ヴィーガン「苦痛を感じる生き物には権利がある!」 (410レス)
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19: 2021/12/17(金)00:24 ID:0JjyqEzy(1/2) AAS
「桜田門外の変」で食べ物の恨みは怖いと思う訳
井伊直弼と水戸藩の「牛肉」をめぐる深い因縁
直弼が藩主の座につくと、牛の屠畜を一切禁止してしまったのだ。直弼は、母親が側室で庶子であったことから、家督を継ぐことはないはずだった。若い頃から井伊家の菩提寺に入り、袈裟血脈を許された僧侶の資格を持っていた。
その後も「埋木舎(うもれぎのや)」と呼ばれた邸宅で、世捨て人のように暮らしていたが、兄の死により人生が一転する。それでも敬虔な仏教徒だったから、殺生を忌み嫌ったのだ。
そうすると、斉昭のもとに牛肉が届かなくなる。毎年、寒い時期になると彦根から届く牛肉の味噌漬けを楽しみにしていた斉昭。ところが、どうしたことか、その年はやって来ない。事情を知らない斉昭は、直弼に使いを出す。毎年楽しみにしていたのに、今年はやってこない。何卒お送りください、と。
すると直弼から、今年から領内の牛を殺すことを禁止いたしましたので、牛肉を差し上げられません、お断りいたします、との返事がくる
特別扱いを申し出た斉昭
それでも諦めきれない斉昭は、再び使いを出す。領内の牛を殺すことを禁じたのであれば、しかたがないが、これまで毎年食べていることで、特に江州の牛肉は格別だから、私のためだけにでも特別に手配していただきたくお頼みします、と。つまり、特別扱いを申し出たのだ。
これを直弼が承知するはずもなかった。なんと言われようと、領内の禁止事としたので、そんなことはできない旨を伝え、「たつて御断り申し上ぐる」と厳しく断っている。
このやりとりを記録した『水戸藩党争始末』の「老公と大老の不和」と題する項目の原書は、こう結んでいる。
かくのごとく、公よりたびたび御頼みありし事を、さらに承知せざりしかば、さすがに不快に思召されしとなむ
20(1): 2021/12/17(金)00:25 ID:0JjyqEzy(2/2) AAS
水戸の御老公と大老の不仲は牛肉から始まっていたのだ。
記録に残るくらいだから、好物を分けてくれない相手をなじるくらいのことはしただろう。上司の吐いた言葉が部下の耳に伝わり、言葉だけが広がっていくことは、どの時代にもある。私怨がいつしか大義と入り乱れ、相手への恨みが膨れていく。それが究極の事件となる――。
そんな事情もあって、斉昭に近い諸侯は直弼のことを「愛牛先生」と呼んだ。やはり直弼から処罰を受ける福井藩主の松平慶永(春嶽)が斉昭に送った書面にも、また、土佐藩主の山内豊信が慶永に送った書簡の中にも「愛牛」の文字を見ることができる。
それだけ諸侯の間には、彦根の牛肉事情は知れ渡っていた。
もっとも、大名の多くは直弼の牛への愛情をして、「佞佛(ねいぶつ)」と呼んでいた。「佞」とは、へつらう、おもねる、の意味。つまり、仏をおもねるあまり、道理を欠いた仏徒のことをさしている。牛の屠畜を禁じながら、安政の大獄で反対派の首を次々とはねていったのだから、そう呼びたくもなる。
斉昭にも劣らず、肉好きだったのは息子の慶喜も一緒だ。のちに慶喜が、江戸の街火消しだった新門辰五郎を、京に連れてきていたことは広く知られる。その辰五郎に2分ずつ渡して「今日も買ってきてくれ」と、牛肉を買いにやらせていた。生粋の江戸っ子の侠客が、寺社仏閣の建ち並ぶ京の都で、四つ足の肉を買い漁るのだから、京童部たちに嫌われていたのも無理はなかった。
一橋家に奉公するようになった渋沢栄一も、京都滞在中の月の手当が4両1分で、抱えた借金返済のために節約を心がけ、「朝夕の食事も汁の実や沢庵を自分で買出しにいって、時々竹の包みに牛肉などを買って来た、それが最上の奢りであった」と自伝『雨夜譚』に記している。栄一も牛肉をごちそうとして味わっていたことがわかる。
豚肉も大好きだった慶喜
ただ、慶喜は牛肉もさることながら豚肉も大好きだった。そのことは市中にも知れ渡っていたようで、ついた渾名が「豚一殿」。豚が好きな一橋のお殿様、という意味だ。当時、豚は薩摩藩の名産だった。統治していた琉球の文化の影響もあって、薩摩では古くから豚肉を食べた。西郷隆盛の好物も「とんこつ」という豚料理だったことで知られる。
もともとは、薩摩藩主だった島津斉彬が水戸の斉昭に豚を送っていた。そこからはじまる慶喜の豚好きが薩摩を困らせる。弱冠28歳の若さで薩摩藩の家老に就いた小松帯刀が、元治元年(1864年)に京の屋敷から郷里に送った手紙に、慶喜からたびたび豚を所望されて困っていることを、まさに愚痴のように書いている。
帯刀は自分が持っていた豚肉を3回も慶喜に送ったこと、それで手持ちがなくなったこと、それでも使いを寄こして催促してくることなどを書き連ね、「大名と申者不勘弁之者、大キに込入申候」と締めくくっている。大名とは、どうしてこう聞き分けのないわがままなのか、大いに困り入った、というわけだ。
肉をしつこくねだる姿は、父親の斉昭にそっくりだ。ひょっとしたら、この豚肉が由縁で倒幕につながるのかもしれない。
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