禪 (221レス)
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11: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/06(水)06:52 ID:vk/7+Uu1(1/8) AAS
自己のないことがはっきりすることを「見性」という。
しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。
「悟り」が邪魔をするからだ。
「見性」の力で「見性」を破らねばダメだ。
自分を抜きにして、その時のみであればよい。
何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。
ただ今のみの世界である。
その場でちらっと出るものを問題にしないことだ。
たえず「単」であればよい。
私を挟まないで「単」であれ。
箸を上げて口に運ぶ時も、いつも「単」であれ。
いつもその場その場、「単」であれ。
どうあろうとも、その物と離れなくなる。
そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。
自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。
自己も死もとれて本当に楽になっていく。
12: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/06(水)15:17 ID:vk/7+Uu1(2/8) AAS
坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。
「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。
それができないとモノにならない。
自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。
本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。
身と心が隔たっている限り不可能である。
心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。
この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。
隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。
13: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/06(水)15:21 ID:vk/7+Uu1(3/8) AAS
今、忽念と現れる心が問題なのだ。
瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。
これが心身の隔たりによって起こる事を先ず知ることだ。
従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、心身の隔てを取ることにある。
如何にして取るか?
問題の焦点は「今・瞬間」に有る。
「今」に二つはない。
「今」その物になればよい。
「今」でない物はない。
従って、「今」だけ。
素直に「今」在ること。
「今」余念無く一心不乱にすること。
要するに我を忘れて成り切ることだ。
本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。
否、元よりこの心身本来なり。
これを仏という。
菩提心が無ければ皆ダメだ。
14: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/06(水)15:23 ID:vk/7+Uu1(4/8) AAS
「只」吐き、「只」吸うだけ。
一瞬一瞬を大切にして「只」やる。
どんな事も「只」やる。
呼吸の一瞬一瞬のみ。
呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。
その物と離れないでやれるようになる。
こうなれば大したものである。
ここまで来ねばいけない。
常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。
それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。
自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。
願心はあっても、やらなければ駄目である。
相手や環境である境に用はない。
とにかく願心である。
自分の好きな事に時を過ごしてはいけない。
その場その場のみであること。
自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。
初めはどうかしようとするが、それが要らない。
その場その場のみに任せておく。
その事のみに「心」を置いてする。
常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。
「只」やれる。
何事も淡々とできる。
「只」が純熟してくるから自然と全てと一つに成る。
本当に熟して徹する。
そうしないと大自覚が無い。
これが「悟り」の大事であり証明である。
ここで本当に納得する。
だから悟りを目指して「今」「只」やる。
無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。
どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。
無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。
菩提心、菩提心。
15: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/06(水)15:34 ID:vk/7+Uu1(5/8) AAS
「応無所住而生其心。」この語はみんな知っている大切なお釈迦様のお言葉である。
難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。
みんなの[本当の心]のこと。
これを自ら證するだけである。
「隔て」がとれると常住不変がわかる。
死んで生きてが無くなり、一杯一杯である。
「今」の正体を知ればよい。
もともと「今」だから「今」はいらなくなる。
これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。
「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。
つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。
これを全身の毛穴からも呼吸をしていると云う。
丸ごてと云う意味である。
体と思う念が無くなる。
体の念が有れば体にくくられる。
体の念が無ければ自ら気にならなくなる。
「応無所住而生其心」も、[心]の様子の事。
「今」「只」のこと。
これが浄穢不ニ、自他不ニとなって本当に安心する。
「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。
これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。
事はここから起こる。
[心]の衝突である。
これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。
これが無明よ。
比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。
本当に「只」を常に練っていれば良い。
そう努力していると自然に相手が気にならなくなる。
いやでも「隔て」がとれて一つに成る。
これを入我我入という。
世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。
私が無いと、天下は自分の姿に他ならない。
この境界が不動心である。
不動心は正法以外にない。
「今」「只」が正法である。
正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。
同時に二つのことは、考えれない。
一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。
一つ事に集中し切らなければ「隔て」はとれない。
菩提心の一点張りだ。
16: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/06(水)15:35 ID:vk/7+Uu1(6/8) AAS
「今」「只」に我は無い。
我れなければ、即菩提。
それを大清淨とも云う。
汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。
「今」は生死を論ずる間はない。
本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。
生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。
17: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/06(水)17:49 ID:vk/7+Uu1(7/8) AAS
悟れないのは只管に成らねばいけないという意識が働いて、只管が只管を邪魔しているからである。
途中は仕方がない。
それが目標だから。
本当に「只」になればよい。
只管も只も有ってはならない。
菩提心のもとに常に「単」を練ることである。
坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。
「只」は努力の結果である。
ここまで来ると本当に大平和である。
生死はただ「単」である。
生のまま、死のままである。
「今」の様子に過ぎない。
この真理を悟るのが坐禅修行の本当の目的である。
一隻眼を具するとは、自己のないことがはっきりすることである。
しかしそれだけでは何かが引っかかる。
はっきりしていても、引っかかるものがある。
まだ本当に取り尽くされていないからだ。
おおかたの悟ったというところはこの当たりだ。
悟後の修行の大事な所である。
決して油断してはならない。
自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。
本当に大悟したものは少ない。
簡単に言えば菩提心が弱いからだ。
それを捨てて単を練ることが足りないからだ。
境涯を得ても、そこが陶治されないといけない。
境涯を持っていては駄目である。
うたた悟れば、うたた捨てよ。
この大法を得ることは容易ではない。
菩提心の鈍い者は到底仏祖の誹りを免れぬ。
努力しかない。
菩提心が仏祖の命、仏法の血肉である。
18: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/06(水)18:08 ID:vk/7+Uu1(8/8) AAS
菩提心、菩提心。
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