[過去ログ] MARCHで無双の明治大学。ついに上智も射程内に! [無断転載禁止]©2ch.net (517レス)
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26: 2016/05/30(月)20:48 ID:A7i7y4oV(1/6) AAS
天下の早慶戦開始さる

早慶戦は明治36年12月20日に始まり、明治39年11月5日に中止されている。その間9試合を行い、
早稲田5勝、慶応4勝となっている。この間明治38年3月27日に行われた早稲田のアメリカ遠征を
祝った壮行試合に早稲田が破れているが、当時の先輩達は、これを対抗試合に入れたがらない。
そうなると、早稲田5勝3敗となるわけであるが、昔の人はなかなか負け惜しみが強かったようである。

このように草創時代の早慶戦では、早稲田が勝ち越していることになるので、
早慶戦復活後、早稲田が負けるようなことがあると、その当時の先輩達は
「君達は、だらしがないぞ。われわれは最後には必ず勝っている。大いに頑張れ。
全ては気力だぞ」などと、自慢めいた御説教を度々聞かされたものである。

早慶戦が正式に定期的に行われるようになったのは、明治38年早稲田が
アメリカ遠征から帰国した秋のことで、それまでは任意試合だった。

従って、早慶戦と銘打って大騒ぎを始めだしたのは、この時からであるといえる。

早慶戦が中止されたのは、明治39年秋のことであるが、その原因が
両校応援団の極度の興奮にあったことは、余りにも有名な話である。

第1回戦は早稲田の本拠戸塚球場(現安部球場)にて行われたのであるが、2対1にて早稲田の負け。
勝ちに歓喜した慶応方応援団は、早稲田の創始者大隈伯邸門前にて万歳を高唱して三田に悠々と
引き上げて行った。この有様をまざまざと見せつけられた早稲田方応援団が、ジット我慢していよう
筈はなく、翌2回戦では是が非でも勝たさねばならないものと、猛烈極まる応援を展開。その甲斐あってか、
早稲田は3対0にて復仇なる。勝利をものにした早稲田応援団は昨日のうさ晴らしはこの時ぞとばかり、
三田通りを4列縦隊にて万歳を高唱しつつ、早稲田の根城、戸塚村に勇ましく凱旋。

その時の応援団は、早大生600、早中、早実生500、青山学院生等で形成されていたのであるが、
早中・早実生の参加は当然視されてもよいが、青山学院生の参加は、今考えると意外である。
27: 2016/05/30(月)20:49 ID:A7i7y4oV(2/6) AAS
このように、両校応援団は極度に熱狂、もしこのままの情勢にて決勝戦を行うとすれば、必ず、
不祥事が勃発するであろうことが予想されたので、中止をよぎなくしなければならなかった。

この中止の経緯はと云うと、先ず慶応側から、青木徹二教授が早稲田に来り高田学長・安部教授に会見、
次いで、鎌田塾長が大隈伯、安部部長を訪問、両大学応援団の喧騒を理由に一時中止すべきであることを
力説。事ここに至れば已むなしとして、早稲田側も同意、遂に中止することとなった。

しかし早稲田側では、この中止は一時的のものであって、ほとぼりが醒めれば、また再開するもの位に
解釈して同意したのであるが、慶応側には、再び戦う意志の全然ないことが察知されたので、
当時の主将だった押川清が、慶応主将桜井弥一郎を訪問、その中止が日本野球界の不祥事で
あることを極論し、なお、応援不穏とあらば、早稲田は1人の応援もなしで戦う、それでも不安ならば、
場所を関西に選んでも差し支えなしと、誠意を以って翻意を勧説したのであるが、その赤誠も
遂に通ずるところとならず中止状態に入ったわけである。

その後も再々、早稲田側より復活の交渉を持ち込んだのであるが、その都度拒否されていたので、
遂に明治44年12月、早稲田は、慶応に対して、今後同塾選手と同一グラウンドに立たざる旨の
絶縁状を発し、同時にこれを諸新聞並びに諸雑誌に公表。

これにて、全く、早慶戦復活の望みは絶たれたのである。

これ以来早稲田は慶応との試合は勿論、慶応と同席にての試合をもこばみ、
なお、慶応が招聘したチームとの試合さえも拒否した程である。

明治45年慶応の招聘にてマニラ陸軍野球団が来日したことがあるが、この時早稲田は
慶応に絶縁状を発している手前、この場合は傍観していなければならなかった。

しかし、日本運動協会なるものの斡旋にて、慶応の試合が終了したる後、
改めて同協会の主催にて試合を行っている。誠に当時の気質が表れていて面白い。

(森茂雄、宮武三郎、天知俊一、苅田久徳、好村三郎、神田順治 『六大学野球部物語』 ベースボール・マガジン社、1956年)
28: 2016/05/30(月)20:50 ID:A7i7y4oV(3/6) AAS
第三勢力・明治の抬頭

絶縁状はたたきつけてみたものの、しかし慶応のような好敵手を失ったことは、たいへんな損失である。

「まあ、いいや。そのうち、どこか別なチームが現れるであろう。
それが強くなってくれば、自然慶応の空白をうめてくれて、
相手は三田勢でなくても、よくなる日がくる」

こう考えるのが唯一のなぐさめであった。ちょうどこの期を待ちうけていたように
明治大学が野球部をつくったのである。

「学生募集、学校繁栄政策に利用するつもりなら、一足おそい」

と冷眼視する向きもあった。しかしそんな世の思惑などには頓着せず、
国文学者内海月杖を部長として、明治43年から正式に
チーム結成を発表し、慶応にコーチをたのんだ。

明治は、それまで、どちらかというと、慶応より、早稲田に近い校風をもつ。
それがくるりと都の西北に背を向けて、城南健児の胸をかりたのだから、
早稲田としたら器量をさげた形だった。しかし誰もこれを異としないほど、
早稲田の劣勢は天下の目に覆えぬことだった。
29: 2016/05/30(月)20:50 ID:A7i7y4oV(4/6) AAS
明治の力量は、しばらく明らかでなかったが、マニラ遠征を試みて、滞在もながく、
かつ相当な成績をおさめたと世に伝わり、やがてその実力を広く披露する機会がきた。
帰朝すると、第一戦を早稲田にいどんで来たので、「天下の敵をこばまざる」という
応援歌の手前からもよろこんで受けた。というより、こうなる日を待望していたのだ。

戸塚グラウンドに雄姿をあらわした明治の選手は、さすがに慶応仕込みだけあり、
どこやら垢ぬけていて、その上、フィリピンに滞在して、その頃はあちらの方が
野球は日本よりすすんでいたので、そこでアメリカ流のみがきを掛けてもどってきた彼らの、
フィールディングの華麗で巧妙なのには、先輩のつもりでいる早稲田方も、あッといって驚いた。

「いつの間にやらひどく腕を上げよったわい」と要心した早稲田は、試合がはじまるとやっぱり一日の長があって、
楽勝したものの、マニラ遠征前に一、二度の手合わせはした時にくらべると、まるで迫力がちがった。

その後もたびたび挑戦をうけ、五度に一度、十度に三度はまける。それが後進明治のはげみになった。
そこへゆくと慶応は、伝統の勝負にこだわる上に、自分のコーチした弟子分にはまけられないという
気負いがあって、何のかのと難くせをつけては、どうしても勝をゆずらぬ。そこで明治はだんだんに
より多く早稲田に接近してくることになって、ことに明の主将高瀬と、早の主将大村とは、
兄弟よりも親しいのが、球界の話題となった。

(木村毅 『都の西北 ― 早慶野球戦史を中心に』 ベースボール・マガジン社 1978年)
30: 2016/05/30(月)20:51 ID:A7i7y4oV(5/6) AAS
早慶戦ようやく復活

大正3年、明治大学野球部の主唱により、早慶明三大学にてリーグ戦を編成、入場料を
徴収して試合を行うことになった。しかしこれを機会に慶応への絶縁状は取消しはしたものの、
依然、早慶は相戦わず、大正6年法政大学が参加し四大学リーグ戦と銘を打っても、
また、大正11年立教が、次いで大正14年春東大がそれぞれ参加して現在のように
六大学となっても、未だに戦わず、全く変形的なリーグ戦が行われていたのである。

東大参加して、六大学となった時分より大学野球は世間より多大の関心を持たれるようになり、
現在の変形的なリーグの存在は遺憾であるとして、かねて、両校斡旋の労を取りつつあった、
明治大学野球部長内海弘蔵先生、法政大学野球部監督武満国雄氏の発起にて、早稲田側
飛田忠順氏、慶応側桐原真二主将の諸氏と相会し、種々協議した結果、9月16日慶応側は
「幹事校その他の尽力を多とし、早慶戦をこの秋から復活しようということに漸く先輩の意見も
一致した。けれども早慶戦はリーグ組織以前中止されたのであるから、リーグに関係なく復活したい」
と単独復活を持ち出したので、またまた紛糾、しかし内海、武満両氏の努力により、リーグ戦の中に
加わることで円満解決、大正14年秋、絶えて久しき早慶戦が20年振りに復活することになった。

復活第1試合当日、安部先生は二塁上に立ち、先ず外野方面の観衆に対し、「早慶野球試合
復活の歓喜を共にする」の喜びを述べ、「拍手以外のあらゆる弥次的行為を禁ずる」旨を述べ、
更にホームスタンド側に向って「試合後に於いてもなお秩序を保ち、応援歌あるいは校歌の
合唱を遠慮し、あくまで静粛に選手と共に堂々たる態度を示して、この野球試合をして
真に天下の範たらしむることに努力されたい」と結んだ。
31: 2016/05/30(月)20:51 ID:A7i7y4oV(6/6) AAS
そもそも早慶戦中止の最大原因が、応援団の超熱狂にあったことを思えば、
安部先生の挨拶も当然のことと云わねばならないが、既に、熱狂的雰囲気に
つつまれつつあった第1試合当初に於いて、このような挨拶をなされた先生の態度には
今更ながら頭を下げざるを得ない。この先生の先手が観衆を感動せしめ、
懸念した悶着も起こらず、復活に相相応しい試合状況を保ちつつ
無事終了したことは誠にめでたい。

彼我の技量余りにも開きおり、早稲田方は大差にて2連勝をなし、幸先よきスタートを
飾ったのである。勿論六大学リーグ戦最初の優勝をもなし遂げたわけである。

それ以来、毎年春秋には、一方が海外遠征してリーグ戦に参加しなかった以外は、
常に戦い、天下のファンを二分するとさえ云われる程に人気を集め、
世界三大対抗試合の一つに数えられる迄に発展して来た。

(森茂雄、宮武三郎、天知俊一、苅田久徳、好村三郎、神田順治 『六大学野球部物語』 ベースボール・マガジン社、1956年)
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