[過去ログ] 石田三成の挙兵 ★10 (1002レス)
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35: 05/12(日)00:53:35.81 ID:KbJaL1Kh(1) AAS
大谷吉治と三成の内衆千人を越前へ出兵させる件は(慶長4年)9月21日付島津忠恒宛島津義弘書状にある記述だな
「今度於大坂内府様天下之御仕置被仰定候ニ付、いかやうの子細候之哉、羽柴肥前守殿当時賀州へ在国候ヲ、無上洛様にと被仰下候、
自然強而於上洛者、越前表にて可被相留之由候て、刑少殿の養子大谷大学殿・石治少之内衆一千餘、越前へ被下置候事」
71(1): 05/16(木)23:33:36.81 ID:pFaGR1Cd(1) AAS
三成はじめ奉行が本当に忠臣というならば、自身の身を挺して家康と刺し違えるべきだったな
正面から渡り合って家康に勝てるわけがない
横綱と十両くらいの力、経験、器量の差がある
128: 05/28(火)02:50:35.81 ID:2MtX8F+Y(1/4) AAS
>>127
むしろあのくどさが本物だと示してるんじゃないか?
三成の性格そのものが書状に出ていると言えるし
225: 06/06(木)18:40:11.81 ID:s8QOAhNr(1/2) AAS
東軍に出来たから西軍に出来るって話しにもならない。攻城戦ってのは城と兵力と士気全てが関わるからな
伏見城みたく歴戦の猛者が死兵になって戦って長引いた戦もあるし高遠城みたくあっけなく1日で落ちるということもある。そもそも岐阜城は籠城には向かないので兵がいくら居ても無駄だったろうしね
268: 06/11(火)09:40:02.81 ID:/UqqhHpG(1) AAS
秀家はそれなりの戦経験があるからどこと比較してるか知らんけど戦下手とは思わない
あと家中のゴタゴタで質が低下してるか知らんけどその分だけ出世しやすい状況とみると士気は高そうではある
314: 06/15(土)22:41:59.81 ID:9T6aZ+cs(2/4) AAS
>>312
晩年の秀吉の奉行として権勢を振るっていた以上、秀吉=三成と見られても仕方ない
家康も晩年は本田正純を重用して「家康=正純」になってるし、秀忠が正純に宛てた書状は多数存在する
そういう立場にいたなら、家康と違って暴走する秀吉を諫言する(あるいはできる)立場にあったのに、それをしなかった
三成にも罪はある
384(1): 06/20(木)17:21:54.81 ID:98MfcMWE(1/2) AAS
小西行長嫡男や大阪落城後に佐野道可の息子達を殺害したのもそれか
三成の子は幸いこの時大坂に居なかったがいたら危なかったかもしれんな
490(1): 06/25(火)07:58:25.81 ID:F/9cN5wn(1) AAS
>>489
レッテルを貼る人にはわからんよ
615(1): 07/04(木)00:24:33.81 ID:ETT6xyLE(1/2) AAS
西軍に参加した大名勢力って、どこも家中に爆弾を抱えてるのよな。
宇喜多騒動(宇喜多)、毛利遺領問題(毛利)、会津転封(上杉)、
庄内の乱(島津)、家督相続不許可(長曽我部)、越前転封筑前復帰(小早川)
一度徳川に頭を下げた前田でさえ、関ヶ原ではまた内部対立したせいで北陸から出てこれなかった。
最初から徳川に頭を下げておけばと後を知ってる俺等は簡単に言えるけど、
家中を抑えるには外部に敵を作るのも仕方ないのかもしれない。
その上で、その上で言いたい。
毛利輝元おまえ……いくらなんでも、それはなかろう。せめて一戦交えろや。
729(2): 07/09(火)13:01:56.81 ID:j/HC3G+X(3/3) AAS
秀信が出撃した理由は何なんだ?
もし無傷の兵力6000で籠城していたら、いくら数万に攻められても10日はもった可能性はある
野戦で大きく傷つけられて最早守りもできなくなったらそりゃああなるよね
なんかの小説では「我は信長の孫なり。だから東軍はみな我にひれふす」とか言って
意気揚々と出撃したとかあったけど、マジでこんなこと考えてたのかな?
835(1): 07/22(月)11:03:31.81 ID:ZZVJWjVW(1/4) AAS
なにをするかしないか決断するのはひとだし
それが必ずしも合理的であるとも限らない。
機械が歴史作ってるんじゃないんだよ。
例えば長篠の時勝頼は、長篠包囲継続、長篠攻撃、
撤退、織田徳川後詰軍に決戦と選択肢はあった。
後詰失敗による織田徳川の威信低下を狙って長篠攻撃していたらどうなったか。
947(2): 08/02(金)22:52:58.81 ID:eELSFyUE(1/2) AAS
>>942
大谷吉継の茶会のエピソードについて知りたい
回答
・本郷和人『戦国武将の明暗』(新潮社、2015年) 31p
→「あるとき、秀吉の茶会に招かれた諸将が、名物の茶碗に入った茶を一口ずつのみ、次の者へ回していきました。けれど吉継が口をつけると、あとの者たちは飲むふりをし始めました。彼がいわゆる業病にかかっていたため、感染を怖れたのです。しかし、石田三成だけは、なにごともないように茶を飲んだ。感激した吉継は、三成と刎頸の交わりを結びました」
茶会エピソードの出典について
・本郷和人『戦国武将の明暗』(新潮社、2015年) 32p
→「この茶会のエピソードは、よく人口に膾炙しています。歴史を好きな方なら、ご存じではないでしょうか。ところが、ところが。これまた、典拠がわかりません。調べてみたのですが、江戸時代に遡ることが難しい。明治から大正にかけてのジャーナリストであり、政治家であった福本日南の本(『英雄論』1911年刊)では、三成ではなく、秀吉の話として載っている。これがぼくが知っているものとしては一番古い」
これは出典といえないよ
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