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337: 132人目の素数さん [] 2025/07/27(日) 07:30:06.13 ID:6EVaf5Z4(1/2) AAS
今日の読売新聞編集手帳
”大阪万博にリトアニアなどが出展したバルト館が、入り口に飾っていた万博キャラ・ミャクミャクのぬいぐるみの盗難に遭った。被害を公表したところ、来場者が次々にぬいぐるみなどのグッズを贈り、200体に上った
「日本でこんなことが起きてごめんなさい」とスタッフに謝る女性がいたり、折り紙でミャクミャクを作ってくれた子供もいたりした”
という
昔、と言っても十年以上前の話だが、NHKラジオで 東欧のコソボ紛争だったかで
海外で活動した日本人の話で 日本人だと名乗ると
現地の人で「日本では自販機がいたるところに置いてあって、夜間でも盗まれないから日本人は信用できる」
と言ってくれた人がいたそうな
それで、みんな 自分のいうことを信用してくれた という
(参考)
https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20250727-OYT8T50001/
7月27日 編集手帳
2025/07/27 読売新聞[読者会員限定]
バルト海沿岸の国リトアニアは養蜂業が盛んで、蜂蜜を大好きな人が多いという。母国語で「蜂を飼う人」を表した単語は「友だち」の意に転じ、古くから蜂蜜を贈りあう風習がある
◆大阪万博にリトアニアなどが出展したバルト館が、入り口に飾っていた万博キャラ・ミャクミャクのぬいぐるみの盗難に遭った。被害を公表したところ、来場者が次々にぬいぐるみなどのグッズを贈り、200体に上った
◆「日本でこんなことが起きてごめんなさい」とスタッフに謝る女性がいたり、折り紙でミャクミャクを作ってくれた子供もいたりした
◆駐日リトアニア大使のジーカスさんは「良くない出来事が一転してすばらしいものになった」と本紙に話した。国際交流というと、先の参院選では穏やかでない言説が聞かれた。国内に住む外国人が増えたことで 軋轢 あつれき がのぞく中、災い転じて福となすような交流に胸をなで下ろす
◆バルト館は後日、万博に行けない病気の子供たちのために、寄付されたグッズを大阪の病院に贈った。いろいろな花から採られた蜜を「百花蜜」と言う。花畑の上を友だちが飛び交っている気がする。
338: 132人目の素数さん [] 2025/07/27(日) 07:45:37.40 ID:6EVaf5Z4(2/2) AAS
今日の 読売日曜版は、佐原(千葉県香取市)の話
佐原といえば、伊能 忠敬
佐原の 伊能家を 昔見に行きました。随分前ですが
(参考)
https://www.yomiuri.co.jp/stream/1/25737/
読売新聞 2025年7月27日
日曜版 新着動画
旅を旅して 新浜レオン歌「佐原の町並み」 佐原(千葉県香取市)
古今の紀行文、詩歌などの舞台となった名所や、小説、映画、歌謡曲の主人公たちが訪れた土地を訪れます。今回の「旅を旅して」は長戸大幸作詞・作曲、新浜レオン歌「佐原の町並み」(2020年)から、「あなたと肩寄せ 歩いた小野川あたり レンガ色が 今日も夕陽(ゆうひ)に染まる」、千葉県香取市の佐原(さわら)を訪ねます=東京本社写真部 横山就平撮影
特集 旅を旅して動画 旅を旅して名言巡礼(アーカイブ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC
伊能 忠敬(いのう ただたか[注釈 1]、延享2年1月11日〈1745年2月11日〉- 文化15年4月13日〈1818年5月17日〉)は、江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家
寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量、73歳で死去[2][3]。その後は弟子たちが遺志を受け継いで『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
1883年(明治16年)、贈正四位。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d7/Ino_Tadataka_%28cropped%29.jpg/500px-Ino_Tadataka_%28cropped%29.jpg
佐原時代
当時の佐原と伊能家 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/72/Inou-tadataka-house%2Ckatori-city%2Cjapan.JPG/500px-Inou-tadataka-house%2Ckatori-city%2Cjapan.JPG
忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村であった。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交った。このような佐原の土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている[21]。
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