[過去ログ] 【イスラエル】聖書の記述は信用できるのか?「失われたアーク〈聖櫃〉」を求めて─2回目の「契約の箱」発掘調査 [12/05] (339レス)
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(1): 2019/12/11(水)13:38 ID:pNVSRwk4(1/3) AAS
カナンは「エジプト脱出」が行われたとされる紀元前13世紀には、なお全能のファラオの
支配下にあった。したがって、モーセは解放された奴隷をエジプトからエジプトへと導いた
ことになる。聖書の記述によると、彼は60万人の戦士と300万近い人間を40年間も
砂漠の中を引き連れた。これほどの規模の人口が居住地を離れ、これほど長い期間、砂漠を
さまようのはまったく不可能だという事実のほかに、こうした出来事があれば、何らかの
碑銘学的ないし考古学的な痕跡を残したにちがいない。エジプト王国では、個々の出来事を
きわめて正確に記録に残す習慣があって、帝国の政治・軍事活動について数多くの文書を
われわれは現に手にしている。王国の土地に遊牧民の羊飼い集団が侵入したことまで知ら
れている。問題は、そこに住んで、反乱を起こしたであろう、あるいはいつかの時期に
そこから脱出したであろう「イスラエルの子ら」に関する典拠や暗示が一つも見出されて
いないということだ。  
40年間砂漠をさまよった後、「イスラエルの民」はカナンの地に到着し、カナンを
電撃的に征服した。神の命令に従ってカナンの民のほとんどを絶滅させ、
征服後、モーセの指導のもとに統一された人々はいっくつかの部族
に分かれ全部族で征服した土地を分かち合った。
幸いなことに、史上最初のジェノサイドの一つとして「ヨシュア記」に生き生きと
報告されたこの凶暴な植民化は、決して起こらなかった。
有名なカナン征服は、実は、新考古学によって完全に否定された神話のひとつ
だった。

「ユダヤ人の起源」 シュロモー・サンド 著
 高橋武智 監訳  佐々木康之・木村高子 訳
199: 2019/12/11(水)15:26 ID:pNVSRwk4(2/3) AAS
 >>198

BC1200年頃に「海の民」と呼ばれている武装集団が小アジアから地中海東岸、
 さらにはエジプト沿岸部にまで押し寄せたことは歴史的事実なんだよ。
 エジプトの文献にも書かれているし、その時代のシリア、カナン地方に略奪、破壊の
 痕跡がハッキリと残っている。
 もし、ユダヤ人が海の民の侵入以前にイスラエルに定住していたのなら聖書にその
 記述があるはずだし、海の民の侵入以後に定住したのであれば、聖書の記述とは
 年代が合致しないことになる。
 おそらくユダヤ人というのは砂漠地帯で放牧をしていた民族が海の民の破壊活動に
 よって権力の空白ができたイスラエルに侵入して定住したのが歴史的事実だろう。
202
(1): 2019/12/11(水)15:37 ID:pNVSRwk4(3/3) AAS
周囲のどの発掘現場からも、ダビデとソロモンの時代とされる紀元前10世紀に、強力な王国
が存在した名残を見つけることはできなかった。記念碑的な建造物のいかなる証拠も、
城壁も、壮麗な宮殿も見つからなかったし、土器も驚くほど少ししか出土せず、出土した
ものもひどく貧弱な様式だった。
実際のところ、聖書がソロモンのことをバビロンやペルシアの強大な王にもほ
とんど比肩するとの言葉を使ってその豊かさを語っていた、この伝説的な王の存在を
証明するいかなる遺跡も発見されていないのだ。
ここから次のような厄介な結論がどうしても出てきてしまう。
紀元前10世紀のユダに政治的実体が存在したとしても、それは部族的なミクロ国家でしか
ありえなかった。また、エルサレムも小さな砦のような町以上のものではなかった。
この地方の一角にダビデ家と呼ばれる王朝が存在したかもしれないが、このユダ王国は、
おそらくはそれ以前に出現した北部のイスラエル王国よりずっと小さいものだった。

「ユダヤ人の起源」 シュロモー・サンド 著
 高橋武智 監訳  佐々木康之・木村高子 訳
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