なぜ日蓮正宗は学会や顕正会の本尊を偽物呼ばわりするの? (290レス)
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2(1): 02/01(土)01:08 ID:RQdWIi7u(1/6) AAS
● 戒壇の大本尊は、後世の偽作本尊
・弘安2年造立説の戒壇本尊は、日蓮や日興の遺文に全く言及がない。
・日興の『三時弘経次第』や『原殿御返事』にも戒壇本尊への言及がない。
つまり身延を離山するに際して日興は戒壇本尊について全く言及していない。
・大石寺4世日道の『三師御伝土代』の弘安2年の項に戒壇本尊の言及は存在しない。
・大石寺3祖日目の『申状』他、日目の遺文にも戒壇本尊の言及はない。
・日興書写本尊に戒壇本尊と同じ相貌をしたものは一体も存在しない。
・『伯耆殿御返事』によれば、弘安2年10月12日に日興は日蓮のところにはいなかった。
また同抄は弘安2年10月12日の日付で日興に送付されたものなのに、戒壇本尊のことが全く言及されていない。
・北山本門寺6世日浄の『日浄記』によれば、
大石寺9世日有が「未聞未見の板本尊」を彫刻偽作したことが記録されている。
・大石寺9世日有の『新池抄聞書』で、歴史上初めて日有によって大石寺に本尊堂があること、
大石寺の本尊堂が「事の戒壇」であることが示される。
・戒壇本尊という呼称は大石寺14世日主まで大石寺では全く用いられない。
日主の代になり、初めて「本門戒壇御本尊」という言葉が用いられる。
・細井日達の発言によれば戒壇本尊は身延の本堂に安置されていたとするが、
本堂にあるなら誰もが見ていた筈なのに、六老僧他当時の弟子たちの文献に戒壇本尊は全く出てこない。
・戒壇本尊が他山の文献に出てくるのは保田妙本寺日我など、室町時代後期以降のことである。
3: 02/01(土)01:09 ID:RQdWIi7u(2/6) AAS
・大石寺4世日道の『三師御伝土代』の「日興」伝の最後の「図し給う御本尊」の讃文は
「仏滅後二千二百三十余年」と書かれており、戒壇本尊の「仏滅後二千二百二十余年」と相違している。
・大石寺ではなぜか10月12日に記念の行事は行われない。
したがって大石寺は「10月12日」を公式に記念日と定めてはいない。
・大石寺48世日量によれば日法は戒壇本尊彫刻の功績から阿闍梨号を賜ったとされるが、
日興の弘安5年の『宗祖御遷化次第』で日法は「和泉公」と記され、阿闍梨号で書かれていない。
・戒壇本尊は半丸太形で台座に嵌めて置く形状をしているにも関わらず、
『日興跡条条事』では弘安2年の本尊について「相伝之可奉懸本門寺」と書かれており、「懸け奉るべき」としている。
・日蓮は重要な遺文や本尊には必ず「干支」を記したが、戒壇本尊に「干支」は全く書かれていない。
4: 02/01(土)01:26 ID:RQdWIi7u(3/6) AAS
・「戒壇の大本尊」の脇書「本門戒壇之願主」とは、「戒壇の大本尊の在所が本門(事の)戒壇」であるから、
「本門戒壇之願主」とは「本門戒壇の大本尊」の願主という意味である。
つまり「本門戒壇之願主」の底辺には「戒壇の大本尊の在所が本門(事の)戒壇」という教義がある。
しかしこの教義は、日蓮の教説の中に全くない教義である。
日蓮だけでなく日興から大石寺8世日影までの間、どこにもこんな教義は説かれていない。
百六箇抄、一期弘法抄、三大秘法抄は偽書である。
「戒壇の大本尊の在所が本門(事の)戒壇」という教義が初出するのは、大石寺9世日有の代である。
5: 02/01(土)01:27 ID:RQdWIi7u(4/6) AAS
・「弥四郎国重」なる名前の信者は、日蓮門下には全く一人もいない。
日蓮の信者には、四条金吾、富木常忍、南条時光、波木井実長など、後代に名を留める信者が多数いるが、
本門戒壇之願主であれば、四条金吾、富木常忍以上に名を留めるはずだが、そんな信者はいない。
「日蓮大聖人正伝」には「己心の弥四郎国重」とあるが、個人授与の本尊を含めて、
架空の人物が願主になった曼荼羅本尊は一体もない。
なぜ実在の信徒ではなく、架空の人物が願主になつているのかというと、実在の信徒が願主になると、
史実との相違があきらかになり、戒壇の大本尊の偽作がバレるからである。
大石寺法主によって弥四郎国重の伝承がバラバラであることも、戒壇の大本尊偽作の証拠になる。
大石寺17世日精は、弥四郎国重は波木井実長の嫡子と言うが、そんな人物はいない。
大石寺59世堀日亨は弥四郎国重のことは、よくわからないと言っている。
大石寺66世細井日達は、熱原法難の神四郎のことだと言っている。本門戒壇之願主は、信徒ではなく、
六老僧などの上席の僧侶になるはずである。
1288年、日蓮七回忌に彫刻された日蓮木像の願主は、六老僧・日持と中老・日浄である。
1972年に落慶した正本堂の願主は大石寺66世細井日達法主であり、池田大作氏は発願主である。
日蓮正宗は弥四郎国重があくまでも、架空の人物だと言うのなら、
なぜ正本堂、奉安堂の願主を、架空の人物にしなかったのか。
正本堂は「戒壇の大本尊安置の処だから事の戒壇」と言いながら、本門戒壇之願主が架空の人物で、
正本堂の願主が大石寺法主になっているのは、大矛盾である。安永弁哲氏「板本尊偽作論」に出てくる、
弥四郎国重・妙海寺曼荼羅本尊裏書きパクリ説は説得力に薄く、誤りである。
6(1): 02/01(土)01:32 ID:RQdWIi7u(5/6) AAS
・日蓮在世当時、「法華講」はなかった。日蓮遺文のどこにも法華講という名前が出てきていない。
信徒講授与本尊の初出は、1403年4月、大石寺6世日時が小泉講に授与した本尊。
法華講授与本尊の初出は、1404年6月の奥州柳目法華講衆授与の本尊である。
「法華講衆」という単語の初出は、1323年6月22日の日興遺文「佐渡国法華講衆御返事」であるが、
日興の筆が「さどの国法華かうしう」となっており、これが本当に法華講衆を意味するものかどうかは、判然としない。
仮にこれが「法華講衆」だったとしても、法華講の初出は日蓮没後40年以上後のことになる。
・日蓮は図顕曼荼羅本尊の日付、重要遺文の日付には必ず干支を入れており、
干支がない「戒壇の大本尊」の日付は、日蓮の筆ではない。
「弘安二年十月十二日」は、「弘安二年太歳己卯十月十二日」となっていなければならない。
よって「戒壇の大本尊」の脇書には、「戒壇の大本尊」が偽作である馬脚が出ているのである。
10: 02/01(土)05:08 ID:RQdWIi7u(6/6) AAS
>>8
>そもそも記録にない=偽というのは、根拠にならない
>戦国時代の動乱の中で焼失してしまったのかもしれないからだ
そんなことは言っていない
勿論、偽書は、日蓮真筆なし、上古写本(日蓮ならその直弟子、孫弟子、ひ孫弟子約100年)なし
は、当然であるが、それが無くとも真筆といわれている書もある
偽書の条件は、真筆なし、上古写本なしは、必須条件の一つであってそれだけではない。
偽書にはそれ以外の偽書たる根拠がいくつもある。
戒壇の大本尊が偽作である理由も上記に記したとおり、日蓮真筆なし、上古写本なしではない。
あんたが真筆だと言い張るなら、その根拠をいわなければならない。
焼失したというならその証拠ぐらいだすべきだろう。
この手の真筆信者は、真筆である根拠を何一つ示さない
バカの一つ覚えのように焼失した、紛失したと繰り返すだけ
このスレで言うなら上記>>2から>>6まで、戒壇の大本尊は、後世の偽作本尊を言った
では、戒壇の大本尊は、日蓮の造立である根拠を教えてもらおう
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