移/写/映)す」/「うつ(移/写/映)る」という
現代語へのうつ(移/写/映)し換へは、それなりに妥当であるように私には思える。
611: 考える名無しさん [] 2024/10/01(火) 09:42:13.85 ID:0(609/639) AAS
階層化するように組織された社会制度において「理性的」であろうとすること、つまり、「聞き分けよく」あろうとすることは、
早朝に庭(/廷)から聞こえてくる「には・つ・とり」の鳴き声につねに細心の注意を払って、その鳴き順をうまく聞き分け、
その聞き分けに率先して応じて振る舞ふようにみづから(身づ柄/自ら)を律しようとすることと同義である。
そして、その「理性」/「聞き分けのよさ」は、それを評価されるべき能力として発揮すること自体が、小鳥の鳴き声など、
耳を貸すにあたひ(値)しない無意味な「さへづ(囀)り」として気にも留めないようにすることの裏返しでもあり、
「さへづ(囀)り」が騒がしくなるなら、それを「理性」/「聞き分けのよさ」によって正当化された力の行使により、
しづ(静)かにしているよう強要する態度をみづから(身づ柄/自ら)がとるのを当然のこととするものである。
612: 考える名無しさん [] 2024/10/01(火) 09:48:52.82 ID:0(610/639) AAS
0364 恐怖の鶏頭 2024/09/13(金) 21:26:14.89
>詩人・童謡作家の西條八十(1892〜1970年)は、約100年前の1919年の詩集『砂金』で、ケイトウをこんなふうに詠っています。

鶏頭の下(もと)の
小(ち)さき地獄。
(出典: dot.asahi.com/articles/-/35575?page=1)
613: 考える名無しさん [] 2024/10/01(火) 11:12:30.88 ID:0(611/639) AAS
>英語をメタ言語として利用した現時点での私の暫定的な推論を記しておこう。

には(庭): annex/annexation
にひ(新): annexing
にふ(*): ****
にへ(贄): (what is) to be annexed
にほ(*): annexed(/united) <

このような推論は、私という個人が勝手にそう思ふだけの「こじつけ」だと感じられるだろうか。
例えば、「『にひ(新)』⇔"annexing"とするような根拠がいったいどこにあるのか」と感じる人も多いのではないかと思う。
しかし、例えば、「最新の機会」というのは、"the nearest opportunity"ではないのか。
さらに、そう考へると、英語の"nearest"という表現と日本語の古語の「にひ(新)」は、こゑ(声)づか(使/仕/遣)ひまで
互ひに「に(似)て」いると感じられるようになるのではないか。そして、そのように「に(似)て」いることは、
私にとっては、特に不思議なことではない。

ところで、私は、今、シェイクスピア全集に目を通しているが(古い英語に私は慣れ親しんでいないので、
話の内容はほとんどまだ把握していない)、日本語の古語の「には(庭)」と「にひ(新)」と「にほ(*)」が連鎖して想起されるような
興味深い台詞の事例に遭遇したので引用しよう。それでも、「鶏頭」がそのような対応関係を聞き分けることは期待できない。
というのも、「鶏頭」がまず要求するのは、「シェイクスピアの英語が日本語の古語と何の関係があるのか。先にその関係を明示しろ。
それができないなら黙っていろ。さもなければ出ていけ。」と威嚇してくるに決まっているからである。
614: 考える名無しさん [] 2024/10/01(火) 11:17:04.57 ID:0(612/639) AAS
先にその関係を明示しろ。それができないなら黙っていろ。×
先にその関係を明示しろ。」ということであり、「それができないなら黙っていろ。〇
615
(1): 考える名無しさん [] 2024/10/01(火) 11:22:38.17 ID:0(613/639) AAS
Henry IV, Part 1, Act 3, scene 2

KING:
Why, Harry, do I tell thee of my foes,
Which art my nearest and dearest enemy?
Thou that art like enough, through vassal fear,
Base inclination, and the start of spleen,
To fight against me under Percy’s pay,
To dog his heels, and curtsy at his frowns,
To show how much thou art degenerate.

(出典: folger.edu/explore/shakespeares-works/henry-iv-part-1/read/3/2/)
616: さてね [] 2024/10/01(火) 11:57:52.40 ID:0(614/639) AAS
第7巻
歌番号 1413番歌
作者 作者不詳
題詞 –
原文 庭津鳥 <可>鷄乃垂尾乃 乱尾乃 長心毛 不所念鴨
訓読 庭つ鳥鶏の垂り尾の乱れ尾の長き心も思ほえぬかも
かな にはつとり かけのたりをの みだれをの ながきこころも おもほえぬかも
617: 考える名無しさん [sage] 2024/10/01(火) 15:57:58.34 ID:0(615/639) AAS
「にはつとり」が誰を指すのか不明である以上、「か(懸)け(/鶏)の『を』のながき(嘆きの)こころ」も「にはつとり」とどのような関係性にあるのか確かめようがない。
618: 考える名無しさん [sage] 2024/10/01(火) 19:20:49.64 ID:0(616/639) AAS
人間個人を表すのにあらゆるヨーロッパ言語において「Person」という単語が通例的に用いられるのは、図らずも的確なことである。なぜなら「persona」【ラテン語】は本来的に俳優の仮面を意味するものであり、確かにいかなる者もありのままではなく、皆仮面を被り役割を演じているのである。
619: 考える名無しさん [] 2024/10/02(水) 00:05:21.55 ID:0(617/639) AAS
ニワトリ?
620: 誰かさん [] 2024/10/02(水) 00:37:13.22 ID:0(618/639) AAS
モヅのこゑ(声)ですよ。

>秋野之 草花我末 鳴<百舌>鳥 音聞濫香 片聞吾妹
621: 考える名無しさん [] 2024/10/02(水) 01:48:37.10 ID:0(619/639) AAS
>長き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓 中に造り置き 壮士墓
このもかのもに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新裳のごとも 哭泣きつるかも

「にひ・も(新裳)」の「にひ」が伝へている感覚は、「あたら(新)しい」ではないだろう。
622: 考える名無しさん [] 2024/10/02(水) 02:45:39.52 ID:0(620/639) AAS
こういうメタ言語的な話で言うと、松山俊太郎の『漢語の「愛」について』という論考がおもしろかった。

松山は『漢字語源辭典』に載っている「愛」の説明に補う形で反論していくんだけど、
その辞典によると(松山の勝手な解釈も含まれてるが)、「愛」の原字は「㤅」であり、これを形声文字として捉えると、「アィと声を出すようなこころもち」であり、「切ない時に用いる感嘆詞」と説明される。
「㤅」を会意文字として捉えると、「旡」はむせぶと訓じ、「腹をふくらせてのけぞった姿。いっぱいにつまって喉元のつかえること。」としているので、「㤅」は「胸がいっぱいのこころもち」となる。
これらは相反するものではないので、つまり、「㤅」は会意形声文字であり、「胸いっぱいの切ないきもち」と解釈できる。

ただこれでは、「愛」の持つイメージの全てを包摂できないし、別の言葉も「愛」に含めないといけなくなると主張するんだけど、
例えば、この規定によれば、「憂」や「愁」も「愛」とされるし、親子や友人との「幸福な愛」を包摂できなくなる、と。

ここで松山は、字型に依らず、「アィ」という音感に基づいて、「アィ」音を含む三つの情調語、「アィタィ」「アィアィ」「アィマィ」から考える。

「アィタィ(愛逮、靉靆、曖曃)」→「行きなやむ、たなびく、覆う、暗い、明らかでない」
「アィアィ(藹藹、靉靉、曖曖)」→「もののひろがりみちた、心のとけ合った、うすぐらい、まぎらわしい」
「アィマィ(曖昧)」→「はっきりしない」

これから抽出して考えると、「アィ・あるもやもやしたものの遍満」となる。

そして次に、「アィ」の音そのものから、「ものとものの緊張、索引、接着、融合」を暗示する力があると解釈して、
この二つから「愛」を「対象と自己と、別個の存在であると知りながら、分かち難くなるきもち」と定義していた。

かなり要約して書いたから、引っかかるところもあると思うけど、気になったら自分で読んでみてくれ。
こういう漢語の解釈からやまとことばの理解に繋げるってのも一つの手ではないかなと思う。
623: 温故知新 [] 2024/10/02(水) 08:36:02.60 ID:0(621/639) AAS
>故縁聞而/故縁聞きて/ゆゑよしききて 雖不知/知らねども/しらねども
新喪之如毛/新裳のごとも/にひものごとも 哭泣鶴鴨/哭泣きつるかも/ねなきつるかも
(出典: 万葉集ナビ)

これは、万葉集 第9巻 1809番からの引用だである。
原文には、「新喪之如毛」と記されているにもかかわらず、訓読では、「新裳のごとも」と記されて、
「喪」が「裳」に変へられてしまっているのは、適切ではないようにも感じられるが、この場合、この漢字の置き換へは、
この歌のことばの表現の理解を深めるのに役立つ妥当な示唆として行われていると言へるだろう。
というのも、「新喪之如毛」と表記させる「にひものごとも」が、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひとしてとして想起させることを
意図しているのは、まさしく、「『新裳』のごとも」だろうからだ。つまり、この場合、「喪に服する」という場合の「喪」が
「も【裳】 ? 古代、腰から下にまきつけた衣服の総称」(出典:小学館デジタル大辞泉)に喩えられているのであり、
「にひ・も」は、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひとして「喪」と「裳」の掛詞となっている。
したがって、この場合、「にひ(新)」という表現は、古き昔の死者の「喪」が「新(にひ)裳(も)の如く」、
「肌身に触れて身近に感じられる」という感覚を伝へるものであり、時間的な遠(far)/近(near)の対比を、
肌感覚としての近接性の度合にうつして伝へていると言ふことができる。
624: 考える名無しさん [] 2024/10/02(水) 08:36:54.76 ID:0(622/639) AAS
引用だである ×
引用である 〇
625: 考える名無しさん [] 2024/10/02(水) 09:01:03.36 ID:0(623/639) AAS
「温故知新」は、「故(ふる)きを温(たず)ね、新(あたら)しきを知(し)る」と読み下されるが、
この漢語の「新」を「あたらし」という日本語の表現に置き換へても、何を伝へようとしているのかよく分かるようにはならない。
しかし、この「新」を、古語の「にひ(新)」のように「親身(しんみ)/肌身(はだみ)に感じる」ような「時間的な近さ」としてイメージするなら、
例えば、英語の"renewed knowledge"という表現のように、すぐにその意味が伝はる表現として感じられるようになるはずである。

>溫故知新
Etymology
From the Analects, Book 2 (《論語·爲政》):
子曰:「溫故而知新,可以為師矣。」
The Master said, "If a man keeps cherishing his old knowledge, so as continually to be acquiring new, he may be a teacher of others."
(出典: en.wiktionary.org/wiki/溫故知新)
626: 考える名無しさん [] 2024/10/02(水) 10:07:08.71 ID:0(624/639) AAS
「温故知新」、「故(ふ(経)る)き」ものを大切にすると聞くと、「経文」を暗唱するようなことを思ひ浮かべる人が多いだろう。
しかし、私自身も暗記はとても苦手で、何かを「経典」のように扱ふということも嫌いだ。
それでも、何らむづか(難)しく、複雑な知識体系を暗記して身に付けなくても、例えば、「ニワトリ」は、
早朝に「には(庭/廷)」で鳴き声を上げる「には(庭/廷)・つ・とり(鳥)」であり、「庭/廷」は、本来、
「にわ」と転記されるべきものではなく、「には」と表記させる方が妥当だという思ひを抱いているだけで、
「には(庭)」から、「にひ(新)はだ(肌)」の「にひ(新)」、「いけにへ(生贄)」の「にへ」、「にほ鳥」の「にほ」まで
自然に連鎖して想起され、それだけでなく、引用した、私自身、初見のシェイクスピアの劇の台詞、
「温故知新」という、よく目にすることはあるが、そのままではどう解釈するのが適切なのかよく分からない漢字熟語までが
連想ですぐにつながって「身近に感じられる」ようになる。これは、暗記していることとは全く別の効率のよさである。
627: 鶏頭のた(誰)そか(彼)れ(/黄昏) [] 2024/10/02(水) 11:14:45.32 ID:0(625/639) AAS
>誰かさんが誰かさんが誰かさんがみつけた
ちいさい秋ちいさい秋ちいさい秋みつけた
むかしのむかしの風見の鳥のぼやけたとさかにはぜの葉ひとつ
はぜの葉あかくて 入日色

この「風見の鳥のぼやけたとさかにはぜの葉ひとつ」を、万葉の歌人であれば、
「はぜの葉『に・ほ・ふ』風見鶏のとさか」として表現しただろうと私は思ふ。
また、「すましたお耳」に「百舌鳥の呼ぶ声」が「聞こえてしまふ」ことは、取りも直さず、「鶏頭のた(誰)そか(彼)れ(/黄昏)」である。
628: 考える名無しさん [] 2024/10/02(水) 11:15:59.73 ID:0(626/639) AAS
入日のはぜの葉にほふ風見のとさか
629: 考える名無しさん [] 2024/10/02(水) 11:26:16.57 ID:0(627/639) AAS
ここでは、「入日」は、「いりひ」ではなく、「にゅうぢつ」と読んでもらいたい。
630: 考える名無しさん [] 2024/10/02(水) 11:48:48.95 ID:0(628/639) AAS
にゅうぢつ
631: 考える名無しさん [] 2024/10/02(水) 23:44:42.10 ID:0(629/639) AAS
お前たちのことはみなわかっている
今はお前たちの気まぐれに付き合っているだけだ
だがそうしながらも俺は太陽のように振舞うのだ
卑しい雲が覆うにまかせ
地上から見えなくなったとしても
いったん自分の姿を取り戻そうと思えば
人々から驚きの目を以て迎えられる
いままで自分を覆っていた醜い雲など
あっという間に吹き散らしてしまうのだ
毎日が休日だったとしたら
遊びも働くことと同様退屈になる
滅多に起こらないことほど待ち望まれ
まれな出来事ほど貴重がられる
それ故俺もこのふしだら振りをかなぐり捨て
思いがけない振る舞いに戻ることによって
自分が見せかけ以上に偉大であり
人々の想像を越えた人間であることを立証するのだ
そして粗末な地金にはめ込まれた宝石のように
俺の改心はこれまでの非行を背景にして
そうした背景がない場合よりも
いっそう輝きをまし 人々の目を引くだろう
俺が悪事を働くのは方便としてだ
人が夢にも思わぬときに一挙に償いをしてやる
632: 考える名無しさん [] 2024/10/03(木) 21:12:16.31 ID:0(630/639) AAS
>>615
因みにこれはハル王子(Harry)の台詞。
ここでの卑しい雲とはどうやらフォルスタッフの事のようだが、フォルスタッフもヘンリー4世の主要な登場人物となっている。

「戦場にはビリっかす」、大酒飲みで強欲、狡猾で好色だが、限りないウィット(機知)に恵まれ、時として深遠な警句を吐く憎めない人物として描かれ、上演当時から現代に至るまでファンが多い。とのこと。

哲スレは戯曲のようでもあるか?
633: 考える名無しさん [sage] 2024/10/15(火) 02:25:03.16 ID:0(631/639) AAS
哲学にはある意味で余計な前提は要らない🙂‍↔
634: 考える名無しさん [] 2024/10/17(木) 22:41:14.93 ID:0(632/639) AAS
宗教化すること
635
(1): 考える名無しさん [sage] 2024/10/18(金) 08:18:12.61 ID:0(633/639) AAS
黒人や日本人に哲学は無理
636: 考える名無しさん [] 2024/10/18(金) 16:06:02.92 ID:0(634/639) AAS
どうせ規制解除のみせかけだけで、また規制中だろう。
637: 考える名無しさん [] 2024/10/18(金) 16:06:20.48 ID:0(635/639) AAS
「し・ろ(白)」とは、「視(⇔「示・見」)認/之認/是認されるように(≒"evidently/affirmatively/certainly")とほ(通/透)り『ぬ』ける(≒"coming through/clear")感覚」を伝へようとする表現である。

「はか」(「『のちのしるし』としてそこにあるもの」としての「ふること」/"the past"))という「しるし(標)」/"insignia"/"enseigne"が
「し(知/領)ろしめす」("enseigner")「しる(著)き」("significant/remarkable") 「た・しか(確)さ」/"affirmation"/"firmeza"とされるのが、
「しか(然)るべき」ことである。

万葉集 第8巻 1577番
秋野之 草花我末乎 押靡而 来之久毛知久 相流君可聞
あきののの をばながうれを おしなべて こしくもしるく あへるきみかも

おく(奥)・つ・き(城)(/しろ)

しろ→しる(記)す→しるし(標)により知ろしめす→firmare(署名する)→confirmare(ひとつにまとまるようにしる(記)す⇔た・しか(確)・なものにする)
"X confirms Y"⇔「XによりYがた・しか(確)・められる」

to sign(署名する)⇔to consign(引き渡す、委ねる、託す)→「わ・たく(託)し」≒"minor consignment"
638: 考える名無しさん [] 2024/10/18(金) 16:32:16.79 ID:0(636/639) AAS
>「しかすが」⇔「可以是可以」⇔「(〜ではあるが)しかし」

>お・しら・さま⇔よ(依)り・しろ(代/白)としてのはか(墓)/や・しろ(社)や・し(敷/領)きのかみ(神)⇔pass⇔passing(パカ・パカ)⇔past(「『のちのしるし』としてそこにあるもの」)
過去("the past")は、いまここに「し(「是」≒"affirmative")・か(「可」≒"whether/or")」ない("nothing")
いまここにしかない過去の(八重なる)重層性を知ろうとしない者こそが「あさ・はか」なのだ。
>fermer
Français
Étymologie
Du latin firmare (« affermir, solidifier », d’où « fortifier »),
le glissement de sens vers celui de « clore » a pu se faire dès le bas latin d’autant que son dérivé, confirmare,
est en relation sémantique avec sera, vectis portarum (« les barres, les verrous des portes »).
En latin médiéval, on note : archa firmata (« coffre fermé »). Fermer et clore ont coexisté jusqu’à ce que ce dernier entre,
par certaines de ses formes, en collision homonymique avec clouer et se réduise progressivement à certains emplois techniques.

>fermare
Italian
Etymology
From Latin firmāre. Doublet of firmare
1. to stop
2. to arrest
3. to hold, stay
4. to shut down
639: 考える名無しさん [] 2024/10/29(火) 15:12:19.44 ID:0(637/639) AAS
>>635
東洋哲学の方が合ってる
640: 考える名無しさん [sage] 2025/01/23(木) 00:07:24.93 ID:0(638/639) AAS
懸念を懸念する
641: 考える名無しさん [sage] 2025/02/02(日) 17:10:49.17 ID:0(639/639) AAS
◉今まで長きにわたって「神の有る・無し」について議論がされてきましたが「明確な証拠」による結論が出ました。
この世において「神。それも全知全能で愛のみの神」が存在するという事ほど「神秘的な奇跡」はないと思います。
そして、この事実を知ることができた人は今後の人生を最高の安心、恵まれ・豊かさ意識で生きていけると思います。

このまま私はアドレスのみ置いて立ち去りますが興味のある人は参考にされて、人生が根本・決定的レベルで楽になられて下さい。 

人生において『神や転生(魂の不死)、因果法則の存在』などを証拠・確信をもって知っておくと(我々が潜在的に神様から保証されている膨大的な恵み・永遠の命にも気付けて)心に余裕が持ちやすくなり、自分の将来・運命に対してもプラスとなる生き方がしやすくなり、逆に知らなければ人生の長きにわたって遠回り・大損になると思うので、ここに一つの「真理の検証・証拠HP」を残しておきたいと思います。

当サイトでは、共に世界的ベストセラーである神の言葉『神との対話シリーズ』と、その神の言葉の裏付け・証拠となる体験本『喜びから人生を生きる!』という本を関連付けて紹介していますが、
ご自分で直接に本を読んで頂くのみでも『本当に誰にも救いがある事』、『神や転生の存在』に確信を持って頂けると思います。

https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome
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