【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る10 (521レス)
上下前次1-新
331: 2021/03/07(日)18:43 ID:+WfbXYqN(1) AAS
三河物語のほうが成立早いんじゃない
332(1): 2021/03/07(日)18:48 ID:X01PzGAC(3/3) AAS
三河物語
外部リンク:dl.ndl.go.jp
333: 2021/03/07(日)22:52 ID:xb1TDjGz(1/3) AAS
史料比較第二弾、信長公記から
そんなところに思わぬ事態が起きた。6月1日の夜に光秀は亀山で、明智左馬之助、次右衛門、藤田伝五、斎藤利三と談合し、信長を討って天下人になろうと調議した。(中略、桂川を越えるとようやく明け方になった)すぐに本能寺を取り巻き、四方より乱れいった。信長も小姓も下々が喧嘩を始めたと思ったが、そんな様子はなく、鬨の声があがって鉄砲が撃ち込まれた。
信長が「これは謀反か、誰の仕業だ」ろ問うと、森乱は「明智軍と思われます」。これを聞いた信長は「是非に及ばず」。すぐに敵が御殿に侵入し、面御堂の番衆も御殿に集まり一手になった。馬屋からは矢代らが打って出て討ち死に。このほか中間衆24人が討ち死にした。
御殿では森乱ら27人が戦死した。小姓らは斬りかかって死んだ。湯浅、小倉は分宿していたが、敵に混じって寺に駆け込み戦死した。台所口では高橋虎松がしばらく支え、比類ない働きだった。
信長は最初、弓を2、3回射たが、天運が尽きてつるが切れ、その後は鑓で戦った。肘に鑓で傷を負って引きのき、これまでそばにいた女房衆に「女は苦しからず、急いで逃げろ」と声をかけて追い出し、すぐに御殿に火を放った。遺体を敵に見せまいと思ったのか、殿中深くに入り込み、内から納戸の扉を締め、一思いに切腹した
334: 2021/03/07(日)23:06 ID:xb1TDjGz(2/3) AAS
信長公記のほかの記述と違い、きわめて淡々と事実を並べています
だいたい、ほかの合戦では「敵味方火花を散らし」などといった定型の形容があるんですが、本能寺襲撃ではなし
せいぜい高橋虎松の比類なき働きくらい
太田牛一は実地に体験していないと思われますので、伝聞と女房衆への取材成果を脚色なく記したと推察されます
また、女房衆を逃したという記述の初見でしょうか?
乙夜の記載(恒川斎仁が女房衆の生き残りから話を聞いた)を考える上で極めて重要であろうと考えます
ただし、ここらはのちに触れようと思うのですが、恒川が女房衆に話を聞く前に、太田牛一は女房衆(同一人物かも?違うかも)に取材しているのは確実でしょう
335(1): 2021/03/07(日)23:10 ID:+EhuZvrI(4/4) AAS
「明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(街)の人々の意表を
ついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、
当初はそのように言い触らされていた。
我らの教会は、信長の場所からわずか一町を隔てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、
折から早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。
そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかもしれないと報じた。まもなく銃声が響き、
火が我らの修道院から望まれた。」【フロイス日本史】
336(1): 2021/03/07(日)23:36 ID:xb1TDjGz(3/3) AAS
>>335
ちょうどいま、そこ読み返していたんですが、3000で本能寺を囲んだというのが乙夜の2000余騎に近似しているんですよね
フロイス自体は事件当時は九州にいても、南蛮寺は本能寺至近
あと、あなたがお示しになられた吉浦郷右衛門覚書、原文の一部?を読めるサイトがあったので目を通しました
きわめて興味深い
一部を除いて史実とされるものに整合するし、左馬之助が安土から坂本へ移る描写は、とても乙夜に似ています
また、別のサイトでは、史料中に見える大文字屋が当時あったか検証したものがありました
省2
337: 2021/03/08(月)00:16 ID:Gz/UX/E4(1) AAS
>>336
私は他の人のサイトから引用しただけです
外部リンク:sengokumap.net
338: 2021/03/08(月)08:42 ID:NtBrUsLv(1) AAS
それなかなかの力作よね
たまに観る
>>332
三河物語からだったのか!ありがと
前読んだ筈だが忘れてる・・・
339: 2021/03/09(火)22:18 ID:eTgY/MWt(1/4) AAS
今回は乙夜之書物から、前後に分かれている本能寺襲撃シーンをつなげて記します
一つ、明智弥平次、斉藤内蔵助は2000余騎にて本能寺に押し寄せると、早くも夜はほのぼのと明けた。水撒きの下郎(中間)が水桶を担いで外に出ると、敵が押し寄せている陣を見た。寺内に入って門を閉めようとすると「あの門を閉めさせるな」と押し詰め、門を打ち破って乱入した。
当番の衆が「これは何事だ」と慌てて出てくると、すでに敵は門内に押し込んぢた。おのおの鑓を持って縁側の上下で攻め合い、信長公は白い帷子姿で髪を乱して出てきて、弓にて座の敵を射た。弓の弦が切れたようで、弓は投げ捨て、十文字の鑓を持って攻め合った。そんなとこりに傷を負ったようで、白い帷子に血がついていたように見えた。鑓を捨てて奥に入ると、ほどなく奥の方から焼け崩れた。
一つ、番衆も随分働いたが、思いもよらぬことだったのでいずれも素肌でわずかの人数だった。敵は具足兜に弓鑓鉄砲を備え(以下は朝日新聞写真が途切れて不明)
ここまでが前半パート。番衆以下の部分はわかりませんが、その前の部分は明智方(というより斉藤利宗)の見た本能寺襲撃と明確に読めます。水撒きが出てきてから戦が起こり、信長が縁側の上から弓や鑓で戦い、けがを負ったようで白い帷子に地が染まり、奥に入ったら時間をさほど置かずに出火した経緯を明智方から目撃しています。乙夜のすごいのは次の、別部分に記された描写です
340: 2021/03/09(火)22:38 ID:eTgY/MWt(2/4) AAS
こちらのパートは本能寺内部から見た描写です
信長公は傷を負ったようで、明け方になって居間へ帰った。台所の方から焼亡したようで、煙がやってきた。信長公はどのように思ったのか、畳をあげて四方に立て掛けた。女房衆が4、5人(近くに)いたが、「いずれも出ろ出ろ」と声を掛けたので逃げでた。女房衆だったからか、敵も構わずに逃げることができた。
右の女房衆のうち、長生きしたものから聞いたと恒川斎仁が語った。
信長の(ほぼ)最後を見た人の証言がソースつきで残っている超重要史料です!恒川斎仁という人物については別スレ(信忠スレ)で詳述したのですが、身元の確かな人物です。こちらでものちに記そうと思いますが。
まず、惟任退治記と比較すると、十文字の鑓が共通(惟任退治記の原文では鎌で、後世の編者が鑓か?と付記)。ただし、付記はあくまで後世なので、乙夜が惟任退治記を参考にした可能性は考えられますが、やはり斎藤利宗からの情報と考えたいところ。信長公記では単純に鑓としており、肘に傷を負ったというのが惟任退治記、乙夜よりも詳しい点。
信長公記と乙夜の共通点は、女房衆に逃げろといっているところです。細かい文言は違いますが。こちらも乙夜が信長公記を参照した可能性はありますが、生き残りから恒川が直接話を聞き、それを乙夜著者の関屋政春に話している部分が目新しい
341: 2021/03/09(火)22:44 ID:eTgY/MWt(3/4) AAS
信長公記の情報元がだれなのかは謎ですが、逃げ落ちた女房衆とも容易に想像できます
少なくとも4、5人落ち延びた誰かから事件から遠くない時期に聞いたのでしょう
恒川は、長生きしたと特記している女房衆から聞いているので、同一人物か別人かは定かでないですが、太田牛一よりかなり遅れて聞いたのは間違いない
しかし、一つ言えるのは両史料ともかなり信憑性が高いといえそうだということです
また、内容も酷似しています
そこも信用がおけそうなポイント(信長公記から丸パクリしたとは思えない記述があるので)
342: 2021/03/09(火)23:00 ID:eTgY/MWt(4/4) AAS
とともに、惟任退治記とも大筋は同一である(愛妾と遊びふけって、ついでに殺したという部分以外)
いままでも陰謀論者以外はおおむね、信長が弓、鑓で戦った、けがをして奥に引きのいて火をかけた、という展開は信じられてきたと思います
そこにソースが(名前なし、間接とはいえ)示されたことが乙夜の画期ではないでしょうか
細かい話でいえば、信長が畳をあげて四方を囲ったところ
前後、原文では「信長公いかが思召たるか、たたみあげて四方に立かけたまう」
女房衆はその意味を理解していないんですが、なぜそんなことをしたのか
祖父物語では、森乱が信長の遺骸に畳5、6帖をかぶせたという記載があります
省1
343(3): 2021/03/10(水)01:55 ID:okQMRhN7(1/2) AAS
槍(やり)と槍疵
薙刀(なぎなた)と弾創
尊経閣本では「その後、御長刀(なぎなた)取らせられ候ところに、御肘に鉄砲あたり、引き退き候」
344: 2021/03/10(水)02:12 ID:okQMRhN7(2/2) AAS
畳が現在のような寸法になったのは織田信長が敵の鉄砲や槍から身を守る糧として使用する為、
人間の大きさに合わせたと言われている
345: 2021/03/12(金)22:01 ID:A1yK/NQJ(1/3) AAS
>>343
これは有益な情報
ありがとう
最近は天理本に注目が集まったり、信長公記研究も進んでおり、いろいろ楽しいですね
346: 2021/03/12(金)22:13 ID:A1yK/NQJ(2/3) AAS
>>343
乙夜から推察するに、退治記も信長公記も信長の戦闘描写は明智方の証言に取材したと考えたい
本能寺で明智方に降った人は弥助くらいしか明示されていない
ただ、中間あたりは降伏して証言した人がいたのかもしれないが、どうだろうか
信長の最後の描写は女房衆証言プラス想像(ソース明記の乙夜は畳をなぜだか理解できなかったが四方に立て掛けたところまで。利宗も火が上がったとしか書いていない)といったところか
乙夜の再発見により、かなり信長の最後は詳らかになってきた
もっと正確に言うと、これまでおおむねそうだと考えられていた記述にかなり、信憑性がもたらされたというべきか
省1
347: 2021/03/12(金)22:16 ID:A1yK/NQJ(3/3) AAS
>>343
あと付言
乙夜証言(斎藤利宗と思われる)では、目撃談に「○○と見えて」とある
私は「のようで」と訳したが、つまり利宗は忙しい戦闘の渦中で一部始終をきちんと見られたわけではない
だが、そういう断言していない叙述姿勢に信頼がわくのです
348(1): 2021/03/12(金)23:13 ID:ckraQ8hR(1) AAS
何でその程度の根拠で信憑性がもたらされたなんてなるんだ?
単に元史料参考に創作していったとも取れるし。
349: 2021/03/13(土)00:13 ID:62inCNQr(1/12) AAS
>>348
恒川斎仁について語る必要がありそうですね
そう、乙夜作者の関屋政春に、信長の女房衆から聞いた話を伝えた人物であり加賀藩士です
恒川という一族は尾張津島の有力者で、さらに前田家の荒子七人衆
の一人、山森久次という人物がのちに恒川姓を名乗ります
恒川というのが信長、利家に極めて近い氏族と分かります
で、恒川斎仁なんですが、史料に痕跡が残っています
省12
350: 2021/03/13(土)00:43 ID:62inCNQr(2/12) AAS
ふと、尊経閣文庫は前田家の文庫ですね
太田牛一の古態を残す信長公記抜粋を所持していたり
尊経閣文庫の15巻がどんな形態か無知ゆえ知らぬのですが、鉄砲傷というのは加筆の可能性は?
太田牛一よりも詳しい情報を知っていたからとか
ここまでいくと誇大妄想ですが
いずれにせよ、前田家は信長への執着がすごいんです
利家の各種夜話読んでもそうです加賀藩歴譜(本藩御譜)自体は幕末の成立ですが、そこで恒川斎仁の筆記が採用されている
省3
351(1): 2021/03/13(土)00:56 ID:62inCNQr(3/12) AAS
元史料から創作した
そもそもこういう意見が出ると思って、成立時期の早いものから順に検証してるんです
もっとも成立が早いのは惟任退治記
次は信長公記でしょう
それぞれ違いがあります
世間に広がった範囲でいえばどっこいどっこいです
乙夜は江戸初期のあと、といった成立で、関屋はおそらく両書を読んでいる
省4
352(1): 2021/03/13(土)01:32 ID:PnT0pIGu(1/2) AAS
信長の最期:イエズス会の誤訳ではなかった!
外部リンク:blog.goo.ne.jp
『乙夜之書物(いつやのかきもの)』にみる「本能寺の変」
外部リンク:note.com
353(1): 2021/03/13(土)09:32 ID:So0ACpTQ(1/2) AAS
パクって創作という作為的な行為ばかりでなく
著述にあたって先行する書物を参考にすると言う
しごく当たり前で誠実な態度もあるよね
本を書くなら独自ソースがあっても
先行書物も当たるし独自ソースで足りない部分は
それで(意識的、無意識的どちらにせよ)補うことになる
殊更に乙夜の信用性に疑問を挟む気はないけど
省3
354: 2021/03/13(土)10:15 ID:UpvBGWo2(1) AAS
むしろ何でその程度の人間関係で信用できると思えるんだ?
判断基準が違い過ぎて妄想乙としか思えないが、これは私が疑り深いだけだろうか
355: 2021/03/13(土)11:04 ID:42mUN1OY(1/6) AAS
>>351
>家中秘伝の軍学書であるから、誠実に聞いたところを記している
>そう思えませんか?
全く思わないなー、そんな理屈が通るなら軍記物の大半が信用出来るってことになる。
そもそも誠実に聞いたところで話してくれた人が誠実かどうか記憶が正しいかって問題もあるし。
356(1): 2021/03/13(土)11:41 ID:42mUN1OY(2/6) AAS
畳部分はそれなりに検証しても面白いと思った。
畳の記述は惟任退治記信長公記など乙夜之書物が書かれたとされる時期
その当時において知られているような軍記物に記述は無い。
祖父物語の畳を被せたとした記述部分
外部リンク:dl.ndl.go.jp
・祖父物語を乙夜之書物の作者が参考に出来るほど当時知られていたか
当時祖父物語が知られていないなら、
省11
357(1): 2021/03/13(土)11:48 ID:Mld8craM(1) AAS
足利義輝の畳に押し包まれて討ち取られたも近い時代の史料にはないんだよな
358: 2021/03/13(土)12:01 ID:42mUN1OY(3/6) AAS
信長公記惟任退治記以外だと
当時有名な軍記物はこの辺りだろうか。
甫庵信長記初めて読んだw
外部リンク:dl.ndl.go.jp
川角太閤記
外部リンク:dl.ndl.go.jp
もっと後の明智軍記は祖父物語を参考にはしていないようだ
省4
359(1): 2021/03/13(土)17:39 ID:So0ACpTQ(2/2) AAS
いざ探すとなかなかソースとして適当なものが
見つからないのだけど武術の世界では
防御手段として畳を立てると言う話は稀に聞く
畳返しと言ってしまうと途端に怪しくなるが
大真面目にやってた人もいる
外部リンク[html]:www.taikyokuken.co.jp
360: 2021/03/13(土)20:25 ID:62inCNQr(4/12) AAS
>>352
noteの方は私も参考にしています
私より史料を読む力は深いので
もう片方ははなはだ疑問です
太田牛一「信長公記」成立考 でPDF検索してほしいです
とても古い論文ですが、慶長3年が下限という結論です
九州にいるフロイス、なんて関係ないほど時期が離れています
省5
361: 2021/03/13(土)20:29 ID:62inCNQr(5/12) AAS
>>353
私もあなたの論に賛成なんですよ
たとえば乙夜に山崎の戦いの描写がありますが、すごく通俗的なんですよ(次男坊が行方不明だからサヨナラって利三が戦線離脱したり)
ただ、私は鳥羽に光秀が控えていたという描写や戦闘の一部始終、信長の最後については信用してもいいかな、と
362(1): 2021/03/13(土)20:43 ID:62inCNQr(6/12) AAS
>>356
祖父物語はとくに後半の秀吉がでてくる前後から荒唐無稽(信長がお付き1人で諸国漫遊したり、秀吉に小便かけたり)なんですが、話し手が清須の古老だけあって、流布されていた噂をきっちり収載している雰囲気があるんですよね
これは推測ですが、尾張へ逃げ落ちた女房衆の話が清須で流布していたと思うんです
身の回りの世話をする女房衆は尾張、美濃、広げても近江出身である可能性が高い
玉石混交の噂の中で、上様は最後、なぜだか分からないけど畳で四方を囲んでいた、という証言もあったという読みです
祖父物語は噂集と捉え、前後の一貫性にはあまり注目する必要がないかなあと
ただ、関わりがなさそうな史料同士で類似の点があるので、そこの部分については両書が補完して信憑性考えてもいいかな、と
363: 2021/03/13(土)20:53 ID:62inCNQr(7/12) AAS
>>359
あくまで女房衆なのですが、乙夜の原文掲げると「信長公いかが思召たるか」とある
女房衆は畳をあげる意味がわかっていなかった
明確な防御の動きではなかったと読みたいところなんです
信長は居間に帰って、ほどなく台所の方から煙がやってきた
それに続く記述が上記です
死を覚悟した信長が遺体を隠すかより焼けるためにした行動と個人的には思うんですが、異論も多いかと思います
省1
364(1): 2021/03/13(土)21:05 ID:42mUN1OY(4/6) AAS
何故かPCで書き込めないスマホで書き込むの厳しい
>>362
流布しているなら他の史料に一切話がないのはおかしい
流布しているなら乙夜も噂聞いて創作したという可能性も考えられる
365: 2021/03/13(土)21:21 ID:62inCNQr(8/12) AAS
>>364
天下にあまねく流布、とは言いません
尾張出身の女房衆が逃げ帰って狭い範囲で流布、という可能性もあるわけです
乙夜は創作する必要がないし(公刊する書物ではなく、関屋なりの軍学の秘伝書)、恒川という人をおいていますがソースが明示されている
恒川という一族は津島、荒子以来の家臣で、その周辺の筆記を残しているのが斎仁
女房衆に話を聞く動機も手段、地縁もいかにもある人物です
秘密の暴露じゃないですが、尾張つながりの乙夜、祖父物語にほぼ同じような記述がある
省2
366: 2021/03/13(土)21:25 ID:62inCNQr(9/12) AAS
あと、当時の本能寺に関して必見の論文を紹介します
中世本能寺の寺地と立地について−成立から本能寺の変まで−
これで検索すると立命館大学のPDFで読めます
2008年なので発掘成果などは反映されていませんが、立地や位置づけ、信長の政権構想にまで肉迫しています
真ん中付近からの信長絡みだけ読んでも十分
367(1): 2021/03/13(土)21:56 ID:PnT0pIGu(2/2) AAS
明智光秀が何時に亀山城を出たかいろいろ説があるが、
光秀が亀山城を出た時には信忠はまだ本能寺に滞在していた
(夜が更けたので信忠は暇乞いをして、妙覚寺の宿へ帰った)
明智軍が本能寺を襲撃して、その後二条新御所へ移動したのは
信長殺害が最優先事項だったか、信忠が妙覚寺に帰った情報が
後から入ってきたかではないかと個人的に思う
いずれにせよ、光秀がどうやって情報収集したのか個人的には気になるところ
省2
368(1): 2021/03/13(土)22:02 ID:42mUN1OY(5/6) AAS
武功夜話がそうとは言わないが非公開とされていたとしても創作する理由などいくらでもあるだろ
369(1): 2021/03/13(土)22:06 ID:42mUN1OY(6/6) AAS
武功夜話みたいにって意味
スマホじゃ無理だまともな文章書けない、もうやめる
370: 2021/03/13(土)22:22 ID:62inCNQr(10/12) AAS
>>368
理由も動機もあるにはあるでしょう
ただ、それ以上にいろいろつながるわけですよ
一次史料だって事実誤認や誇張、ウソが混じっている
他史料やさまざまな情報を鑑みて史実か否かを探っていくわけですよ
乙夜については、まず公開前提の史料ではない(萩原先生も信憑性を担保する重要な証拠に挙げている)
情報元が明記されている(斎藤利宗、井上清左衛門、恒川、女房衆などなど)
省10
371: 2021/03/13(土)22:26 ID:62inCNQr(11/12) AAS
>>369
また今度
武功夜話は昭和になって悪意をもって捏造されたもので比較にならないかと
三河物語とかでしょう、あれも門外不出
だからといって全部信用はできない
一つひとつ検証するのが大事
372: 2021/03/13(土)22:46 ID:62inCNQr(12/12) AAS
>>367
京屋敷があったのは一次史料に残っています
ただ、きちんと情報収集なんてできていたのか
結果的に謀反が成功したことからの合成の誤謬ではないかと
とにかく信長を叩き殺せ!という短慮しか感じられない
変に至る過程を細かくまとめた論文に以下があります
本能寺の変の再検証 : 先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合
省5
373(1): 2021/03/13(土)23:02 ID:V9+lamaW(1) AAS
悪意をもって捏造とか言っちゃうやつが史料語ってんのね
もう書き込まなくて良いよ
374(1): 2021/03/14(日)00:56 ID:YuZbOSXv(1/2) AAS
1582(天正10)年1月11日、光秀家臣の斎藤利三が石谷光政に、長宗我部元親の軽はずみな行動を諌め
信長の指示に従うようにと伝える。【石谷家文書】
1582年5月7日、信長が信孝に讃岐、三好康長に阿波を与える領地配分を伝える。【寺尾菊子氏所蔵文書】
(信長は信孝と三好康長を養子縁組の画策)
光秀側も長宗我部元親にこれ以上信長に逆らうなって意図が感じられる
四国説は無いかなって個人的に思う
375: 2021/03/14(日)17:03 ID:poCLAxDT(1) AAS
>>374
四国説は光秀を悩ませた要因の一つ、くらいに考えたい
新しい史料が見つかって悪ノリしてる勢力がいる
376: 2021/03/14(日)17:37 ID:K1BtgXoc(1) AAS
そう、光秀の置かれた立場を理解するには重要な情報だろうね
でも光秀にとって一番の重要事項ではない
377(1): 2021/03/14(日)19:18 ID:4PX2POF2(1) AAS
>>373
そう言わずこっちのスレで蟄居させてください
378(1): 2021/03/14(日)21:26 ID:YuZbOSXv(2/2) AAS
信長は、長宗我部元親に切り取り次第としていた四国の所領の約束を反故にしたが、
土佐一国と阿波南郡半国を所領として認めようとしていた
1581年8月、毛利と同盟を結ぶ。【8月7日付 乃美兵部丞宛 長宗我部元親書状】
光秀側も長宗我部元親にかなり手を焼いてる感じで、四国征伐を阻止するために
本能寺の変を起こす理由付けは無理がある
379: 2021/03/14(日)22:11 ID:CdICMe4R(1) AAS
>>377
君らずっとレベルの低い口喧嘩してよく飽きないね
あっちいけ
380: 2021/03/14(日)23:55 ID:fD950sGb(1) AAS
あっちいけなんていう幼稚園児レベルの発言が出るようなスレだもの
381: 2021/03/15(月)04:38 ID:7mNn0eJ8(1) AAS
ホントすいません
382: 2021/03/16(火)22:56 ID:3KbjPZkJ(1) AAS
>>378
概して四国説の論者は史料の取り扱いが雑というか、恣意的なものすらある印象です
石谷文書は信長政権と四国政策に裏付けを与えるもの、くらいに捉えておきたい
そこらはこれまで、長宗我部系の軍記にしか記載がほとんどなかったと記憶してます
元親記だったか、たしかに本能寺に関して元親と光秀の関与をにおわす記述自体はあるんですけどねえ
あれ読んでも四国周りがほぼちんぷんかんぷんなので、意味が取りにくくて困るんです
研究者はさすが
383: 2021/03/17(水)08:23 ID:ZFzjy9Sd(1) AAS
光秀ラインで進んでた対四国政策が
あの時期頓挫しつつあったのは確かだろう
だからといって四国のために光秀が立ち上がる
なんてことが起きたと思えないけど
単純に「秀吉との出世競争で」とか
「織田家での影響力がなくなって」とか
言われてることの具体例と考えていいと思うけどな
384(1): 2021/03/17(水)13:06 ID:LB4wQXpE(1) AAS
土佐には明智の系図があるらしい
坂本龍馬がその子孫だとか、そんな話を見た
普通に山内氏の入国に付いてきた中に明智氏の縁者がいただけと思うが、
こういう戦国から幕末への歴史ロマン的なものも四国説を後押ししてるんだろうか
385: 2021/03/17(水)17:42 ID:AYXRnM4L(1/3) AAS
>>384
あれは明治の小説が出元なので
残念ながらまともな研究者の中で信じている人はいないと思います
最近じゃ坂本龍馬の位置づけも下がっていますし
明治と昭和の小説家が生み出した幻影というよりないのではないでしょうか
386: 2021/03/17(水)20:39 ID:AYXRnM4L(2/3) AAS
それでは川角太閤記の本能寺描写
まず、信長公記記載の謀反5人衆を挙げて、山崎長門守、林亀之助の雑談(ぞうだん)ではそれはなかったと指摘
以下に抄訳
光秀は6月1日申の刻(午後3時頃)ごろ、家中の物頭に「森乱が上様の意向として、中国出陣の用意ができたならば閲兵したいと飛脚でいってきた。心得てい出陣すべきだ」と亀山をたって東の柴野へ出たときは酉の刻(午後6時)だった。光秀自身が馬に乗って周り、軍勢を三段に備えた。光秀が斎藤利三に軍勢の数を聞くと、1万3000はあると答えた。
光秀はそれより南に馬を出し、軍勢から一町半離れたところで重臣5人と話し合った。5人以外おらず、光秀は床几を降りて敷皮に座り、存念を語った。
「上様が私をここまで取り立ててくださったことは皆もよく存じておろう。3000石だったとき、にわかに25万石を拝領し、家臣が少なかったので大名衆から呼びとった。すると3月3日の節句に岐阜で、大名高家の前で面目を失った。その後、信濃の上諏訪にて折檻され、このたびは家康接待で失態があったとしかられ、西国出陣を命じられた。こうしたことが再三あったので、我が身におおごとが及ぶといろいろと考えたが、右の三か条の恨みがある。世は有為転変だ。老後の思い出に一夜なりとも天下の思い出を得たいとこのほど思い切った。みなが同心しないなら一人で本能寺に乱れいって腹を切る覚悟だ。おのおのいかにいかに」
387: 2021/03/17(水)20:58 ID:AYXRnM4L(3/3) AAS
読み返したらとても長いので大幅に抜粋
一同は賛同。天野源右衛門を先行させて防諜活動、瓜畑の農民20、30人を殺害(これは天野の証言に基づく)。桂川につくと軍装を改め、今日より天下様になるとお触れ。利三が先手を指揮。ここまでは山崎と林から直接聞いた話だ。これから先は信長公記に詳しい。
と記している
桂川で謀反の意思を兵卒に伝えたのは乙夜と一緒
襲撃場面については信長公記に異論がないという
別スレに詳細記したので省くが、山崎と林の素性はたしか
川角太閤記にでている経歴や逸話も他史料で確認できる
省2
388(1): 2021/03/18(木)13:37 ID:eA9h8FlU(1) AAS
単に他の史料を参考にしたで済む話
389: 2021/03/18(木)19:25 ID:9eMao//V(1) AAS
母親のお牧の方は実在の人物?
390(1): 2021/03/18(木)19:33 ID:YJ2bOcZv(1) AAS
創作だと尚更有名どころの軍記物なんかと整合性取りつつ、微妙に変えたり、独自の逸話を入れたりするもんな
391(1): 2021/03/18(木)19:39 ID:Gztu/nFT(1) AAS
>>388
川角太閤記は甫庵信長記よりも成立が前
頼れるものは惟任退治記と信長公記
実際、川角太閤記では信長公記に言及し、かつそこにないところや間違っていると主張しているところを描いてるんです
ソースつきで
それをとくに論証もなく「参考にしただけ」とはね
392: 2021/03/18(木)23:25 ID:4W+wXAH7(1) AAS
>>390
ほう、史料に詳しそうだ
ぜひ勉強させてもらいたい
例えば具体的にどんな史料が挙げられます?
5つ6つくらいは教えてほしい
参考にしますので
393: 2021/03/19(金)01:12 ID:Swst6Dlg(1/3) AAS
390じゃないが有名どころだと甲陽軍鑑とかか。
石水寺物語他を編集してか、甲陽軍鑑が作られ
北条五代記とか川中島での一騎打ち描写とか軍鑑の影響と言われてる
(一騎打ちは北越軍談にもあるらしいが読んだことない)
韮崎合戦も軍鑑が初出だと思うが、その影響受けて溝口二木の家記にもあるし
武田三代軍記や小平物語も影響受けて韮崎合戦があったことになってる。
ちょっと違うが高白斎記も軍鑑の影響を大きく受けているというかほぼ丸映し部分が混入しちゃってる
394: 2021/03/19(金)01:18 ID:Swst6Dlg(2/3) AAS
武田三代軍記はデジタルにあったから貼っとく。
外部リンク:dl.ndl.go.jp
>>391
自分としては388に賛成で
碌に検証しないで他の史料と整合性があると言われても、そりゃ388みたいな意見しかでないだろと。
395: 2021/03/19(金)01:24 ID:cQVasskX(1) AAS
上にあった畳の話ぐらいには検証しないと、話の膨らませようがないとしか
概ね史料と一致すると言われてもそりゃそうだろとしか、
そんなこと言ったら歴史小説だってある程度は一致する
396: 2021/03/19(金)01:40 ID:Swst6Dlg(3/3) AAS
史料の検証したいなら
論点がわかりにくい、どの部分を検証したいのか明確にしないとってのもあると思う。
397: 2021/03/19(金)09:19 ID:peG9goSn(1) AAS
山田風太郎の書いた忍法帖という膨大な史料だが
なんと当時起きた事件の顛末については
他の史料と概ね整合してるんだ
398(1): 2021/03/19(金)12:46 ID:LF/IQpYu(1) AAS
他の軍記物にはない独自の記述が一次史料で裏付け取れるとかだとその部分は信用出来るってなるけど、
他の軍記物と似たような記述があるってアプローチじゃ
既存の軍記物参考にしたのか独自の情報ソースがあったのか簡単には判別付かないからな。
そもそも簡単に判明するようなら学者がとっくに結論出してる。
399: 2021/03/19(金)17:20 ID:6Umy0bBa(1) AAS
>>398
甲陽軍鑑の信用できる部分も裏付けがとれる箇所だからな
400(2): 2021/03/20(土)07:57 ID:Upu/9BjX(1) AAS
>>9
どこかの総理大臣みたいだな。
でも総理と違って光秀は頭いい。
401: 2021/03/20(土)09:17 ID:WnECV36Y(1) AAS
どうも土岐源氏の由緒ある血筋とかでもないみたいだし、けっこう成り上がり者らしくガツガツした人だったみたいだけど、ルーツがどうあれ有能だったことだけは疑いようのない事実ではあるな
402: 2021/03/20(土)09:26 ID:NW6AUxWU(1) AAS
>>400
頭悪いからあんな末路になったんじゃ…
403: 2021/03/20(土)09:36 ID:yJletSoM(1) AAS
頭が悪くても出世できるんだ。織田家ってちょろいんだな。
404: 2021/04/22(木)10:10 ID:6jaDAd2r(1) AAS
頭良くても悲惨な末路を辿る歴史人物は結構いるからな
405: 2021/04/22(木)13:11 ID:h4C0E67A(1/2) AAS
信雄は勝ったのか負けたのか。大禄を喪失しながら1630年で天寿を全うしたが
406: 2021/04/22(木)17:22 ID:n3cIHrqQ(1/2) AAS
勝ったか負けたしかないのかお前には
407: 2021/04/22(木)18:16 ID:h4C0E67A(2/2) AAS
勝負は勝たなきゃ嘘です
408: 2021/04/22(木)19:26 ID:n3cIHrqQ(2/2) AAS
ざわ・・・ざわ・・・
409(1): 2021/04/24(土)12:02 ID:4sEyt4+y(1) AAS
信長父子を襲ったのは光秀乱心だと思うね
父子を殺した先の準備をしていないからね
410: 2021/04/26(月)14:16 ID:7+3wyBhd(1/2) AAS
>>193
細川は羽柴の援軍明智のさらに与力としね中国攻めの準備はしてたはずだよ
411: 2021/04/26(月)14:41 ID:7+3wyBhd(2/2) AAS
>>409
「親子を殺す」どころか「信長をころすことにばかり気を取られてた」としか思えないんだか
本能寺包囲だけならもて余す十分すぎる兵を率いていながら、信忠を囲んだのは本能寺への攻撃を始めてから二刻(約4時間)もあと
いかに信長だけに夢中になって他が迂闊だったか分かる
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