石田穣「担保物権法」が出たぞ (259レス)
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(1): 法の下の名無し [sage] 2015/04/29(水)12:58 ID:Nbr+Oh+l(1/4)
「星野英一先生の想い出」(有斐閣)に加藤雅信氏が石田先生について触れていると、
どなたかの書き込みが上の方でありましたが、地元の大規模書店に在庫がなくて
確認できずにいたところ、この度ようやく読めました。

雅信先生が加藤一郎の元で大学に残ることに星野先生が消極的で、
司法研修所にいこうかと思っていたところ、
1年先輩の石田先生が雅信先生を厚く擁護してくださったことで大学に残れたが、
そのことが星野先生の心情悪化につながりその後の石田先生の境遇の遠因に
なったのではないか云々とのことでした。

面白かった点

その1

星野先生が雅信氏に批判的だった理由として、夜、雅信氏に電話しても飲みにいったらしく
いつも留守だから、というのがあり、今では笑える話ですが、実は当時の謹厳実直な
星野先生には真剣な話だったかもしれない。
最近「モラハラ」が言われているが、まさに昭和の話。
209: 法の下の名無し [sage] 2015/04/29(水)13:02 ID:Nbr+Oh+l(2/4)
その2

雅信氏に批判的な理由として、雅信氏が法社会学に入れ込んでいた事。

星野先生が川島先生をどう見てたのかはよくわかりませんが、
広中先生とは「法解釈学方法論」で論争してましたね。

法解釈の客観性について、歴史の発展方向というという基準の広中先生を批判をしたり
(星野「民法論集」第1巻・広中「民法論集」(東大出版会)で応酬)、
星野先生の若い頃の研究室の述懐で「当時はマックスウェ-バ−が盛んに読まれていた」
というのもありましたが、あれは批判的な文脈だったのかな。

この価値判断基準論は、マルクス主義系の歴史の発展法則基準と
リベラルな護憲派の憲法基準論の争いだったのではないか。

例えば70年ごろの「刑法改正」で平野龍一(内藤謙かな?)が
対抗理論で個人的法益しかも生命身体からスタ−トの優先順位を出張し、
憲法の小林直樹が人権論で個人尊重・平等・精神的自由・経済的自由の順位体系を示唆し、
のちの星野・論集では小林直樹との知的共有が感じられ、星野は人権体系を基準論としたが、
20年後に平井宜雄により価値基準の公定は自由な法解釈を阻害すると批判されることとなった。

戦後啓蒙法学はマルクス主義に大きく傾きながらも自由の価値を擁護したが、
近時は精神的自由よりも経済的自由が重宝され、戦後啓蒙はもはやモラハラと紙一重みたいな感じだ。
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(1): 法の下の名無し [sage] 2015/04/29(水)13:11 ID:Nbr+Oh+l(3/4)
まあそれはともかく、昔、星野・広中は仲が悪いと思いきや、
その後の「民法典の百年」では共同編集してましたね。

で、川島-渡辺洋三-広中そのほか大勢の法社会学系諸先生方と少数派星野の対抗ライン、
そして石田先生も川島門下でエ−ルリッヒが助手論文だから、
石田先生への批判的な視点もここでつながるのかな?

いやいや、社会的機能重視の我妻・川島ラインに対して、
立法者意思重視の点で星野・石田は共通線なんだな。
星野・民法論集第4巻あたりでは、石田先生に好意的であるし。

星野先生がよく言われたのが、学問は積み重ねだから先学の業績を
きちんと踏まえなさいという点であった。
そして1982年の石田契約法では、先行業績などの文献情報が網羅されるようになり
(団藤綱要スタイル)、以後石田先生のスタイルとして継続されていくのであるが、
星野先生のイメ−ジと少々違ったのだろうか。

おそらく星野スタイルは、70年代後半以降の、瀬川附合法・内田用益権・
吉田邦彦債権侵害・滝川物権変動・大村消費者法のイメ−ジでしょうが、
それに従わないから教授駄目というのは・・まさかありえない変な話だ。

私の個人的意見では、やはり立証責任論争とその後の顛末も含めて
倉田卓司が怒りまくって、仲の良かった三ケ月章も一諸になって怒り、
その点で星野先生が三ケ月に配慮したのではないだろうか。
その配慮がズルズル長引くにつれ、変にもつれていった。

でも80年代は師匠の川島がまだ存命中だから、川島が間に入るのが
穏当な日本式紛争解決だろうに、それを批判する学問的立場と矛盾するから
介入しなかったのかな。
211: 法の下の名無し [sage] 2015/04/29(水)13:57 ID:Nbr+Oh+l(4/4)
 誤  滝川物権変動

 正  滝沢物権変動
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