[過去ログ] キリスト教なんでも質問箱 (1001レス)
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235: シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM 2011/08/06(土)21:18 ID:mGYUiIZR(4/7) AAS
>>231

だから、それも日常言語としてのギリシア語を前提とした辞書的な語彙であって、
哲学用語として神秘性を帯びた世界の原理・秩序・神性としてのロゴスの意味とは完全に合致しないんだよ。
ヨハネ伝以前にストア派はロゴスを神と同視していたし、であれば、無理に日常言語の語彙に拘らず、
哲学用語として「ロゴス」と訳しておくべき。
236: 2011/08/06(土)21:19 ID:tRBEKFkr(4/9) AAS
聖書で「ロゴス」は「み言葉」であり、神の真理を意味する。
だから、「み言葉」は、主であるキリストを意味する。
神の真理とは、神の愛であり神の英知のこと。
この中に神の全能があるということ。
237: 2011/08/06(土)21:21 ID:tRBEKFkr(5/9) AAS
グノーシスの言ってる叡智ってどこから来るの? 
人の理性はどこに起源があるの? 脳みそから?
238
(1): シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM 2011/08/06(土)21:22 ID:mGYUiIZR(5/7) AAS
お前のスエ〜デンボルグ語って宇宙人言語だろw
俺らには読解不可能だから金星人とでも話してろw
239: 2011/08/06(土)21:26 ID:tRBEKFkr(6/9) AAS
>>238
答えられないのか?
240: 2011/08/06(土)21:28 ID:tRBEKFkr(7/9) AAS
クズ哲学^^
241: シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM 2011/08/06(土)21:30 ID:mGYUiIZR(6/7) AAS
人間の知的能力は全部脳みその産物だよ。
当たり前の話だろw
242: 2011/08/06(土)21:38 ID:Y34QShDm(1) AAS
アラム語で言葉を意味する語って、ギリシャ語のロゴスとは
かなりニュアンスが違うのかな。
243: 2011/08/06(土)21:39 ID:tRBEKFkr(8/9) AAS
みなさん、これがグノーシス哲学の本質だそうです。
もうグノーシスは唯物論そのものですね^^ ほほー
244: シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM 2011/08/06(土)21:40 ID:mGYUiIZR(7/7) AAS
ってかヨハネ伝は最初からギリシア語で書かれてるし、マルコ伝と違って
アラム語で考えた思想をギリシア語に転置する思考の跡も文献学的に認められないから、
アラム語でロゴスがどうとか考える意味もない。
245: 2011/08/06(土)21:57 ID:tRBEKFkr(9/9) AAS
ロゴス/ことば/言葉
「ロゴス」は古典ギリシャ語からヘレニズム時代のコイネー・ギリシャ語に至るまで、
人間の言語活動と理性に関わる実に幅広い意味で用いられた。
それは発言、発話、表現、噂、事柄、計算、知らせ、講話、物語、書物、根拠、意義、
考察、教えといった日常用語のレベルから、「世界理性」や「指導的理性」などの
哲学的述語(ストア派)のレベルにまでわたっている。

ナグ・ハマディ文書を含むグノーシス主義文書は、前者の日常的な語義での用法も、
省3
246: 2011/08/06(土)22:37 ID:r8i5IN8i(1/3) AAS
>>229
まず、あなたの感想を書いてくれたらよかったのにー
247: 2011/08/06(土)22:50 ID:r8i5IN8i(2/3) AAS
>>228
ネットがあるから、テレビも新聞もやめたのですねー
 
やめてみて気がついたのは、PCニュースに羅列されている項目を、
どう選択するかに頭を使うことだろうか。自分なりの編集をしている。
取材はマスコミだが、それを自分で料理して食べている。
248: 2011/08/06(土)23:08 ID:r8i5IN8i(3/3) AAS
言霊・・・言葉が人間に強い影響を与えることは経験的な事実であり、
それを知ることで言葉を操る祭司が登場する。そんなことは当たり前であり、
わざわざ言われなくても知っている、では足りない。
 
言葉の力を学び、実際に利用することで言霊というものが成立する。
言葉には人間を左右する力がある。これが言霊である。
249
(1): Johannes 2011/08/06(土)23:48 ID:rFw3XXeb(1) AAS
言霊は音声ばかりではなく文字にも宿るものである。
2chの書き込みで腹を立てたり傷つくこともあるだろう。
それはオンラインでディスプレイを通しても言霊が作用している証拠である。

「言霊」には個人の意識に直接働きかけるものが一般的である。(しかし特殊な言霊もある)
また「念」は言霊に類似しているが、一般に言霊が主に聴覚・視覚から意識へと伝搬し、更に自律神経から全身へと作用するのに対し、
念は無意識に入り込み、そこから自律神経を通して全身に作用するし、また一方で意識へ作用する。
例えば誰かに呪いを掛けた場合(それには或る要件を満たす必要がある)、
省4
250: 2011/08/07(日)00:16 ID:/bAoSGmP(1/2) AAS
>>249
ヨハネスさんの話には全面的に同意したい。
 
そこでさらに、言葉だけでなく、映像にも力があり、行為にも力がある、
のではないかと。聖書にもそういった話が出てくる。
ホセア書、エゼキエル書4〜5章、エレミヤ書などには、預言者が未来を
象徴的に演じると、それがやがて現実になる。
251: 2011/08/07(日)00:39 ID:/bAoSGmP(2/2) AAS
言葉、映像、行為を象徴的に演じる → それがやがて現実になる。
ワラ人形に五寸釘を打ち込むのも、同じ文脈にある。
 
この成り行きが呪術の基本的な構造なのだが、
これこそが信仰の正体ではないのか。
 
つまり、信仰は精神と肉体との関係であり、
省3
252
(1): Johannes 2011/08/07(日)02:03 ID:zH32gTQ6(1/12) AAS
人は心構えと日常の実践を通して神仏にも悪鬼夜叉にもなり得る。
もし自らの存在を平安(憎しみ怒り恐れ悲しみを克服した清らかで穏やかな慈悲に満ちた)な存在としたければ、
深く「仏法僧」に帰依する道こそ確実であろう。神仏になるとはそういうことなのだ。

その為には正しい修行が必要である。それは難しいものではなくお金が掛かることでもない。
ただ継続することが必要となる。

修業とは神仏と一体となること(即身成仏)に他ならない。
それはその時だけのことではあるが日々継続するうちに徐々に自我が変化して行く。
省7
253: 2011/08/07(日)10:02 ID:KOPNKnfv(1/8) AAS
>>252
いろいろ大切なことが書き込まれている。→ いずれ取り上げたい。
なかでも最後の文、「理性と感性を研ぎ澄ませる」という話には納得する。
ぼんやり眺めていてはダメ。耳を澄まし、肌で感じることが大切ですね。
それらをもとに、ほんの少し考える。
254: 2011/08/07(日)10:44 ID:KOPNKnfv(2/8) AAS
正月やお盆の習慣は、親族の霊を家に迎え、供養し、家族の無病息災を願い、
また元の場所にお帰りいただく、という話である。ここで重要なのは、
親族の霊がそこにいる【かのように】もてなすことである。
 
密教の修行もこれと同じである。大日如来や不動明王を迎え、供養し、
鎮護国家などを願い、また元の場所にお帰りいただく、という話である。
やはり、大日如来などが真実そこにいる【かのように】行われる。
省1
255: 2011/08/07(日)11:13 ID:KOPNKnfv(3/8) AAS
少なくても密教の修法は、インドのプージャ(供養)に源流がある。
基本は供養である。ただ本尊が目的に応じて入れ変わり、
供養の道具立ても少しづつ変わっていく。
 
密教で求められるものは、如来や明王をまざまざとイメージするような、
イメージ形成力である。月輪観は心に月をイメージし、それを操る。
阿字観は梵字の阿字から大日如来をイメージする。
省4
256: 2011/08/07(日)11:29 ID:KOPNKnfv(4/8) AAS
密教はイメージ形成力を重視する。それと同時に、それを補助する道具にも
きわめて強い関心を持っている。マンダラや真言や印である。
 
要するに、人間の心に、明瞭なイメージを形成しようという意図がある。
密教僧はそのイメージに祈り、そのイメージを操作するわけである。
 
そのイメージが、実際に神仏と関係しているかどうかは疑問である。
省2
257: 2011/08/07(日)11:46 ID:KOPNKnfv(5/8) AAS
さらにいえば、エゼキエル書4章の方がより明瞭なイメージになる。
エゼキエルが作る箱庭の中にイスラエルの未来が示される。
 
人の子よ、れんがを一つ取って目の前に置き、その上に都であるエルサレムを
刻みなさい。そして、これを包囲し、これに向かって堡塁を建て、塁を築き、
陣営を敷き、破城槌を周囲に配備しなさい。自ら鉄の板を取り、それを自分と
都との間に鉄の壁をとし、あなたの顔を都に向けなさい。
省3
258
(1): 2011/08/07(日)12:07 ID:KOPNKnfv(6/8) AAS
いままでの話で、密教(真言、天台)が何をやっているのか、
おおよその見当がついたのではないかと思う。
 
意外や、人間とは何か、神仏とは何かをまじめに追求しているのではない。
心の中に、神仏をイメージし、これを操ろうという話である。
呪術を中心に構築された宗教と言っていいだろう。
 
省1
259: 2011/08/07(日)13:24 ID:KOPNKnfv(7/8) AAS
空海は24歳のころ、虚空蔵求聞持法で悟ったと言われる。
この法は雑密(密教)であり、虚空蔵菩薩を供養するものである。
かれは、室戸岬で修法中、明けの明星がやって来るのを見る。

そのころの空海が、貧しかったことを思えば、修法の重点は供養より、
求聞持法の眼目である、陀羅尼をひたすら唱えることだったろうと思われる。
つまりかれは、陀羅尼をひたすら唱えていた、ということである。
 
省2
260: 2011/08/07(日)14:31 ID:KOPNKnfv(8/8) AAS
空海の修行と、現在の密教とを比較すれば、何か変だと思わないか。
イメージの形成力も大事だろう。しかし空海は、陀羅尼を反復して解脱した
のではないか。空海をまねたらいいのに。
 
月輪観、阿字観などの、密教の観想法では解脱できないと思う。
さらに言えば、真言、陀羅尼、法具、マンダラ、印形なども邪魔でしかない。
現在の密教路線は、解脱の方法としてまちがっているように思う。
261
(5): Johannes 2011/08/07(日)15:33 ID:zH32gTQ6(2/12) AAS
先にも書き込んだが言霊を甘く見てはいけない。
「真言」は言霊とよく似ているが厳密には異なる。
真言を唱えるならばその音声には霊的波動があって必ず御仏に通じ且つ御仏が現れる。
何も感じないかも知れないがそれは事実である。

真言の霊的波動は阿頼耶識の深奥に達し、それはこの世界の何処へでも通じるのであるが、
その阿頼耶識(意識世界)と此の世(物理世界)がどのように連続した構造になっているのかまでは分らない。

御仏や御先祖の霊がそこにいる「いるかのよう」に考えるのは最初に必要な基本的な心の持ちようである。
省13
262
(2): 2011/08/07(日)18:14 ID:Sf8Ztdx6(1/3) AAS
o come, o come, emmanuel 賛美歌94番を聴いてはまりました。 日本語訳だと意味がわかるのですが

英語の歌詞だとイスラエルが出てきますよね。旧約は、ほとんど、知らないので( 歴史的な概略は多少知識があるのですが)
意味がピンときません。

意味や解説などをお教えください。
異邦人の神ということで日本人のみならず世界との接点が出来るのに イスラエルという国をみなさんはどう捉えていますか?
263
(1): Johannes 2011/08/07(日)18:31 ID:zH32gTQ6(3/12) AAS
>>262
【ヤハウェ(エホバ)の正体は悪魔である】

あなたがた(ユダヤ人)は自分の父(ヤハウェ=エホバ)、すなわち、悪魔(ヤハウェ=エホバ)から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。
彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。
彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。 (ヨハネ福音書 8:44 キリストの言葉)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【ヤハウェ(エホバ)が悪魔である証拠】
省16
264: 2011/08/07(日)19:17 ID:Rr46novp(1/9) AAS
>>261
真言については、インドの言葉(サンスクリット)ぐらいの認識しかない。
いまのところ日本語以上の意味を持つとは考えられない。
ただヨハネスさんの指摘は覚えておく。やがてピンとくるかもしれない。
265
(1): 2011/08/07(日)19:24 ID:Rr46novp(2/9) AAS
>>261
言葉の定義ですが、唯識のマナ識、アラヤ識をどう見ますか。
 
フロイトなら意識、無意識(マナ識・アラヤ識)だろうと思う。
ユングだと意識、無意識(マナ識)、集合的無意識(アラヤ識)ですか。
266
(1): Johannes 2011/08/07(日)19:34 ID:zH32gTQ6(4/12) AAS
>>262
 (動画) 動画リンク[YouTube]  
 (以下、コピペです)
O come, O come, Emmanuel,
いらっしゃい、いらっしゃい、イマヌエル
And ransom captive Israel,
(罪に)囚われているイスラエルを贖罪(しょくざい)して下さい。
省22
267: 2011/08/07(日)19:36 ID:Rr46novp(3/9) AAS
>>261
夢の重要性やシンクロニシティの話はよくわかる。
霊を見たことがあるので、霊界や霊の存在を100%認めている。
良夢や悪夢についても話してみたい。
どれを取り上げたらいいのやら、話してみたいテーマが多過ぎる。
268
(1): Johannes 2011/08/07(日)19:37 ID:zH32gTQ6(5/12) AAS
>>266 続き

※この歌詞に於ける「イスラエル」とはキリストの救いに感謝するキリスト教徒の心を、
救い主(=インマヌエル=イエズス・キリスト)を待ち望んでいた頃のイスラエルの人々の心に映して表現しているのです。
つまり、そのイスラエルの人々が待ち望んだ救いが実現した感謝と喜びと信仰の確認を意味しています。

キリスト教の聖歌などで使われる「イスラエル」とはキリストが統治する理想の王国のことであり、そのキリストの救いを得た人々のことです。
現在あるイスラエルという国家と国民のことではありません。

因みに、こちらの曲もどうぞ。霊性の高い曲です。
省1
269
(2): Johannes 2011/08/07(日)19:49 ID:zH32gTQ6(6/12) AAS
>>265
フロイトの説いた無意識とは抑圧された意識の押し込まれたゴミ箱のような潜在意識のことです。
フロイトにとって意識の主体とはあくまでも顕在意識のことなのです。

これに対してユングの発見した無意識とは個人的無意識と集合的無意識のことであり、
佛教の末那識・阿頼耶識と類似しています。(むしろユングは末那識・阿頼耶識からヒントを得た。)
ユングは意識の主体がむしろ無意識にあると考え自我自己同一性(アイデンティティ)の認識へと至りました。
270: 2011/08/07(日)19:52 ID:Rr46novp(4/9) AAS
>>261
仏教とキリスト教は、似ているところもあれば違うところもある。
まったく別物と割り切って学ぶのもひとつの方法だが、
違いは何かと迷いながら、探しながら学ぶのも方法ではないだろうか。
 
その際、仏教はこういったもの、キリスト教はこういったもの、という
おおよその「つかみ」が必要になる。これがけっこう大変だ。
省1
271: 2011/08/07(日)20:11 ID:Rr46novp(5/9) AAS
>>269
意識、個人的無意識(マナ識)、集団的無意識(アラヤ識)ですね。
 
ヨハネスさんの言葉の使い方を了解しましたが、
わたしの場合は、マナ識が夢の世界、アラヤ識も自分にウエイトがあり、
集団的無意識という見方はあまりしない。その集団的な部分は、
霊界という共通体験から生じるのではないかと思う。
省1
272: 2011/08/07(日)20:30 ID:Rr46novp(6/9) AAS
>>269
ヨハネスさんはフロイトとユングを正確に表現してくれたと思う。
わたしはフロイトしか知らないので、フロイトを語る以外にないのだが、
ゴミ箱のような無意識の捉え方、性的に理解する偏った夢判断など、
かれの曖昧さ、偏見などが逆に、そうじゃないだろうと刺激してくれた。
フロイトには、自分で考える余地があるような気がする。
 
省2
273: 2011/08/07(日)21:03 ID:Rr46novp(7/9) AAS
密教に話を戻せば、空海は求聞持法ですでに解脱しているのに、
なぜ呪術を中心にした密教を請来したのか。
 
自分の体験が何だったのかを知りたい、という思いもあったのだろう。 
それだけではなく、法灯を守るためには天皇を中心とする権力者の庇護が
必要だったからではないか。権力者と妥協する必要があった。
そのため密教の流れが呪術優先へと方向を変える。
省2
274: Johannes 2011/08/07(日)21:51 ID:zH32gTQ6(7/12) AAS
>>258 続き
「o come, o come, emmanuel」は、グレゴリオ聖歌「Rorate Caeli」を原形としているように思える。
かなりの類似性があると思える。

動画リンク[YouTube]
275: 2011/08/07(日)21:53 ID:Rr46novp(8/9) AAS
賛美歌の話を含め、ヨハネスさんには感謝したい。いろいろ学んだよ。
わたしがしっかり読んでいる(^^)
感謝の気持ちを表すため、夢についての奥義を話そう。
 
夢を変えよう。どうやって変える? 
夢の中でも優しく振舞う。そうしたら悪夢が良夢になる。
そのために、日ごろの「心がけ」が重要なのであり、
省1
276
(2): 2011/08/07(日)22:02 ID:Sf8Ztdx6(2/3) AAS
>>268 感謝する。つまり、キリストに従うものは、イスラエル人ということか

つーか、二重人格か君は? まず神のことを人如きが理解できるはずがない、でも、いてくださるのは、経験上、知っている
しなくても良い経験をしたからなw ただ、良くして下さる神に感謝するだけ、人なんか子羊ですらないよ、そうであるのにかえりみてくれる方に恩を感じるべき
身の程を知らないと後で困るのはお前だぞ、礼のつもりで言っておく。
277: 2011/08/07(日)22:08 ID:Rr46novp(9/9) AAS
>>276
そんなこと言うなよ。ヨハネスの誠意をつくづく感じるぞ。
278: Johannes 2011/08/07(日)22:55 ID:zH32gTQ6(8/12) AAS
>>276
何を興奮しているのかよく分らぬが事実を言ったまでのことだ。キリスト教(特にカトリック)ではそうだ、と云う事実なのだ。
有名なRorate Caeliは、日本語で「天よ、露を滴らせ」として知られている。待降節に歌われるものだ。
その歌詞四番がこれだ。

4. Consolamini, consolamini, popule meus :
コンソラミニ、コンソラミニ、ポプレ メウス:
慰められよ、我が民よ、慰められよ:
省19
279
(1): 2011/08/07(日)23:06 ID:Sf8Ztdx6(3/3) AAS
>>263と268が同一人物だとは思えなかっただけ、普通、信仰を持っていれば263の発言は否定するし

真言とか、滝行とか、断食とかやったけど一番強いのは、心から神を信じ恐れないことだよ。
結局、神が一番強いし、頼りになる。なぜ、キリストやブッダが魔法や呪術を禁じたのか今はよくわかる
信仰だけで充分だよ。
280: Johannes 2011/08/07(日)23:34 ID:zH32gTQ6(9/12) AAS
>>279
ああ。なるほど。俺はキリスト教会の教義と対立する独自論を展開しているから誤解されてもしょうがない。
Johannes論では、創世記の唯一創造神を否定する。故にクリスチャンとは対立することになる。
(過去レスから引用)
キリスト教の核心部分は「ヨハネ福音書14章から17章」に集約されている。
そのことに気付いた者は「ヨハネ第一の手紙」の価値を知るであろう。
ヨハネ福音書14章にある次のキリストの言葉は最終回答でありキリスト復活の真相を示唆する。
省14
281: Johannes 2011/08/07(日)23:36 ID:zH32gTQ6(10/12) AAS
ヨハネ福音書14章20節
「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。」

このキリストの言葉は実に大切である。キリストを受け入れる者は父と子の神と一体になる。つまり神として一体なると教えているのである。
これは自我の消滅を意味している。

自我は消滅しても全ての消滅を意味しない。自我は透明となって神の意識に吸収されて一体となり、神の意識は全ての意識を包括する。
それは現在の自分が幼い頃の自分や小学生中学生の頃の自分を包括している様子に類似しているかも知れない。(過去の自分に自我はないことに気付け)
神である私の内に私は存在して生きるのであって、自我の消滅によってこそ真実の命への道が開かれる。だから死んでも生きるのである。
省3
282
(1): Johannes 2011/08/07(日)23:38 ID:zH32gTQ6(11/12) AAS
(過去レスから引用)
聖母マリアがキリストの母であることは福音書を引用するまでもなく明らかであろう。
母とは女性である。イエズスは女性原理により誕生しマリアの母性によって育てられたのである。
つまり誕生は女性原理の為せる業だからである。

ルカ福音書1章35節
「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」
ルカ福音書1章38節
省11
283: Johannes 2011/08/07(日)23:59 ID:zH32gTQ6(12/12) AAS
>>282について若干補足説明をする

>>「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。」・・(注)これは神を受け入れて死を打ち破った一言である。

当時の律法に従えば、父親の分らない子供を妊娠することは死刑(石打)に相当する姦通罪であった。
聖母はそれを承知の上で御使いの言葉を受け入れた。それが、「(注)これは神を受け入れて死を打ち破った一言である。」の意味である。
284: 2011/08/08(月)18:26 ID:z9Prtlyz(1/8) AAS
>>261
>キリスト教ではまず聖書を読んで学ぶことを先行させつつ祈るのが一般的である。
>しかし佛教では全く逆である。まずは実践である。
>例えば般若心経の意味を知る必要はない。まして御真言の意味を知る必要はない。
>何かのお経の意味が知りたければ、それは後からでも十分である。
285: 2011/08/08(月)19:03 ID:z9Prtlyz(2/8) AAS
聖書を学ぶ場合と、仏教を学ぶ場合とは、それを学ぶ方法が異なる。
それはなぜか。その目的が異なるからだろう。
 
聖書は罪からの救いを目的にしている。人間は生来の罪人なのである。
その罪は心の底から悔い改めるとき、神の訪れ・聖霊によって救われる。
聖霊の訪れは、神の選びであり、人間の自由にはならない。
 
省2
286: 2011/08/08(月)20:08 ID:z9Prtlyz(3/8) AAS
これに対して仏教は、輪廻転生からの解脱を目的にする。

人間の運命は前世の業によって決まる。これはどうもがいても動かせない。
前世の話だからである。仏教は業(カルマ)の法則を前提にする。
287: 2011/08/08(月)20:11 ID:z9Prtlyz(4/8) AAS
ではどうしたら輪廻転生から解脱できるのか。仏教は神を否定するから、
自力によって輪廻転生から解脱しなければならない。そういった制約のなか、
仏教は輪廻転生を「空」と解釈することで(解脱)を可能にした。
 
しかし「空」を言葉で理解させることは不可能に近い。
そこで修行の中で「空」を体験させる、というのが仏教の立場なのだろう。
修行が重視されるが、あくまでも「空」を体験させるためである。
288: 2011/08/08(月)20:40 ID:z9Prtlyz(5/8) AAS
聖書と仏教を比較して評価してみよう。
 
聖書の値打ちは「聖霊」を伝えているところにある。
仏教の値打ちは坐禅の技法を伝えているところにある。
 
残念だが、空を体験することは不可能である。
重要なのは、坐禅修行における「梵我一如」と「アートマン」の体験である。
省4
289: 2011/08/08(月)21:18 ID:z9Prtlyz(6/8) AAS
ついでに坐禅修行について書いておこうか。
仏教の修行は坐禅だけでなく、いろいろな方法があるのだろう。
しかし、聖霊体験があるなら、数息観だけで十分である。
 
数息観は、座って、息を数えるだけの単純な坐禅である。
息を吸って吐いてイチ、ニー、サン・・・と数え、ジュウまで行ったら、
またイチ、ニーと繰り返えす。心は息を数えることに集中する。
省2
290: 2011/08/08(月)21:26 ID:z9Prtlyz(7/8) AAS
集中できなければ丹田に意識を置き、眠くなったら額の中央に意識を置く。
ただし眠くなったら鼻に意識を置くと教える本もある。
 
わたしは天台小止観の流布本(簡略本)で学んだので額の中央になる。
残念なことに、この流布本を捨ててしまった。必要ならまた買えばいいや、
と思ったのが失敗だった。探しても見つからない。
 
省2
291
(1): 2011/08/08(月)21:55 ID:z9Prtlyz(8/8) AAS
問題はこの先、魔境にある。これは突破できない。
 
仏教徒もヒンズー教徒も、ここでことごとく粉砕されるだろう。
そして魔境の恐さから坐禅ができなくなる。
 
神はだまされるようなお方ではない。そのために魔境が備えられている。
神はそこで、心の裏の裏までをお見通しになる。
省4
292
(1): Johannes 2011/08/08(月)22:42 ID:mVsCO0qQ(1) AAS
>>291
君は真面目なあまりに考え過ぎているのではなかろうか。
そんなに大袈裟なものではないし難しい事でもない。お金も掛からない。
信じようとする必要もありません。ただ継続することが大切なだけだよ。

聖霊体験はそもそも何も関係ないと思う。
大切なのは「気付くこと(=悟ること)」だと思っています。
継続していれば「気付く」時が来ます。
293
(1): 2011/08/09(火)18:03 ID:g3ncfDGT(1/9) AAS
>>292
確かに気づくことがポイントなのだが、それが聖霊体験に直結する場合と、
そうでない場合とがある。「天よ、露を滴らせ」の露が聖霊なのです。
ヨハネスは聖霊(神の訪れ)と霊魂(永遠の命)を区別していないと思う。
294: 2011/08/09(火)18:24 ID:g3ncfDGT(2/9) AAS
魔境の恐さは昔から知られている。
釈迦は半眼で瞑想し、仏教の坐禅でも基本的に半眼で行う。
仏教は魔境に入ること自体を避けている。
結果として、仏教では「梵我一如」が最高の体験になる。
 
仏教の修行方針を理解できないではない。仏教徒には聖霊体験がないから、
魔境に入ること自体が危険なのである。神の守護がないから、
省4
295: 2011/08/09(火)18:49 ID:g3ncfDGT(3/9) AAS
わたしも半眼で行うことをすすめる。
聖霊体験がなければ、魔境を突破することは不可能である。
準備がないのに、魔境を体験することは百害あって一利無しである。
★ ★ ★ 坐禅は半眼を開けて行う
 
空海は聖霊体験がないのに明星を見たという。しかしこれは例外中の例外。
これとよく似た話で、釈迦は満月を見て成道したとも言われている。
省2
296: 2011/08/09(火)20:38 ID:g3ncfDGT(4/9) AAS
今までの話から、坐禅や瞑想をするにも聖霊体験が関係していることが
わかってもらえたろうか。聖霊体験がなければよくて梵我一如止まりである。
その先の明けの明星、霊魂体験には99.99・・・%進めない。

なぜそんなに難しいのかと言えば、心を脱ぎ捨て、身体を脱ぎ捨てないと
霊魂にならないからである。生きながらに死ぬことと等しい。
こんなことは不可能に近いし、仮にできたとしても危険過ぎるのである。
 
省2
297
(2): Johannes 2011/08/09(火)20:50 ID:w/7idfq/(1) AAS
>>293
では更にはっきり言う。
佛教に於いては聖霊体験など一切考慮しない。
そもそも「聖霊体験」とは何か。
使徒行伝1章2-4をイメージしているのだろうか。
佛教では斯くの如き現象を考慮することはない。

>>ヨハネスは聖霊(神の訪れ)と霊魂(永遠の命)を区別していないと思う。
省3
298: 2011/08/09(火)20:52 ID:g3ncfDGT(5/9) AAS
そうすると問題は、聖霊体験ができるかどうかであり、
坐禅や瞑想の技術的問題ではないことになる。
 
技術的には、もっともシンプルな数息観で十分すぎるほど十分である。
念仏や題目や、真言や陀羅尼を唱える必要もない。むしろマイナスである。
当然、ハタヨーガとかクンダリニーヨーガなどは邪道でしかない。
 
省1
299: 2011/08/09(火)21:08 ID:g3ncfDGT(6/9) AAS
>>297
仏教が聖霊体験を考慮しないので、それでは足りないと指摘している。
また使徒言行録の聖霊は、ルカの作り話か、かりに何かあったとしても、
集団ヒステリーのようなものだろうと思う。
 
聖霊は、頭の中に、斜め上方から落ちてくる雫のようなもの。
霊魂は、意識も感覚もある透明な球。
300: 2011/08/09(火)21:22 ID:g3ncfDGT(7/9) AAS
>>297
仏教やキリスト教の教え以前に、何が真実なのかが優先すると思う。
そう説いているから信じるのではなく、自分の目で確かめ、
自分の頭で考えるようにしたい。めざしの頭も信心から、と言うように、
信仰には人間を盲目にしてしまう力がある。
 
301: 2011/08/09(火)21:53 ID:g3ncfDGT(8/9) AAS
聖霊とか霊魂とかを、その精神的な意味合いから眺めれば、
ヨハネ福音書15章13節かもしれない。
(友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。)
 
聖霊を体験するのに必要なのは、この愛であり、優しさである。
魔境を乗り切るのも同じ。悪夢を良夢にするのも同じ。
 
省1
302: 2011/08/09(火)22:11 ID:g3ncfDGT(9/9) AAS
夢は毎日見る。これを利用しない手はない。
基本的には、その日思ったこと、心を動かしたことが夜の夢になる。
夢を点検すれば自分がどの程度の人間なのかがわかる。
この夢を変える。優しくなれば夢が変わる。
 
なぜ薬物がダメなのか。サイケな幻覚を見ても無意味だからである。
魔境では、その人の愛や優しさが問われている。
省1
303
(1): Johannes 2011/08/10(水)01:35 ID:J5ER/bs+(1) AAS
霊魂が存在することで自我が継続し続けると考えているうちはまだ佛教の外にいる。
いくら考えても無駄であり迷信である。それきキリスト教会レベル。
304: 2011/08/10(水)10:59 ID:6y0lAbXl(1/2) AAS

サルの寝言
 
仏教はお札を数えてナンマーダーだべ
305: 2011/08/10(水)11:03 ID:6y0lAbXl(2/2) AAS
仏教もグノーシスも思考の主体は、きっと脳みそなんだろな^^

その脳みそが腐った死後に悟りがあると言うから、あたまおかしいんじゃん^^
306: 承狂 ◆TptLNQXPVWuJ 2011/08/10(水)16:53 ID:S0tO4VVY(1/2) AAS
キリスト教って、親兄弟が死んでも自分達だけは復活するって信じてるんだよな?(笑)

(^。^)良い性格してますね♪(笑)
307: 2011/08/10(水)18:08 ID:R3/9aCaL(1/5) AAS
>>303
ヨハネスの話はわからないでもない。
仏教を内側から見るか、外側から見るかの違いではないだろうか。
よく話せば、結局は同じことを言っている可能性が高い。
何を言いたいのか、何となくわかるような気がする。
308: 2011/08/10(水)18:27 ID:R3/9aCaL(2/5) AAS
ただ大乗の空、これはいただけない。
日本の僧侶は、空の思想を証明したいのか、墓場の中で暮らしている。
よくやるよと気の毒に思うが、実際には金勘定ばかり。
僧侶にとっては、生活の糧、墓場こそが有り難い田畑なのだろう。
 
仏教の発祥地、インドには墓がない。火葬後、ガンジス川に流してしまう。
日本の仏教もインドに学び、散骨にすればいいのに。
309: 2011/08/10(水)18:51 ID:R3/9aCaL(3/5) AAS
仏教は空を説いているが、殺人者にとっては有り難い教えである。
しかし、自分が殺される側になれば、必死に逃げて抵抗するのではないか。
 
そんな教えが空である。世間は空論といってバカにしている。
こんな邪教が生き残っているから、日本の霊性がいつまでも低迷している。
 
日本を霊的によみがえらせるには、たとえば宗教法人優遇税制を廃止し、
省2
310: 承狂 ◆TptLNQXPVWuJ 2011/08/10(水)18:57 ID:S0tO4VVY(2/2) AAS
キリスト教って、
死んだら魂はどうなってる設定なの?(笑)
ハッキリ決まってないよね?
会議で決まってたっけ?(笑)
311: 2011/08/10(水)19:23 ID:R3/9aCaL(4/5) AAS
仏教、キリスト教などなど、そういった枠にはまった考えは、
もはや終りを迎えつつあるのではないだろうか。
ネット社会は、自分の目で確かめ、自分の頭で考える時代である。
 
仏教もキリスト教もかってのオーラが失われ、無様な残骸になっている。
特に仏教はひどい。僧侶自身が喜怒哀楽に翻弄されて生きているのに、
空などと寝言を語り、まるでペテン師のようではないか。
省2
312: 2011/08/10(水)19:42 ID:R3/9aCaL(5/5) AAS
坐禅の体験には、梵我一如とアートマン(霊魂)体験しか存在しない。
空の体験など絶対にありえない。だから不立文字になる。
 
空が体験できないものであれば、それは無、虚無であろう。
無、虚無を語るには、Aではない、Bではない、という否定表現でしか
表現できない。これが竜樹の説く空ではないのか。
それはまったく何もないゼロである。
313: 2011/08/11(木)23:41 ID:9hcmDgkw(1/2) AAS
坐禅をするなら、念仏、題目、念唱などはやめた方がいい。
これはすでに書いたことだが、重要なので再度繰り返しておきたい。
心を自然な状態に戻したいなら、坐禅には色をつけない。
息を数えるだけの数息観がベストである。
314: 2011/08/11(木)23:55 ID:9hcmDgkw(2/2) AAS
線香もローソクもやめた方がいい。呼吸を細くするために邪魔でしかない。
掛け軸などの小道具もいらない。何もいらない。ただ座ればいい。
わたしもできなかったが、結跏趺坐ができなければ、
尻の下に枕を置くといい。パイプ枕なら高さを調節できるので重宝する。
 
住んでいる場所にもよるが、坐禅をするなら春か秋だろうか。
夏は暑くてダメだし、冬は寒くてダメ。
省1
315: 2011/08/12(金)00:21 ID:A/jV/xPU(1/3) AAS
坐禅をする時は半眼でやる。
半眼でやるのは、坐禅中に眠らないためと、魔境に入らないためである。
これが坐禅の基本である。釈迦像を見ても半眼でやっている。
 
坐禅は半眼でやる。→ ここから重要なことがわかる。
坐禅中の体験は梵我一如か霊魂(アートマン)体験だから、
半眼を基本にする以上、その禅は梵我一如を目指していることになる。
省4
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