[過去ログ] 坐禅と見性〇第4章☆生死大海を泳ぐ_ (1001レス)
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25(78): 名無しさん@3周年 04/08/24 08:59 ID:GbCuZ1Od(1/25) AAS
>>21
>仏教は、やはり空思想から入っていかないとdでも論になっちまうかと思います。
それこそが、誤りの根本だと思いますが。
「空」というのは、薬のようなもので、「この世はすべてかりそめの存在でしかない」
ということに気付くことで、もっと大切なものの存在を開示するのです。
いったん、それを知れば「空」は必要ない。いつまでも「空」を振り回すのは、
「肝心の部分」を感得していない証拠です。
省2
26(1): 25 04/08/24 09:04 ID:GbCuZ1Od(2/25) AAS
ところで、机氏は
「瓦をいくら磨いても鏡にはならぬ」
をどのように解釈されるのですか、と聞いてみるテスト。
30(2): 25 04/08/24 09:32 ID:GbCuZ1Od(3/25) AAS
>>29
修行をしないでも仏様になれるということですか?
それは、脅迫観念に苦しむ患者に向かって「君は健康だ。どこも悪く
ない。だから、怖がる必要なんかないんだよ。」と言って聞かせるの
と同じですね。それで恐怖が消えますか?
34(2): 25 04/08/24 09:49 ID:GbCuZ1Od(4/25) AAS
>>31、>>32
>逆に君の言い分は、修行しない奴は、
>仏になれんと言ってるようにも聞こえる。
修行の種類によるでしょう。鏡が仏で、瓦が凡夫だとすると、瓦だと
いうのは錯覚で、実は鏡であった。それを瓦だと信じて磨けば、せっかく
の鏡が台無しになる。そういう修行はやるだけ逆効果です。机氏は
「目的性」と書いておられるが、私は「下心」と表現しています。
省7
40(1): 25 04/08/24 10:20 ID:GbCuZ1Od(5/25) AAS
>>35
私のはむしろ異論でしょうけど、戒律というのも「空」と同じく、
修行の一段階として設けられたものだと思います。たとえば、仏と
同じ心になれば、牛を見て「美味そうだから、殺して食うか」という
心は起きないでしょう。それなら、殺生戒の意味がなくなります。
肉を食うことが破戒なのではなくて、動物の生命を奪ってまで肉を
食らおうとする心が破戒なのです。托鉢行で、肉を布施されて、他に
省7
41(2): 25 04/08/24 10:23 ID:GbCuZ1Od(6/25) AAS
>>37
そうやって、机さんという一個の人間は、糞を眺め続けて一生を棒
にふり、土へ帰っていくわけだ。
51(1): 25 04/08/24 11:21 ID:GbCuZ1Od(7/25) AAS
>>50
私は日蓮宗でもないし、題目だけ唱えればいいなんて詐欺にすぎない
と信じていますよ。
白隠禅師も法華経の熱心な護持者であったことは有名な話です。
さきほどの話題に戻りますが、法華経でいうところの宝珠を自分が確か
に手にしているという「感触」をありありを感じなければ、いくら糞を
見て喜んでいても迷いは解けないと思いますよ。その「感触」は、「空」
省10
56(1): 25 04/08/24 12:34 ID:GbCuZ1Od(8/25) AAS
>>54
>白隠は、法華経を幼少のころから慣れ親しんでた。ってだけかとおもう。
>晩年は法華経に再び興味を示すが、ようは好奇心が大勢だっただけかとおもう。
では、机殿は白隠さんの有名な話をご存知ないわけですか。
外部リンク[html]:www.kosei-shuppan.co.jp
57(1): 25 04/08/24 12:43 ID:GbCuZ1Od(9/25) AAS
>つまり言語の語彙により善悪を分別しているに過ぎない。
その見解は、六師外道のプーラナ・カッサパの説とどこが違うので
しょうか。
外部リンク[html]:www2.big.or.jp
仏教の根本とは「諸悪莫作・衆善奉行」ではなかったのですか。
ありとある悪を作さず
ありとある善きことは
省4
62(1): 25 04/08/24 14:49 ID:GbCuZ1Od(10/25) AAS
>>59
白隠禅師が日蓮宗の家に生まれたから、法華経の感化を受けた特殊なケース
だと言いたいのでしょうけど、それはおかしい。
白隠禅師は、最初に法華経を読んで「これで人が成仏できるのなら、芝居の
脚本でも成仏できるだろう」と、法華経をみくびっていたのです。それで、
42才の時にコオロギの声を聞いて、法華経の真価を理解したと言われている。
それに、道元禅師も法華経を愛読されていたそうですよ。
省1
63(1): 25 04/08/24 14:53 ID:GbCuZ1Od(11/25) AAS
>>60
>万民に普遍なる善など有りえない。
ということは、絶対的な善悪がないということですから、机さんのは
プーラナ・カッサパの説と同じに見えるのですが。
抽象論を続けてもむなしいだけだから、具体例で行きませんか?
64(1): 25 04/08/24 14:57 ID:GbCuZ1Od(12/25) AAS
ついでだから、道元による法華経賛を書いておきまつ。
法華経はあらゆる仏の成仏の原因として一番大事な経典である。お釈迦様
にとっても、色々な経典を説かれた中でも、やはり法華経が一番勝れている。
これは全ての経典が王とするならば法華経は大王のようなものである。なぜな
ら法華経には真実が述べられており、他の経典は方便の教えだからだ。法華
経以外の教えから法華経を考えるのは全く逆の考えであり、法華経が無けれ
ば他の経典は意味がないといっても良いでしょう。
省12
67(1): 25 04/08/24 15:31 ID:GbCuZ1Od(13/25) AAS
凡夫の言う善悪は、「歴史性」に縛られた価値観にすぎないんですよね。
寿司の例で言えば、Aさんは海の近くに育って、毎日新鮮な魚を食べてきた
のに反して、Bさんはスーパーのパック寿司だけを食べてきた。Aさんも
Bさんも、「うまい」と叫ぶかもしれないが、AさんはBさんの舌を信用でき
ないから「どううまいのか」と問い詰める。Bさんは、「うまいものはうまい
んだ」と「主観の違い」に逃げ込むことはできるが、これが即「だから、
絶対的にうまいなんて尺度は存在しない」という結論にはつながらない。
省8
68: 25 04/08/24 15:42 ID:GbCuZ1Od(14/25) AAS
しかし、「誰にもわからない」といいつつ、誰もが「うまい」とはどういう
ことか、「善悪」とはどういうことか、生まれながらに(おぼろげではある
が)知っている。だからこそ、美味いラーメン屋には行列ができるし、釈迦
を慕って真善美を追求する人々が後を絶たない。
「うまいはうまい」、「まずいはまずい」なんですよね。「まずい」のに、
雑誌が絶賛している店だから「うまい」と嘘を言ってはいけない。また、
「うまくないのは怪しからん」と怒ってもいけない。「まずい」ものは
省4
71: 25 04/08/24 15:53 ID:GbCuZ1Od(15/25) AAS
>>69
ふふふ。机さんは負け惜しみが強い方ですね。
それがあなたの修行を邪魔する「下心」なんじゃありませんか。
78(1): 25 04/08/24 16:13 ID:GbCuZ1Od(16/25) AAS
>>70
机さんは、何の善悪について論じておられるのですか。
三島の自決という行為についてですか、それとも信念を貫くために
自決せざるを得なかった三島の心意気についてですか。
80: 25 04/08/24 16:20 ID:GbCuZ1Od(17/25) AAS
>>72
そうですね。
とにかく、禅に限らず、宗教の価値観は不合理です。
聖書には、1匹の迷える子羊を探すために、99匹を残して助けに行く
という喩え話があります。
健常者から見て、基地外だと思われるようでなければ、本物の宗教者
じゃないということでしょうね。
83(1): 25 04/08/24 16:29 ID:GbCuZ1Od(18/25) AAS
>>73
さらに話を引っ掻き回して恐縮ですが、この「うまい」に重なって、
「心でうまい」もありますよね。
ある人が子供の頃、終戦直後にもう何日も飲まず食わずで電車に乗って
いたら、前の人がお握りを取り出して食べだした。それをじっと見て
いると、わずかなうちの一個をくれたそうです。そのお握りが「本当に
うまかった」。空腹でうまいというのと違うと思います。お握りという
省6
89(3): 25 04/08/24 16:45 ID:GbCuZ1Od(19/25) AAS
>>85
自然科学では、人間の実体は見えてこないと思いますよ。
甲子園の土からは、いくら分析しても「負けた悔しさ」とか「青春のほろ
苦さ」は出てこないし。
既存宗教団体はいけません。あれは、むざむざ自分の自由を捨てに行く
ようなものです。
禅の修業すると、いいことだけじゃなくて悪いこともありますよ。
省6
96(1): 25 04/08/24 17:05 ID:GbCuZ1Od(20/25) AAS
>>90
多分、自然科学も宗教も、自分のテリトリーをわきまえずに、互いに
侵犯しているから、胡散臭く見えるんでしょうね。
自然科学は物質世界の法則を語る。宗教は霊的世界(あるかどうかは
別として)の法則を語る。人間には両方が必要です。また、自然科学
には善悪がない。「○○すれば、△△になる」という法則に善悪はあり
ません。机氏がしつこく「善悪がない」と言っているのは、唯物論的な
省7
97(1): 25 04/08/24 17:07 ID:GbCuZ1Od(21/25) AAS
>>95
机さん、それはあんまりではありませんか。
問題は単純明快です。
「善悪はない」-->「肉食するのも善でも悪でもない」-->「殺生戒」など無意味だ
ただひとつ明快な論理学のルールがある。それは、命題から矛盾が導き
出されたら、その命題は誤りだということです。
100(1): 25 04/08/24 17:24 ID:GbCuZ1Od(22/25) AAS
>>98
>何で自然科学な人の事勝手にそうやって決めつける。
>両方信じられるよ、両方信じてる人がいるよ。学者の
>中にだっていっぱい。おいらは学者じゃないし。
私も理系出身ですからね。自然科学を信奉していますよ。飯の種でもあるし。
ただ、何でもかんでも自然科学で証明できると信じているおめでたい人が
多すぎると思いますが。
省3
102(1): 25 04/08/24 17:32 ID:GbCuZ1Od(23/25) AAS
>>99
またそうやって、言葉遊びに走る。
「善悪一如」とは、善悪が磁石のN極とS極のようにワンセットになって
いるので、善だけをかき集めるわけにはいかない。どうしても悪も一緒
になってしまうから、覚悟しなさいよ、という意味です。同じような
のに「苦楽一如」がある。
いくら善を目指しても、新たな悪が出てきますよ、ということです。
省3
103: 25 04/08/24 17:35 ID:GbCuZ1Od(24/25) AAS
机さんは呑気な人だなあ。
>>98の「禅に親しんでる人」というのが、机さんのことを揶揄していると
考えたことはないのですか?
107(2): 25 04/08/24 18:02 ID:GbCuZ1Od(25/25) AAS
>>105
では、質問。
身は是菩提樹
心は明鏡台の如し
時時に勤めて払拭して
塵埃をして惹かしむることなかれ
と詠んだ神秀とは、凡夫の神秀だったのでしょうか、それとも仏の神秀だった
省8
112(1): 25 04/08/24 21:24 ID:yiq053Lx(1) AAS
>>109>>110
そうですか。見解の違いですね。私はこう思います。
神秀はまだ修行途中で、戒律が必要な凡夫であった。だから、戒律に触れる
ことがないよう「明鏡台に埃がつかないように」と努力する必要があった。
六祖慧能は、完全に「本来の自己」に目覚めていた。だから、「本来の自己」
が罪に染まることがないことを完全に理解していた。「虚仮の自己」が完全に
コントロールされた状態だから、戒律を守ろうとする努力は無用です。自ら
省8
115(2): 25 04/08/24 22:14 ID:cvzNlrCu(1/6) AAS
>>114
あの。机さんはよくベクトルという用語を使われるのですが、ベクトル
というのは数学用語で、大きさと向きの情報を含んだ変数のことです。
外部リンク:ja.wikipedia.org
ベクトル以外に、もっとわかりやすい説明はないもんですかいな。
単なる「方向性」という意味ですか、もしかして。
118(1): 25 04/08/24 22:27 ID:cvzNlrCu(2/6) AAS
わかりました。
では、善悪にベクトルがあるとはどういう意味ですか?
122(1): 25 04/08/24 22:42 ID:cvzNlrCu(3/6) AAS
>>120
善行をするという意志が働くということですか。目的があって、そこへ
ベクトルが伸びていくというイメージですかね。
しかし、禅者にも意志はあるでしょう?意志が全くないのは木や石です。
そして、人間が人間たる所以は、自由意志を持つということです。意志
なく本能に流されるのは動物です。
たとえば、目の前の急流を子供が流されていくのを見る。禅者は木の
省1
125(3): 25 04/08/24 23:00 ID:cvzNlrCu(4/6) AAS
>>123
では、助けるのは意志ですよね。どうしてベクトルが切断するのでしょう。
子供を助けるという目的に向かって、ベクトルが伸びていく。
違いますか。
作務においても、直接的な目的性は自覚されていないかもしれないが、
ベクトルは対象につながったままです。たとえば、歩いているとき、
右足と左足を交互に動かすという意識は自動化されているが、歩こう
省4
130(1): 25 04/08/24 23:14 ID:cvzNlrCu(5/6) AAS
>>128
しかし、子供を助けるのにもったいぶる必要ないでしょ?
世俗諦だろうが何だろうか、自分の身を省みずに川へ飛び込んだら、
誰でも仏様です。何がごっちゃなのかよくわからん。
>だからこれがいわゆる頓悟なんですよ。
>理屈、論理性をここで求めてもなんら意味はありません。
もうよろしい。あなたはいつまでも裸の王様で川べりに突っ立っている
省1
133(1): 25 04/08/24 23:17 ID:cvzNlrCu(6/6) AAS
>>129
儒教の中心も、禅と同じく「無私」しかありません。
「無私」で誠を貫くこと。「空」なんて役にも立たない屁理屈を
こねずに直接的に教えるところは、似非禅よりもはるかにましです。
186(1): 25 04/08/25 08:53 ID:SxTvoKyx(1/13) AAS
>>170
>私は善とは対立する概念のない絶対的なものと思いますよ。
賛成です。卑近な例ですが、道具にはそれぞれ正しい用法というものがある。
それを誤用すれば事故が起こる。ところが、ひとつの用法に対して、誤用の
仕方は無数にある。悪とは、善に寄生するもの、決して悪だけで独立して
存在できないものです。これだけで、善と悪が対等ではないことがわかります。
>悟ってみたら
省10
188: 25 04/08/25 09:14 ID:SxTvoKyx(2/13) AAS
>>182
儒教の「中庸」の「中」とは、「的のど真ん中を射抜く」というような厳密
な意味で、一般に信じられているような「熱くもなく冷たくもない、足して
二で割ったようななまぬるい状態」という意味ではありません。差別を保留
して白黒を灰色と誤魔化すどころか、きっぱりした「白一色」です。だから、
「道に適う」というのと同義だと思います。
仏教の「中道」というのも、同じような誤解が広がっているように思える
省2
199(1): 25 04/08/25 12:42 ID:SxTvoKyx(3/13) AAS
>>189
それはありますね。
瞑想状態で一時的にそういう境地になったとしても、普段の意識に戻ったら
元の木阿弥です。
見性体験とは、ジャングルを通って目的地を目指す時に、一時的に高い塔の上
からジャングル全体を見渡して、目的地の美しさに目をみはるようなものです。
「私は見た」。しかし、まだそこには到達していない。到達するには、塔を降りて、
省1
201(2): 25 04/08/25 12:45 ID:SxTvoKyx(4/13) AAS
>マンゴー先生
よくマズローを引き合いに出されますが、有名な欲望階層理論のこと
でしょうか。
第5段階は「自己実現欲求」ということになっていますが、今ひとつ
禅と「自己実現」の関連がよく理解できません。禅でなくても自己実現
は可能だと思うし、自己実現が必ずしも禅とは一致しないのでは。
203(1): 25 04/08/25 12:52 ID:SxTvoKyx(5/13) AAS
(補足)
自己実現とは、行動によって「自分とはいかなる存在であるか」を
示すことで、哲学で言えば実存主義の考え方に非常に近いと思います。
確かに、禅は実存主義とよく似ていますが、単なる哲学にすぎないの
なら、わざわざ座るまでもなく、『存在と時間』あたりを読んでは
黙想すれば済む話だと思います。
禅が宗教である以上、「自分は何者であるのか」に加えて、「自分は
省3
206(1): 25 04/08/25 13:02 ID:SxTvoKyx(6/13) AAS
>>202
自然科学は因果律の羅列を、哲学はものの考え方の道筋を、それぞれ
提供してくれますが、所詮は道具でしかないと思います。善悪そのもの
(人間はいかに生きるべきか)については沈黙を守っている。
仏教は「空」を説く哲学と見ることができるかもしれませんが、それは
所詮、世界の解釈法のひとつで、仏教を哲学の枠にはめればはめるほど
一番重要であるはずの善悪がぼけてしまう。
省1
211(1): 25 04/08/25 13:23 ID:SxTvoKyx(7/13) AAS
iD5PGN8Eさんは私と同じ理系と見ました。
自然は無私で、観測者の都合を考えてくれませんからね。それもまた「神」の
ひとつの姿だと思います。
以下のは、理系の方だけが理解する特権を持つ閑話です。
電子が二重スリットを通り抜けるとき、2つのうちどちらかを通るはずなん
ですが、実際には両方を通り抜けたかのように干渉縞が観測される。つまり
右を通った電子は、左を通った場合をあらかじめ知った上で、そのように
省9
241(2): 25 04/08/25 16:03 ID:SxTvoKyx(8/13) AAS
横レスですが...
>机さんとマンゴさんは、魔境に片足突っ込んでるよ。
>見てて危なっかしいたら、ありゃしない。
というのは、正直私も感じました。
マンゴー先生自身が言っておられるけど、「色則是空」でどんどんと空じて
いって、もはや何もなくなった状態から、「空則是色」で戻ってくると考え
た時、唯物論でのこのこ出かけていくと、絶対に帰ってこれないのではない
省9
242(5): 25 04/08/25 16:13 ID:SxTvoKyx(9/13) AAS
椎名麟三氏のスタヴローギン評です。
スタヴローギンは知性が考え得るすべてを考えたが、結局は何もなかったのである。
つまり生きる意味を見いだすことができなかったのである。とどのつまりの虚無。
そういうわけなのだ。だが、虚無に投げ込まれた人間は、あらゆ可能性であると
同時にあらゆる不可能性なのである。いいかえれば何でもできるのであるが、同時に
何もできないということなのである。たとえ何かができても、意味のないくだらない
ことだけなのだ。 ...虚無は、ついに彼を食い荒してしまった。彼は、死ぬより
省4
245(1): 25 04/08/25 16:32 ID:SxTvoKyx(10/13) AAS
>>243
すべてのものには実体がない、という意味では「から」と言っても
よいと思います。
246(2): 25 04/08/25 16:40 ID:SxTvoKyx(11/13) AAS
「私という人間はどうしてここに生きているのか」
「それは、条件が揃ったから五蘊が君という形をかりそめに取っている
だけだ。時が来れば、条件が変わって、君は消えうせる。」
しかし、人間が人間らしく生きるには、「自分はある存在から望まれて
生かされている」という自覚が必要です。条件が揃うだけでは「意味」
は生まれてきません。
「とうちゃんとかあちゃんがある晩にエッチして、それがたまたま受精日
省2
250(1): 25 04/08/25 17:08 ID:SxTvoKyx(12/13) AAS
>>247
悪いですけど、黄金の炎を見たからといって、見性とは何の関わりもないと
思います。座禅中に、金ぴかの仏像が現れたり、未来の映像が見えたりする
ことは稀なことではありませんが、まともな禅師ならば、それを魔境として
退けるはずです。
251(1): 25 04/08/25 17:18 ID:SxTvoKyx(13/13) AAS
>>248
しかし、昔は禅と念仏を双修することがしばしば行われました。
一遍上人は、禅で悟りを開いたのに、晩年は念仏だけの救いを説いて
歩きました。禅の自力と念仏の他力は、最後には一致するものです。
というか、他力と一致しないような禅は偽者である証拠です。
一神教の宗教が殺し合いをしているのは、神を自分の都合のよいように
歪曲して、自分の味方につけようという邪心が原因です。絶対神は、
省2
273: 25 04/08/25 20:01 ID:3U1pcUzu(1/19) AAS
>>255
>活き活きとした孤独論、虚無論なら、みんな納得するよ。
結局、そこに尽きますね。
誰かが書いていたが、机さんは徹底していない。だから、虚無感から自殺に
まで至らない。それを自分自身でも誤魔化している。モラトリアムに逃げ
こんでいるんだ。まあ、その分救いもあるわけだけど。
274: 25 04/08/25 20:11 ID:3U1pcUzu(2/19) AAS
スタヴローギンは、精神的な貴族です。
何に対しても心を動かされない。
決闘の時に、弾が自分の頭をかすめても恐怖を感じない。
おまけに、自分が圧倒的に優位に立っても、わざと狙いを外して撃つ。
そのくせ、気まぐれにいたいけない少女を犯し、良心の呵責なしに人殺しを
する。彼は、神を信じること、信じないことも、ともに懐疑の目で見ていて、
どちらの側にも身を置こうとしない。
省6
277(2): 25 04/08/25 20:35 ID:3U1pcUzu(3/19) AAS
机さんが、「机さん流の禅」と唯物論が違うとおっしゃるのなら、
その違いについて聞きたいのです。スタヴローギンこそが、善悪の
区別、感情の波、他人に対する関心を超越して、自分の思うまま自由
に生きる人間です。スタヴローギンが目指したものと、「机さん流の禅」
と、私には見分けがつかないほど同じに見えます。
とにかく、「空」から菩提心が生まれる、ないしは、「空」から他人に
対する関心が生まれるという過程が見えないので、私の中で疑惑が
省2
278: 25 04/08/25 20:54 ID:3U1pcUzu(4/19) AAS
ついでに、スタヴローギンの座右の銘(ご参考用)
「私は善悪の別も知りもしないし、感じてもいない男である、たんにその感覚を
失ってしまったばかりでなく、善も悪もない男なのだ、あるのは一つの偏見だけ。
また私はすべての偏見から自由になりうるのだが、その自由を手に入れた瞬間、
私は破滅する。」
280: 25 04/08/25 21:05 ID:3U1pcUzu(5/19) AAS
しつこくて申し訳ない。これが最後です。スタヴローギンが禅味のあることをしゃべります。
<スタヴローギンとキリーロフの会話(ご参考用)>
ス「ぼくはこの間、黄色い葉を見ましたよ、緑がわずかになって、端のほうから
腐りかけていた。風で舞ってきたんです。ぼくは十歳のころ、冬、わざと目を
つぶって、木の葉を想像してみたものです。葉脈のくっきり浮き出た緑色の葉で、
太陽にきらきら輝いているのをです。目をあけてみると、それがあまりにすば
らしいので信じられない、それでまた目をつぶる」
省8
281(1): 25 04/08/25 21:06 ID:3U1pcUzu(6/19) AAS
(続き)
キ「でも、餓死する者も、女の子を辱めたり、穢したりする者もあるだろうけれど、それもすばらしいのですか?」
ス「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。
すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。
もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけれど、すばらしい
ことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。ぼくの考えはこれですべてです、
これだけ、ほかには何もありません」
省7
283(1): 25 04/08/25 21:41 ID:3U1pcUzu(7/19) AAS
>>279
>菩提心、他人に対する関心は、重なりますが、空、からは、どう つなげていくのでしょうか?
>語れるんでしょうか。
それそれ。私もその疑問を抱いているのです。空からは、何もつながらないでしょう?
仏教と言えば、慈悲の教えと言われるが、もう一方の極には「空」があって、
いくら「空」を突き詰めても、菩提心、他人に対する関心にはつながらない。
ニヒリズムから隣人愛は生まれません。ニヒリズムから生まれるのは、観念的に
省4
285(1): 25 04/08/25 21:49 ID:3U1pcUzu(8/19) AAS
>>284
違うのならば、ひとつだけ違いを述べてくださればいいのです。
そんなに難しいことですか。
287(1): 25 04/08/25 21:53 ID:3U1pcUzu(9/19) AAS
>>286
頓誤の間違いじゃないの?
289(1): 25 04/08/25 22:07 ID:3U1pcUzu(10/19) AAS
>>288
その慈悲は「空」ではないのですか。
291(2): 25 04/08/25 22:18 ID:3U1pcUzu(11/19) AAS
>>290
抽象論でなくて、具体的にお願いします。
赤ん坊がいるとします。そこへトラックが突っ込んでくる...。五蘊の
配列と条件が合ったために赤ん坊がぐしゃぐしゃになる。それが慈悲ですか?
295(1): 25 04/08/25 22:40 ID:3U1pcUzu(12/19) AAS
>>293
>唯物論というのは世界は対立している。対立が世界を発展させる。
それは、マルクスの唯物論的弁証論ですよね。たとえば、もっと単純な
デカルト的な唯物論の場合はどうですか。仏教の「五蘊無我説」の考え方:
現実の存在はすべて縁起であり、空であるので、すべての条件を取り払えば
後には何も残らない、というのと同じになると思いますが。
机さんの禅では、「空」をずっと突き詰めていくと、後に何か残るのですか、
省1
296(1): 25 04/08/25 22:46 ID:3U1pcUzu(13/19) AAS
>>294
関係というのは「私の拳が、彼のほほを0.3秒間に1cmえぐった」という
ようなもので、関心とは「彼は激しく泣いている、どうしたんだろう」
というのとは違います。川の中で、偶然にできたあぶくが、他のあぶく
の境涯を気遣うことがないのと同じです。
299: 25 04/08/25 22:50 ID:3U1pcUzu(14/19) AAS
五蘊の気まぐれで偶然に生まれた人間が、同じく偶然に生まれた他人と
共感したり、なぐさめあったりするというのは、ほとんど不可能に近い
ことです。偶然に生まれた子供も、偶然に結婚した配偶者も、心の底か
ら愛情の対象になるとは思えません。偶然にすぎないのなら、第2の偶然、
第3の偶然を試そうという気持ちになるでしょうから。
301: 25 04/08/25 22:53 ID:3U1pcUzu(15/19) AAS
>>297
>空は有無の概念はないですね。
>ゆえに貴殿のレスは空を問うには力量不足です。
この問題は、仏教で「有身見」と「五蘊無我説」として古来から論争
されているもので、私の独創ではございません。おあいにく様。
303(1): 25 04/08/25 22:59 ID:3U1pcUzu(16/19) AAS
>>300
>空とは、一体、なんだと思いますか?
私は理系なもので...状態関数みたいなものだと思ってます。
y=f(x1,x2,x3,....xn)
で、条件x1〜xnによって結果yは変わる。そういう依存関係を「空」
と呼ぶ、と理解しています。
これが次々と連鎖反応を起こして、結果が今度は条件となり...
省1
305(2): 25 04/08/25 23:05 ID:3U1pcUzu(17/19) AAS
たとえば、五蘊は原子のようなもので、炭素原子と酸素原子がある条件
で反応すると、二酸化炭素になる。それが植物に吸収されて実の一部に
なり、それを私が食って、私の下腹の肉に変化する。
こういう風に、炭素原子は同じものがグルグル回っているので、「私」
を構成している炭素原子は借り物にすぎません。「私」という存在は、
いわば、貸借金銭帳についた記録のようなものです。このように、お互い
に借り物でまかなっている状態を「空」と呼ぶ、と理解しています。
307(1): 25 04/08/25 23:11 ID:3U1pcUzu(18/19) AAS
机さんにしつこく突きつけている問題とは、
「では、私という存在は、貸借帳の数字を消しゴムで消せばなくなる
ようなはかないものなのですか」という問いかけです。唯物論で言えば
「その通りです」ということになるし、他の数字が消されようが悲しむ
義理なんかない。自分だって消しゴムの滓になる運命なんだから。
そういう状態で、どうして他人への関心、慈悲が生まれるのですか、と
問うているのですよ。
310: 25 04/08/25 23:22 ID:3U1pcUzu(19/19) AAS
>>308
「平等性智」、「妙観察智」というのは仏教用語なので、もっと一般
的で平易な表現で説明していただきたいのです。
仏教の正当性を仏教で説明しても意味がありません。
また、机氏のように「座らなければわからない」ということならば、
一切こういう場では沈黙を守るべきです。
「空は空である。なぜなら、空だから。」と同語反復を繰り返しても
省4
328(1): 25 04/08/26 08:06 ID:1trC6GFZ(1/15) AAS
>>320
なるほど、非常によくわかります。
炭素原子には、所有者の名前が書いておらず、借り物に徹しているからこそ、
二酸化炭素にもなり、私の下腹にも化けられる。よって融通無碍であると。
しかし、「顔がのっぺりとした」炭素原子がいくら宇宙に満ちていたとして
も、そこから慈悲は出てこないのではありませんか。また、その満ち足りた
様子は、飽食の中で食べ残しに辟易するような、「満ち足りたニヒリズム」
省1
330(1): 25 04/08/26 08:24 ID:1trC6GFZ(2/15) AAS
>>321
>「人生には意味がある」「生きるには意味がある」「存在するには意味がある」
人生の出来事が偶然の連続にすぎないのなら、意味はないでしょう。
「顔ののっぺりした」炭素原子が、偶然の気まぐれで、私という人間になり、
300さんという人間になる。その間には共感など生まれっこない。逆に、もし
出来事にある意図が働いているとすれば、存在に意味が出てくるし、その意図
に合うか合わないかという意味での善悪の尺度が現れる。
省9
332: 25 04/08/26 08:46 ID:1trC6GFZ(3/15) AAS
ところが、人生に意味があるのか、偶然の産物にすぎないのか、は、人間には
判断できない。これはカントが哲学的に証明しています。判断できない以上、
「意味があってほしい」と願う人には意味があり、「意味などなくてもよい」
と考える人には偶然にすぎない、という「主観の違い」に行き着く。
真理はひとつのはずですが、自然(神)は、人間には全く見分けがつかない
ひとつのまがい物を用意した。人間がどちらを選んでも、途中で論理的に破綻
しないように巧妙な作りになっている。だから、どちらを選んだかとは、その
省6
333(4): 25 04/08/26 09:10 ID:1trC6GFZ(4/15) AAS
>>316
>他者の関係に価値を見出す人は
>その関係に終わりが来たとき苦しみを感じるでしょう。
まったくおっしゃる通りです。
ただ、もし他者との関係が永遠に続くとすれば、苦しみはなくなりますね。
これは、ある小説の受け売りなんですが、私は非常に心打たれました。
もし、全知全能の神が存在するとして、その永遠なる神を「私」という、
省9
342(2): 25 04/08/26 11:27 ID:1trC6GFZ(5/15) AAS
>>341
マンゴー先生の言っておられる「自己実現」というのは、世界を空や縁起で
見るという悟りに限定されているようですが、私は違う風に考えています。
自分の行為が、他者を喜ばせていることを感じ、それを自分の喜びとして
感じるならば、それだけで立派な「自己実現」です。その喜びを素直に認める
ことは現代人には照れくさいかもしれない。しかし、その喜びをニヒルに
否定するなら、スタヴローギンと同じ虚無に到ってしまう。彼が死ななければ
省3
344(1): 25 04/08/26 11:50 ID:1trC6GFZ(6/15) AAS
>このように現象の一部だけを見ていては、大慈悲を実感することはできません。
>意識が全体として観られるようになったときに初めて、空から大慈悲が顕現します。
>>281で引用した、スタヴローギンの「すべてはすばらしい」という叫びと
そのまま重なってしまうのですが。
346(1): 25 04/08/26 11:56 ID:1trC6GFZ(7/15) AAS
>大きく分ければ至高体験を経た者と経ていない者
それは、マンゴー先生のつけたしでしょ?
マズローが言う「自己実現」は、職責とか、神秘体験よりも世俗社会での
役立ちに近い定義です。
自己実現は動機の状態に関して、基本的欲求による動機付けでなく、可能性、
能力、才能の絶えざる実現として、使命(あるいは天職、運命、天命、職責)
の達成として、個人自らの本性の完全な知識の受容として人格内の一致、統合
省2
348(1): 25 04/08/26 12:19 ID:1trC6GFZ(8/15) AAS
>>347
つまり、マンゴー先生は、空観を徹底しても初発心、発菩提心が
なければ、禅者は魔道に落ちると言われるのですね。
それなら、「空」から菩提心は出てこないという昨夜からの私の
主張が認められたということになりますね。
354(1): 25 04/08/26 13:48 ID:1trC6GFZ(9/15) AAS
初発心が大切だというのはよくわかります。
白隠さんが出家したのは、子供の頃に見た地獄絵の恐ろしさが忘れられず、
なんとか地獄へ落ちるのは避けたい一心だった。病気だったから、「空」と
いう薬が効いたんですよね。ところが、病気でない人が、高邁な哲学を求めて
「空」に対峙した場合、どうしてもスタヴローギンと同じ道をたどらずには
終わらない気がする。「空観を徹底した人」というのは、結局のところ、自分
自身が虚空に消えてしまう直前にギブアップした人なんじゃないでしょうか。
省8
357(1): 25 04/08/26 14:00 ID:1trC6GFZ(10/15) AAS
>>355
ずばり、空とは何ですか。
私は「お互いに依存関係にある状態」と理解しているのですが。
>>356
きっとその方だったと思います。
私は「空」そのものを否定しませんが、354に書いたように、最初に「無私」
が基点になっていなければ、「空」はその人を虚無に落としてしまうという
省1
364(3): 25 04/08/26 14:42 ID:1trC6GFZ(11/15) AAS
>>359
色とは物質現象で、空とはそれを形作る依存関係と私は理解している、
これを前提として、
「引き寄せて結べば草の庵にて解くれば元の野原なりけり」の場合で言えば、
「庵」という存在は、人間がその道具性(雨露をしのぐ道具という意味で)
から名づけたものです。しかし、材質は草に変わりはない。だから、解体
すれば元の草に戻る。色不異空とは、「庵」=「草の配列」が成り立つという
省4
366: 25 04/08/26 14:48 ID:1trC6GFZ(12/15) AAS
>>362
ふ〜ん。では、そいつが自殺することに善悪はないわけだ...。
372: 25 04/08/26 15:21 ID:1trC6GFZ(13/15) AAS
>>370
>空を観じているところのその「私」を
>愛することに手一杯である限り
>慈悲が分からんのはもちろんのこと
>空もよく分かっとらんということでしょう
私が言いたかったのもそういうことです。
「空」を使って「私」を箔付けする輩が多すぎる。
省1
375: 25 04/08/26 16:02 ID:1trC6GFZ(14/15) AAS
>>373
なんだ、誰かと思ったら不落因果の輩か。
379(1): 25 04/08/26 17:15 ID:1trC6GFZ(15/15) AAS
>>378
私は、化け物がうようよしている巣窟で、慈悲の剣をぶん回している
だけですが、それが何か。
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