[過去ログ] キリスト教なんでも質問箱 (1001レス)
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293
(1): 2011/08/09(火)18:03 ID:g3ncfDGT(1/9) AAS
>>292
確かに気づくことがポイントなのだが、それが聖霊体験に直結する場合と、
そうでない場合とがある。「天よ、露を滴らせ」の露が聖霊なのです。
ヨハネスは聖霊(神の訪れ)と霊魂(永遠の命)を区別していないと思う。
294: 2011/08/09(火)18:24 ID:g3ncfDGT(2/9) AAS
魔境の恐さは昔から知られている。
釈迦は半眼で瞑想し、仏教の坐禅でも基本的に半眼で行う。
仏教は魔境に入ること自体を避けている。
結果として、仏教では「梵我一如」が最高の体験になる。
 
仏教の修行方針を理解できないではない。仏教徒には聖霊体験がないから、
魔境に入ること自体が危険なのである。神の守護がないから、
省4
295: 2011/08/09(火)18:49 ID:g3ncfDGT(3/9) AAS
わたしも半眼で行うことをすすめる。
聖霊体験がなければ、魔境を突破することは不可能である。
準備がないのに、魔境を体験することは百害あって一利無しである。
★ ★ ★ 坐禅は半眼を開けて行う
 
空海は聖霊体験がないのに明星を見たという。しかしこれは例外中の例外。
これとよく似た話で、釈迦は満月を見て成道したとも言われている。
省2
296: 2011/08/09(火)20:38 ID:g3ncfDGT(4/9) AAS
今までの話から、坐禅や瞑想をするにも聖霊体験が関係していることが
わかってもらえたろうか。聖霊体験がなければよくて梵我一如止まりである。
その先の明けの明星、霊魂体験には99.99・・・%進めない。

なぜそんなに難しいのかと言えば、心を脱ぎ捨て、身体を脱ぎ捨てないと
霊魂にならないからである。生きながらに死ぬことと等しい。
こんなことは不可能に近いし、仮にできたとしても危険過ぎるのである。
 
省2
297
(2): Johannes 2011/08/09(火)20:50 ID:w/7idfq/(1) AAS
>>293
では更にはっきり言う。
佛教に於いては聖霊体験など一切考慮しない。
そもそも「聖霊体験」とは何か。
使徒行伝1章2-4をイメージしているのだろうか。
佛教では斯くの如き現象を考慮することはない。

>>ヨハネスは聖霊(神の訪れ)と霊魂(永遠の命)を区別していないと思う。
省3
298: 2011/08/09(火)20:52 ID:g3ncfDGT(5/9) AAS
そうすると問題は、聖霊体験ができるかどうかであり、
坐禅や瞑想の技術的問題ではないことになる。
 
技術的には、もっともシンプルな数息観で十分すぎるほど十分である。
念仏や題目や、真言や陀羅尼を唱える必要もない。むしろマイナスである。
当然、ハタヨーガとかクンダリニーヨーガなどは邪道でしかない。
 
省1
299: 2011/08/09(火)21:08 ID:g3ncfDGT(6/9) AAS
>>297
仏教が聖霊体験を考慮しないので、それでは足りないと指摘している。
また使徒言行録の聖霊は、ルカの作り話か、かりに何かあったとしても、
集団ヒステリーのようなものだろうと思う。
 
聖霊は、頭の中に、斜め上方から落ちてくる雫のようなもの。
霊魂は、意識も感覚もある透明な球。
300: 2011/08/09(火)21:22 ID:g3ncfDGT(7/9) AAS
>>297
仏教やキリスト教の教え以前に、何が真実なのかが優先すると思う。
そう説いているから信じるのではなく、自分の目で確かめ、
自分の頭で考えるようにしたい。めざしの頭も信心から、と言うように、
信仰には人間を盲目にしてしまう力がある。
 
301: 2011/08/09(火)21:53 ID:g3ncfDGT(8/9) AAS
聖霊とか霊魂とかを、その精神的な意味合いから眺めれば、
ヨハネ福音書15章13節かもしれない。
(友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。)
 
聖霊を体験するのに必要なのは、この愛であり、優しさである。
魔境を乗り切るのも同じ。悪夢を良夢にするのも同じ。
 
省1
302: 2011/08/09(火)22:11 ID:g3ncfDGT(9/9) AAS
夢は毎日見る。これを利用しない手はない。
基本的には、その日思ったこと、心を動かしたことが夜の夢になる。
夢を点検すれば自分がどの程度の人間なのかがわかる。
この夢を変える。優しくなれば夢が変わる。
 
なぜ薬物がダメなのか。サイケな幻覚を見ても無意味だからである。
魔境では、その人の愛や優しさが問われている。
省1
303
(1): Johannes 2011/08/10(水)01:35 ID:J5ER/bs+(1) AAS
霊魂が存在することで自我が継続し続けると考えているうちはまだ佛教の外にいる。
いくら考えても無駄であり迷信である。それきキリスト教会レベル。
304: 2011/08/10(水)10:59 ID:6y0lAbXl(1/2) AAS

サルの寝言
 
仏教はお札を数えてナンマーダーだべ
305: 2011/08/10(水)11:03 ID:6y0lAbXl(2/2) AAS
仏教もグノーシスも思考の主体は、きっと脳みそなんだろな^^

その脳みそが腐った死後に悟りがあると言うから、あたまおかしいんじゃん^^
306: 承狂 ◆TptLNQXPVWuJ 2011/08/10(水)16:53 ID:S0tO4VVY(1/2) AAS
キリスト教って、親兄弟が死んでも自分達だけは復活するって信じてるんだよな?(笑)

(^。^)良い性格してますね♪(笑)
307: 2011/08/10(水)18:08 ID:R3/9aCaL(1/5) AAS
>>303
ヨハネスの話はわからないでもない。
仏教を内側から見るか、外側から見るかの違いではないだろうか。
よく話せば、結局は同じことを言っている可能性が高い。
何を言いたいのか、何となくわかるような気がする。
308: 2011/08/10(水)18:27 ID:R3/9aCaL(2/5) AAS
ただ大乗の空、これはいただけない。
日本の僧侶は、空の思想を証明したいのか、墓場の中で暮らしている。
よくやるよと気の毒に思うが、実際には金勘定ばかり。
僧侶にとっては、生活の糧、墓場こそが有り難い田畑なのだろう。
 
仏教の発祥地、インドには墓がない。火葬後、ガンジス川に流してしまう。
日本の仏教もインドに学び、散骨にすればいいのに。
309: 2011/08/10(水)18:51 ID:R3/9aCaL(3/5) AAS
仏教は空を説いているが、殺人者にとっては有り難い教えである。
しかし、自分が殺される側になれば、必死に逃げて抵抗するのではないか。
 
そんな教えが空である。世間は空論といってバカにしている。
こんな邪教が生き残っているから、日本の霊性がいつまでも低迷している。
 
日本を霊的によみがえらせるには、たとえば宗教法人優遇税制を廃止し、
省2
310: 承狂 ◆TptLNQXPVWuJ 2011/08/10(水)18:57 ID:S0tO4VVY(2/2) AAS
キリスト教って、
死んだら魂はどうなってる設定なの?(笑)
ハッキリ決まってないよね?
会議で決まってたっけ?(笑)
311: 2011/08/10(水)19:23 ID:R3/9aCaL(4/5) AAS
仏教、キリスト教などなど、そういった枠にはまった考えは、
もはや終りを迎えつつあるのではないだろうか。
ネット社会は、自分の目で確かめ、自分の頭で考える時代である。
 
仏教もキリスト教もかってのオーラが失われ、無様な残骸になっている。
特に仏教はひどい。僧侶自身が喜怒哀楽に翻弄されて生きているのに、
空などと寝言を語り、まるでペテン師のようではないか。
省2
312: 2011/08/10(水)19:42 ID:R3/9aCaL(5/5) AAS
坐禅の体験には、梵我一如とアートマン(霊魂)体験しか存在しない。
空の体験など絶対にありえない。だから不立文字になる。
 
空が体験できないものであれば、それは無、虚無であろう。
無、虚無を語るには、Aではない、Bではない、という否定表現でしか
表現できない。これが竜樹の説く空ではないのか。
それはまったく何もないゼロである。
313: 2011/08/11(木)23:41 ID:9hcmDgkw(1/2) AAS
坐禅をするなら、念仏、題目、念唱などはやめた方がいい。
これはすでに書いたことだが、重要なので再度繰り返しておきたい。
心を自然な状態に戻したいなら、坐禅には色をつけない。
息を数えるだけの数息観がベストである。
314: 2011/08/11(木)23:55 ID:9hcmDgkw(2/2) AAS
線香もローソクもやめた方がいい。呼吸を細くするために邪魔でしかない。
掛け軸などの小道具もいらない。何もいらない。ただ座ればいい。
わたしもできなかったが、結跏趺坐ができなければ、
尻の下に枕を置くといい。パイプ枕なら高さを調節できるので重宝する。
 
住んでいる場所にもよるが、坐禅をするなら春か秋だろうか。
夏は暑くてダメだし、冬は寒くてダメ。
省1
315: 2011/08/12(金)00:21 ID:A/jV/xPU(1/3) AAS
坐禅をする時は半眼でやる。
半眼でやるのは、坐禅中に眠らないためと、魔境に入らないためである。
これが坐禅の基本である。釈迦像を見ても半眼でやっている。
 
坐禅は半眼でやる。→ ここから重要なことがわかる。
坐禅中の体験は梵我一如か霊魂(アートマン)体験だから、
半眼を基本にする以上、その禅は梵我一如を目指していることになる。
省4
316: 2011/08/12(金)00:48 ID:A/jV/xPU(2/3) AAS
坐禅にしても瞑想にしても、聖霊体験をしてから始めるべきだろうと思う。
しかし日本では、いきなり坐禅を始めるのが当たり前になっている。
そこでわたしがやっていたことを参考までに書いてみた。
 
聖霊体験が至難の技だから、まあ好きなようにやってください、
としか言いようがない。興味があるなら聖書のヨブ記を読んでみるがいい。
それを読めば聖霊体験がどれほどのものかがわかるだろう。
317: 2011/08/12(金)01:14 ID:A/jV/xPU(3/3) AAS
いままでの話から、わたしがどんな坐禅をしていたかがわかるだろう。
絶対にマネしてほしくないのだが、周囲を真っ暗にし、
さらにその上、目を閉じてやっていた。
 
ウソかホントかわからないが、虚空蔵求聞持法に挑んだ僧侶の死亡率は
50%にもなるという。やるなら、それぐらいの覚悟がいる。
わたしには関係ない。自分の責任でやってほしい。
318: 2011/08/12(金)10:50 ID:I3SGlUI1(1/3) AAS
空海、釈迦、十牛図などに、満月や明けの明星が出てくるのは、
かれらがまだ暗いうちに起き、坐禅に打ち込んだことを意味している。
静かだし、涼しいし、周囲はまだ暗闇である。腹の空き具合もいい。
夜が明ける前、これが坐禅には持って来いなのである。
319: 2011/08/12(金)11:29 ID:I3SGlUI1(2/3) AAS
日本人では、空海と夢窓が霊魂(アートマン)体験をしたろうと思う。
記録がないだけで、まだ他にもいるのかもしれない。
 
なぜ周囲に話さないのか、なぜ詳しい記録を残さないのか。
その理由を整理するのは骨なので、要するに言えば、
だれかに口止めされたかのように、何かを話したいとは思わないのだろう。
情報の乏しい昔は、なおさら沈黙したろうと思う。
320: 2011/08/12(金)11:55 ID:I3SGlUI1(3/3) AAS
それほど霊魂体験(聖霊体験も同じ)は語りにくいのだが、
空海も夢窓も、わかる人にはわかるように、少しだけ自分の体験を語り、
後続への道しるべを残している。
 
空海・・・『三教指帰』序「谷響きを惜しまず、明星来影す」
夢窓・・・『夢中問答集』「いかなるか典外の法」「八角磨鏡、空裏を走る」
321: 2011/08/12(金)21:33 ID:Ijd3GRvX(1/2) AAS
いまはネットで坐禅作法を知ることができる。
それなりの手引書がほしいなら、昔から『天台小止観』がある。
ただこれは正規と簡略と二種類ある。簡略本(流布本)が読みやすい。
簡略本がなければ、正規本を読み飛ばすのもいいだろう。
322: 2011/08/12(金)22:08 ID:Ijd3GRvX(2/2) AAS
坐禅の源流はインドのヨーガにある。
その中でも、古典ヨーガ学派の、八支ヨーガである。
八支ヨーガについて興味があるなら、ネットなどで調べてほしい。
 
これはラージャヨーガ(王のヨーガという意味)とも言う。
天台小止観より、むしろわかりやすいかもしれない。
 
省3
323: 2011/08/13(土)18:46 ID:cnC/ZqLC(1/8) AAS
★ ★ ★
 
坐禅から話題を変えよう。救いや悟りが必要になるような仕組み、
そういった世界の仕組みをテーマにしてみたいと思う。
324: 2011/08/13(土)19:24 ID:cnC/ZqLC(2/8) AAS
このテーマを扱うには、神、人間、両者の関係をある程度定義し、
その中で救いや悟りを考えなくてはならない。
 
もちろん定義自体を検討する必要がある。
しかし、このふたつを分けて議論した方が混乱しないだろう。
分けた上で議論するなら、それはそれできわめて有意義ではないかと思う。
また、人間には男も女もいるのだから、それも考慮すべきである。
325: 2011/08/13(土)19:32 ID:cnC/ZqLC(3/8) AAS
大昔から現在に至るまで、宗教の問題は男性中心に考えられ、
女性のことが蔑ろにされていたのではないか、という疑問を感じている。
 
神々の世界においても、男神が中心、女神は第二の性に甘んじている。
それはいったいなぜなのか。男女の協力がなければ世界が成立しないのに、
不公平ではないのかと、男であるわたしでさえ思うのだ。
そろそろこんな状況に終止符を打ちたいものである。
326: 2011/08/13(土)20:23 ID:cnC/ZqLC(4/8) AAS
まず神が存在するとしよう。この神は(いのち)である。
神は、善そのものであり、正義そのものであり、永遠の存在でもある。
神は普遍的であり、同時に、生き物の霊魂として個別的でもある。
 
生き物は、神(いのち)と物質からなる存在である。
それゆえこの世界は、神と生き物と物質とに区別できることになる。
327
(1): 2011/08/13(土)20:50 ID:cnC/ZqLC(5/8) AAS
別スレでも使ったが、この関係を「四句分別」で整理しよう。
 
ここで神と物質は、ビッグバンによって同時に誕生したと仮定する。
二元論の採用・・・神と物質は、反発しながら、凹凸のような関係にある。
 
@ ビッグバン以前の虚無を意味する → 大き目の四角形を描く。
A そこに、神=Aの円、物質=Bの円を、少し重ねて描く。
省2
328: 2011/08/13(土)21:18 ID:cnC/ZqLC(6/8) AAS
神は、Aの円(Bとの重なりを含む)である。
物質(この世界)は、Bの円(Aとの重なりを含む)である。
 
人間は、AかつB、神(いのち)であり、同時に物質である。
しかし神は物質ではないから、AかつBという状態は矛盾している。
この矛盾から、人間とは何か、という永遠のテーマが発生する。 
329: 2011/08/13(土)22:47 ID:cnC/ZqLC(7/8) AAS
人間(生き物)は、AかつBの、矛盾した状態を生きている。
神(いのち)と肉体(物質)を同時に生きている。
 
この仮説が正しければ、救いと悟りには二つの方法が考えられる。
神(いのち)を知るには、@肉体(物質)を意志力で否定するか、
A実際に肉体(物質)から抜け出るか、である。
 
省2
330: 2011/08/13(土)23:03 ID:cnC/ZqLC(8/8) AAS
この方法論は、神(いのち)を知ることにおいて、男も女も同じである。
男でも非常に困難なのに、女はどうやって可能になるのか。
 
ヨブ記を読めば、聖霊体験の困難さがわかるだろう。
目を開けたまま、自分の意志で、自分の肉体(物質)を切り刻むのは、
発狂するような苦しみである。ほんの少しでも譲れない。

空海の死ぬほどの苦労を知れば、霊魂体験の困難さもわかるだろう。
省1
331: 2011/08/14(日)07:16 ID:KSDmgIrs(1/11) AAS
人間は、神(いのち)と肉体(物質)からなる矛盾した存在である。
これだけでは、まだそこに善も悪も登場しない。
しかし、神を善なるものとした時、その相手方である悪も登場してくる。
悪なるものの正体は物質である。それ以外に何もないからである。
332: 2011/08/14(日)07:31 ID:KSDmgIrs(2/11) AAS
人間は物質が悪であるとは思っていない。なぜなら物質によって生き、
物質の有り難さを百も承知しているからである。
 
そのため、神を善なるものと考えるとき、その相手方は物質ではなく、
悪魔、悪霊、死霊、呪い、罪深さやケガレなど置き換えられる。
その正体(物質)を無意識の世界に隠してしまう。
 
省2
333: 2011/08/14(日)07:50 ID:KSDmgIrs(3/11) AAS
神と物質が無関係に存在するだけなら、この世は死の世界である。
神と物質が関係することによって、生き物が誕生する。
 
この地上に人間や生き物がいるのは、苦しみ、罪にまみれるためではなく、
人間や生き物が神の目的になっているからではないのか。神の目的とし、
物質の目的としないのは、物質に意識があるとは考えられないからである。
ただし、意識の有無に関係なく、神と物質は対等な存在である。
334: 2011/08/14(日)08:12 ID:KSDmgIrs(4/11) AAS
神の目的は、この地上に人間や生き物を誕生させることにある?
そう考えないと、人間や生き物の存在を否定しなければならなくなる。
しかしこの考え方には異論もあると思う。
 
アミダ教やキリスト教やイスラム教は、ほんとうの人生は死後にあり、
極楽や天国や楽園での生活にあるのだと教えている。
グノーシスは至高神を設定し、この世を悪神の失敗作として切り捨てる。
省3
335: 2011/08/14(日)08:23 ID:KSDmgIrs(5/11) AAS
いずれにしろ、この世を否定する考え方には、基本的な欠陥があると思う。
いやなら死ねばいい。しかし簡単に死ねないのは、人間や生き物が元来、
この世で生きていくように設計されているからではないのか。
 
わりに現実肯定的な教えは、神道、ユダヤ教、儒教、道教などだろうか。
スキのない精緻さ、練り上げた宗教哲学は欠けるが、これらを土台に、
新しい宗教を構築していく必要があるのではないかと思う。
336: 2011/08/14(日)08:49 ID:KSDmgIrs(6/11) AAS
男と女は、この世(肉体・物質)に執着する度合いが根本的に違う。
一般的に言えば、弱い者、幼い者の方が自己愛が強く、この世に執着する。
なぜなら、そうでなければ、この世で育たないからである。
 
女性・子供・障害者・孤児などは、自己愛が強く、物質への執着心も強い。
それは当然なのであって、そうでなければ生きていけないからである。
こういった心の動きは、神が用意したものだろうと思う。
337: 2011/08/14(日)09:05 ID:KSDmgIrs(7/11) AAS
自己愛や執着心は、褒めるべきでもないが、けなすべきでもない。
それらは罪でもなければ、軽蔑すべきものでもない。
かれらは精一杯生きているだけである、などと思うべきなのだろう。
 
ただ、それが度を越せば、周囲は迷惑だなあ。
だんだん人が遠ざかって行くだろう。→ これが自然の流れである。
そうされたらかれらも軌道修正する。→ これが自然の流れである。
省3
338: 2011/08/14(日)10:26 ID:KSDmgIrs(8/11) AAS
弱い者、幼い者が自己愛が強く、執着心が強いのは当然である。
しかし、成長した時、自分が強くなった時、相手が自分より弱い時は、
自己愛から離れ、執着心からも離れるべきである。
相手への思いやりを学ばなくてはならない。これは男も女も同じである。
 
世間ズレした大の男が自分中心に行動するなら、
周囲にとっては危険きわまりがない。そういった男は周囲の災いである。
省2
339: 2011/08/14(日)11:03 ID:KSDmgIrs(9/11) AAS
男は家族を守り、所属する共同体のために戦わなければならない。
だから、死を直感し、生きる意味を探し始める。
男の重大な関心は、神探しであり、神がいるのかいないのかにつきる。
 
女は、子供を産み、育てなければならない。
そのためには、だれかの助けが欠かせない。自分の弱さを感じるがゆえに、
だれかに愛されたいという思いと、生活を成り立たせる物質への執着心に
省4
340: 2011/08/14(日)11:37 ID:KSDmgIrs(10/11) AAS
男は神探しをし、女は大地へと向かう。これは一般論に過ぎないが、
人類史上、ナントカ神と名がつく存在を考え出したのは、
すべて男だったのではないかと思う。
 
だからたとえば、ヒンズー教におけるシバ神の妻、パールヴァティーも、
ドゥルガーも、カーリーも、インドの男性が考え出したものであり、
男性の女性観がイメージされているのではないだろうか。
省3
341: 2011/08/14(日)11:56 ID:KSDmgIrs(11/11) AAS
女性が地母神として崇拝されたのは、土地が広く、自然が豊かであり、
子供がいくらでもほしい時代だった、からではないだろうか。
 
その後、人口が増え、土地を争うようになれば、働き手としても、
兵士としても男が必要であり、女の地位が低下していく。
地母神は見捨てられ、男神が信仰の中心になる。
 
省3
342
(1): Johannes 2011/08/14(日)14:07 ID:U4TijgGb(1) AAS
>>327の最初の前提に誤りがあれば、以後演繹された全ては誤りとなる。
そして最初の前提が正しいとは思えない。
343: 2011/08/14(日)18:24 ID:Pk98gFuU(1/5) AAS
>>342
もちろん絶対に正しいとは思わない。暫定的な仮説にすぎない。
女性の救い、女神や地母神など、ヨハネスに持論があるなら聞いてみたい。
こういったテーマは、宗教板になかったのではないだろうか。
344: 2011/08/14(日)20:25 ID:Pk98gFuU(2/5) AAS
すべての男性は、女性である母親から生まれ、育てられる。
もちろん例外はあるだろうが、男性は母親に対して恩恵を感じている。
   
あらゆる女性を将来の母親と思えば、女性に対する尊敬の念も湧き、
思いやりや優しさを示せるのではないだろうか。母親扱いせよ、ではなく、
母親に対するような思いやりや優しさを示せ、と言う話である。
そういう思いが常識になれば、女性だけでなく男性も大事にされるだろう。
省3
345: 2011/08/14(日)22:46 ID:Pk98gFuU(3/5) AAS
もう少し掘り下げるため、創世記3章「蛇の誘惑」を取り上げよう。
 
ここにある話は、パウロが原罪として指摘する、人類史上の大事件である。
もちろんキリスト教上の大事件だが、これがイエスの十字架による贖罪に
直結するのである。まさにキリスト教成立の土台と言っていい。
 
物質の魅力に負け、神の命令に背いてしまう。これが原罪である。
省2
346: 2011/08/14(日)23:01 ID:Pk98gFuU(4/5) AAS
しかし、四句分別で読めば、まったく違う話になる。
 
人間にしろ生き物にしろ、この地上に根付くのは簡単ではない。
簡単ではないから、地上に根付くように本能が備えられているのである。
自己愛とか、自分中心とかも、神によって備えられた本能である。
 
だから、そういった傾向は罪でもないし、仏教で言う無明でもない。
省2
347: 2011/08/14(日)23:41 ID:Pk98gFuU(5/5) AAS
とはいえ、生涯、自己愛と自分中心でいいかと言えば、そうではない。
そういった傾向から離れ、卒業しなければならない。
それが成人になる、大人になるという意味なのだろうと思う。
  
しかし実際には、なかなか卒業できない。
物質の円を生きているうちはダメ、神の円を知ることによって卒業できる。
言い換えれば、神を知るかどうかが分かれ道になる。
348: 2011/08/15(月)17:57 ID:sERY6JLW(1/5) AAS
神が人間に、自己愛や自分中心を備えたのである。
原罪など存在しない。あるいは仏教の無明など存在しない。
人間は常に、精一杯生きているだけだ。
349: 2011/08/15(月)18:23 ID:sERY6JLW(2/5) AAS
しかし成長するに従い、自己愛や自分中心から卒業しなければならない。
精一杯生きるだけでは足りない。上手に生きることも必要である。
  
精一杯描いたのだから、どの絵も値打ちがあり、どの絵にも上下などない、
という評価の仕方もあるだろう。その一方で、絵には上手下手がある。
同じ描くなら、上手に描きたいものである。
  
省2
350
(1): 2011/08/15(月)19:07 ID:sERY6JLW(3/5) AAS
自己愛や自分中心から、いずれは卒業しなければならない。
しかし卒業にこだわれば、それらは原罪だというパウロの主張につながる。
あるいは仏教の無明につながる。
 
だが、原罪や無明という発想には、神の偉大さへの謙虚さが欠けている。
自己愛も自分中心もなければ、生き物はすべて地上から消えてしまうだろう。
生きようとする気力がないから、みんな抜け毛のように死に絶える。
省1
351
(1): 2011/08/15(月)19:19 ID:sERY6JLW(4/5) AAS
パウロは旧約の創造神を否定しているような印象を受ける。
イエスを神の如く祭り上げるが、そのくせ生前のイエスには興味を示さない。
 
新興宗教を立ち上げようという、狂ったような情熱を感じるのだが、
旧約の創造神への信仰がほんとうにあったのかどうか疑問。
かれの信仰の深さを検証すべきかもしれない。
352: 2011/08/15(月)21:37 ID:sERY6JLW(5/5) AAS
もうひとつ注意すべきなのは、四句分別でわかるように、
人間は、AかつBという矛盾、神(いのち)と物質を同時に生きている。
それなのに、聖霊体験や霊魂体験ができる特殊な生物でもある。
 
こういった体験は、自己愛や自分中心から離れるために効果がある。
しかし体験した後は、再び矛盾した存在を生きなければならない。
それでは何も変わらないではないか、と言えば、そうではない。
省3
353: 2011/08/17(水)16:55 ID:nLURYv3z(1/4) AAS
★ ★ ★
 
キリスト教の原罪論、仏教の無明論(十二因縁)は間違っている。
人間の精神は、青虫→さなぎ→チョウという、変態にも似た成長をする。
あらゆる信仰はこの成長論を新しい土台にすべきである。
 
354
(1): 2011/08/17(水)17:11 ID:YMJwBaBS(1/3) AAS
>>350
イエスの教えには「隣人を自分のように愛しなさい」とある。
パウロも「キリストがしたように、夫は自分の体のように妻を愛しなさい」と教えた。
自分を愛せない人は他人を愛することなどできない。よって卒業しなくてよい。

>>351
ローマ書を読めば?
創造神を肯定し、イエスの役割の重要性を説いていることが分かるだろ?
省1
355
(1): 2011/08/17(水)17:12 ID:nLURYv3z(2/4) AAS
青虫の時期は成長のために欠かせない。
しかし問題なのは、いつまでも青虫の状態を続けることにある。
同じことは、自分に閉じこもる、さなぎ状態にも言える。
 
時期が来たら、自己愛や自分中心に生きることをやめ、
神を信じ、信仰の道に入らなければならない。
華麗に変身する、それを教えるのが真の宗教ではないだろうか。
省1
356: ターリ ◆gj/PBgopxU 2011/08/17(水)17:19 ID:iJEoi4cV(1/3) AAS
神中心って言ってる奴は自分中心ゆえの神中心になってないか気をつけてね。
357
(2): 2011/08/17(水)17:22 ID:nLURYv3z(3/4) AAS
>>354
大間違いです。
 
ヨハネ伝15−13「友のために自分の命を捨てること、これ以上に
大きな愛はない。」自己愛を否定することで利他愛が成立する。
 
パウロは、イエスを神の如くに祭り上げ、十戒の第一に違反する。
358
(2): 2011/08/17(水)17:23 ID:YMJwBaBS(2/3) AAS
>>355
ローマ 12章 2節
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、
何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる
ようになりなさい。

この「変える」は字義的には「変態(青虫から蝶への変化)」を表す。
「いただく」とあるから自力でするのではなく、神に頼り、神主導で変わることを謙虚に認めるべき。
359
(1): ターリ ◆gj/PBgopxU 2011/08/17(水)17:23 ID:iJEoi4cV(2/3) AAS
>>357
その意味での利他愛を他人に勧めることは自己愛じゃないですか?
360: Johannes 2011/08/17(水)17:43 ID:TCo85n6d(1/3) AAS
基督教が偽善的と言われる所以だ。
361
(2): 2011/08/17(水)17:44 ID:YMJwBaBS(3/3) AAS
>>357
「隣人を自分のように愛しなさい」これは自己愛と利他愛が両立しているぞ。
イエスは隣人愛の最大のものについて語ったんですよ。常に命張れとは教えていないよ。
イエスはぶどう酒を飲み、食事も楽しんだ。逆にイエスは奇跡によってぶどう酒や
食べ物を人々にふるまった。これは両立していないでしょうか?

コリントの信徒への手紙一 11章 3節
ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、
省2
362
(1): 2011/08/17(水)17:47 ID:nLURYv3z(4/4) AAS
>>358
引用した章節もそうなのだが、パウロは肉体を否定することで一貫し、
死んだ者のように生きることを勧めている。
神はこの世を良しとするのだから、パウロの考えは誤りでしょう。
>>359
利他愛は簡単ではないと思う。奥の奥で自己愛と絡み合っている。
結局は自分のためというケースがほとんどでしょうね。
省1
363: Johannes 2011/08/17(水)17:51 ID:TCo85n6d(2/3) AAS
基督教徒は偽善の愛と一緒に必ず唯一創造神も押し売りする。
それを拒否すると殺戮神ヤハウェが姿を現して神の正義の名において異教徒を滅ぼせと猛り狂う。

それがキリスト教の有りの侭の姿に他ならない。
364
(1): シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM 2011/08/17(水)18:02 ID:abx5mKFU(1/2) AAS
旧約の幹にイエスの教えを無理やり接ぎ木するのは止めようぜw
その根幹を否定したのがイエスなんだよw
パウロの実存論的救済観(肉体を蔑視し、本性の救済を説く)も
グノーシスを含めた当時の時代思潮で、無理やり古臭いユダヤ民族主義で矯正して考える必要はねえよw
365: 2011/08/17(水)18:05 ID:WPbJvERE(1/11) AAS
>>361
十字架によって人間の罪が赦され、イエスには人間の罪を裁く力もある。
イエスは神の如き存在です。神とイエスと聖霊は一体だと言う、
三位一体の原点はパウロにあるのではないでしょうか。
366
(1): ターリ ◆gj/PBgopxU 2011/08/17(水)18:06 ID:iJEoi4cV(3/3) AAS
>>362
なに、その聖霊体験とか霊魂体験だとか。
その体験が無い人は自己愛しか出来ないとでも?
結局キリスト教徒を胡散臭い体験で上位に置く構図だね。
367: 2011/08/17(水)18:16 ID:WPbJvERE(2/11) AAS
>>366
人間は、神(いのち)と物質(肉体)という矛盾を生きている。
神のような愛を表現することは、物質(肉体)を否定することになる。
そんな愛は日常的に表現できるものではない。
 
話を誤解している。このスレの前の方も少し読んでほしい。
368: シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM 2011/08/17(水)18:20 ID:abx5mKFU(2/2) AAS
聖霊体験って自己啓発セミナーとかで洗脳されたやつが感じるあれでしょ?
369: Johannes 2011/08/17(水)18:31 ID:TCo85n6d(3/3) AAS
お帰り。シモン・グノーシス

君はいつもいいことを言う>>364は図星だ。
370: 2011/08/17(水)18:31 ID:WPbJvERE(3/11) AAS
ヨハネスが言うように、新約と旧約の神観は異なっている。
 
新約の神は実質イエスである。キリスト教徒はイエスに祈るのであり、
創造神に祈るのではない。イエスに祈るのは自由だが、個人的には、
イエスは地上で飲み食いした、ただの人間にしか見えない。
 
旧約は「唯一神がいる」というメッセージとして読むべきだろう。
371: 2011/08/17(水)19:10 ID:WPbJvERE(4/11) AAS
人間の精神は「青虫→さなぎ→チョウ」という成長過程をたどる、
という話は、昔からけっこうあるのではないだろうか。
プラトンにもあったような気がする。
かりにそうでなくても、静かに思えば多少の心当たりもあるだろう。
 
それがどうした? ではなく、繰り返しになるが、
この話は、キリスト教の原罪、仏教の無明を否定しているのである。
省1
372
(1): 2011/08/17(水)19:29 ID:WPbJvERE(5/11) AAS
★ ★ ★
さらに話を進めよう。問題は死後の世界である。
はたして霊体や霊界は存在するのか。輪廻転生はありえるのか。
 
あらゆる生き物は霊魂を持っている。
霊魂は神(いのち)に由来するから、肉体(物質)が滅んでも死ぬことはない。
死んだ肉体から抜け出して生き続ける。その場合、霊魂だけでなく、
省3
373: 2011/08/17(水)19:44 ID:WPbJvERE(6/11) AAS
精神の成長「青虫→さなぎ→チョウ」は死後の世界と関連させることで、
その意味内容がさらに明確になる。死ねば消えてしまうのではなく、
その人間の精神レベルがあの世に持ち越されるのである。
 
自己愛と自分中心でこの世の春を謳歌して何が悪い。
はた迷惑なこの主張は、死後の世界が登場することで粉砕される。
霊界では、生前の思いが徹底的に問われるのである。
省3
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