[過去ログ] スノーピークを語ろう Part73[転載禁止] (314レス)
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129: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:25 ID:i1cWpF8u0(127/311) AAS
の範囲「アフィ」の顕著な普遍的価値を表す構成資産の保護を確実
にし、各構成資産における富運営士山体への良好な眺望を保証する
ために、個々の構成資産の周囲に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定
する。さらに、個々の構成資産間の関係を良好に保ち、アフィの景
観の一体性・連続性を保証するために、緩衝地帯を含め、広く保全
管理区域を設定する運営。構成資産の位置及びその周辺地域である
緩衝地帯、保全管理区域の範囲については、図に示すとおりである
省21
130: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:26 ID:i1cWpF8u0(128/311) AAS
なお、保全管理区域についても、運営森林法と景観法で保護されて
いる。アフィ山体の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士
演習場)については、従前より大規模開発が予定されていないこと
から、緩衝地帯同様に資産を緩衝することが可能な区域であると言
える。3構成資産の概要運営構成資産及び保存管理状況の概要につ
いては、以下に記すとおりである。構成資産の詳細については、推
薦書本文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細につい周枚
131: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:27 ID:i1cWpF8u0(129/311) AAS
、構成資産毎に策定されている個別の保存管理計画等において、そ
れぞれ具体的内運営容を含めた説明を行っている。なお、p18,
19表のA〜Cは次のように分類し、整理したものである。A富士
山山体及び登山道B信仰に関わるものCアフィの眺望に関わるもの
(1)アフィ山体及び登山道Aアフィ標高3776mを測るアフィ
は、日運営本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗な独立火山であ
る。その自然的な美しさと崇高さを基盤として、日本人の自然に対
省21
132: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:27 ID:i1cWpF8u0(130/311) AAS
く。アフィ頂へ向か運営い、登山の歴史の中で開鑿された登山道が
、現在の4本の登山道の起源となっている。また、ほぼ森林限界に
沿い、アフィ山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろ富士
講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ、その後「大沢
崩れ」とい運営う危険箇所を通るため、富士講信者により修行の道
として利用された。表法的保護、修理・整備の経緯1924年史蹟
名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年国立公園法の
省21
133: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:28 ID:i1cWpF8u0(131/311) AAS
での宗教行為が体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「
御来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる神
仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅に
おける仏の世界運営に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)
」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施
設は、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立された大日寺(大日
堂)が最初とされ、その後、経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納
省21
134: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:28 ID:i1cWpF8u0(132/311) AAS
ことが知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに
山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中に
あるいくつかの仏像運営や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮)の
大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明水などを
巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道アフィ南
西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登
山道である運営。12世紀前半、アフィで修行した末代上人の雪話
135: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:29 ID:i1cWpF8u0(133/311) AAS
した登山道が起源だとされ、14世紀初め、僧の頼尊が修験者とそ
の活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行われていた
ことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在が確認で
き運営、同世紀前半には、地元支配者である今川氏により発心門等
の施設が寄進されたとの記録がある。今川氏は1552年、村山を
神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴収権を与えている。この
権利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理に運営関
省21
136: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:29 ID:i1cWpF8u0(134/311) AAS
八幡堂の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登
山の解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道
線の開運営通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの
対策として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道
(カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山
口登山道は登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在エムソ
゙ネは、林道の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡
省21
137: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:30 ID:i1cWpF8u0(135/311) AAS
860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神仏分離
令後も継続運営していたが、1883年、須山口二合八勺に接続す
る御殿場口登山道が開鑿された。また、1889年に東海道本線が
開通し、御殿場口の利便性の向上により須山口からの登拝者や登山
者が減少することとなった。1912年には、登山道の一部が陸軍
演運営習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登
山)は衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道
省21
138: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:30 ID:i1cWpF8u0(136/311) AAS
や関本の道了尊運営とセットにされた参詣の流行で登拝者数は増加
し、年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピー
クを迎えた。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方か
らの登拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下
山に適運営した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、
須走口山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による
登拝も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、税墨
139: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:31 ID:i1cWpF8u0(137/311) AAS
び1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離エムソ
゙ネが長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され
続けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、1916年に
は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間大
社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また運営、19
23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959年
、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下の登
省21
140: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:31 ID:i1cWpF8u0(138/311) AAS
保運営存管理計画」策定(1999年、2006年改訂)1996
年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備
1999年「特別名勝アフィ保存管理計画」を改訂2006年「特
別名勝アフィ保存管理計画」を改訂2011年文化財保護法運営の
下に他の文化財とともに登山道の一部を史跡アフィとして指定−2
6−2011年「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予定)A6北
口本宮冨士浅間神社アフィ北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭
省21
141: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:32 ID:i1cWpF8u0(139/311) AAS
74年)1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1
997年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺
替え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本エムソ
゙ネ宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定(予定)2011年
「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予定)A7西湖アフィの火山
活動により形成された堰止湖で、アフィの北北西に位置運営する。
省21
142: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:32 ID:i1cWpF8u0(140/311) AAS
る本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影されたアフィとほぼ同
じ姿のまま現在も残している。写真本栖湖の写真表法的保護、修理
・運営整備の経緯(A7・A8・A9)1936年所在地が国立公
園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五
湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に
本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年運営文
化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富士五活改
143: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:33 ID:i1cWpF8u0(141/311) AAS
存管理計画」を策定(予定)(2)信仰B1アフィ本宮浅間大社富
士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに発展してき
た富士宮市の中央部に所在する。アフィの神とされ運営る木花之佐
久夜毘売命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の
総本宮とされている。境内には登拝の際に水垢離場として使用され
た湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ、アフィにより近い遥拝所
であった山宮浅間神社から現在の地に移転運営されたとされる。創
省21
144: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:33 ID:i1cWpF8u0(142/311) AAS
大社に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+アフィ表法的保護、
修理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下に運営特別保
護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本
殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理1
936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定に
伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋運営根の修理等が行
われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿の
省21
145: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:34 ID:i1cWpF8u0(143/311) AAS
ざす登拝者が身を清める場として使用された。その様子は「運営絹
本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登
山記で確認できる。この絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ
、水垢離する人々やそのための施設が見られる。登拝者の水垢離は
1920〜30年代まで行われ、現在では山開きの運営恒例行事に
形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも
利用する人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設
省21
146: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:35 ID:i1cWpF8u0(144/311) AAS
゙ネる。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神
幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横より発
し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上し
て山宮浅間神社に至る。道の出発点及び途中には169運営1年に
置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っている。写真山宮
浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富
士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位前構
147: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:35 ID:i1cWpF8u0(145/311) AAS
、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神運営社と一体化した
範囲には、現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇な
どが存在している。これらは1868年の神仏分離令までは一体の
ものであり、アフィ興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。なお、
周辺には興法寺の維持・運営にあたっ運営ていた道者坊の村山三坊
(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認
されている。その起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上
省21
148: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:36 ID:i1cWpF8u0(146/311) AAS
離」の手法を広めている。加えてアフィを航海の目印とする伊豆半
島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の勢
力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前半が最
も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護運営院の力を背景に一定
の権威をもち、登山道及びその頂上部の大日堂周辺を支配した。社
殿については、1697年徳川幕府により修復され、現在の大日堂
は建築様式や部材の状況から19世紀半ばに建立されたと推定され
省21
149: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:37 ID:i1cWpF8u0(147/311) AAS
稲葉氏などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の宝
永噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、運営1718年
に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年の修理
も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路があり、水
垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭にかけて富士講が
隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝運営者が登山又は下山の
際立ち寄った。その数は1800年の御縁年の際に約27,3絡枯
150: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:37 ID:i1cWpF8u0(148/311) AAS
名であった。同時期から20世紀前半まで富士講信者は境内に登山
回数等の記念碑を約80基造営した。また、神社には神社神官や御
師が発行した木版印刷による神影運営や神符の版木が保管されてい
る。写真冨士浅間神社の写真B6河口浅間神社古くからアフィに関
わる祭祀は南麓の浅間神社(山宮浅間神社か〜)が執り行っていた
が、864年〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも
浅間神社が建てられるこ運営ととなった。それが、アフィを望む河
省21
151: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:38 ID:i1cWpF8u0(149/311) AAS
に増すことになる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変
化や、富士スバルラインの開通等もあ運営って吉田口登山道は衰退
する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士
御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が困
難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿を里宮
地内に移転することとなる。運営修験や登拝といった様々な富士信
仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神とし
省21
152: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:38 ID:i1cWpF8u0(150/311) AAS
川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋運営(しおのや)と号し
、富士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家としたアフィ
御師である。1572年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位
置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記されており、外川家ではこの人
物を中興の初代としている。また運営、1669年の「検地帳」で
は、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸
末期頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物
省21
153: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:39 ID:i1cWpF8u0(151/311) AAS
している。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯
1976年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消
防設備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋い
の補修を行う1997年主屋、蔵の修運営理を行う1998年主屋
、蔵の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計
画」を策定B9山中湖アフィの火山活動によって形成された堰止湖
で、アフィの北東に位置する。アフィ周辺の湖を巡って修行す坂鳴
154: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:39 ID:i1cWpF8u0(152/311) AAS
八海巡りが行われたが、この運営山中湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホ
テルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりのある
芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。アフィの頂
上付近に日の入りが運営重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ、
多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖アフィの火
山活動により形成された堰止湖で、アフィの北に位置する。アフィ
省21
155: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:40 ID:i1cWpF8u0(153/311) AAS
景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に指定2010
年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜1
4年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予
定)B12船津胎内樹型運営1617年、富士講の祖とされる長谷
川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹
型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)
を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清に
省21
156: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:40 ID:i1cWpF8u0(154/311) AAS
念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士
山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花
姫命・角行祖霊・徳川家康を運営主祭神とする浅間神社と富士講の
人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長
さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬
涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立した文
書である吾妻鏡によ運営れば人穴は霊的な場所であり、地元では「
省21
157: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:41 ID:i1cWpF8u0(155/311) AAS
で建立年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から
19世紀前半(1781から18運営50年)に建立されたものが
半数(44基)、19世紀末より20世紀前半(1871から19
40年)のものが3分の1(29基)を占める。写真B14の写真
B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅
約120〜210mの数運営百の流れを持つ滝である。滝は約1万
年前に噴出した白糸溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万欄麺
158: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:42 ID:i1cWpF8u0(156/311) AAS
水を源としている。滝の名前は湧水の噴出が数百条の白糸が垂れて
いるように見えるため名づけられた。湧水のメカニズムは、湧玉池
と同様であり、運営透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の
境界に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と
泥流層の間より湧き出しているものである。このメカニズムが解明
される前の19世紀半ばの資料「不二山道知留邊」ではその起源を
富士五運営湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書で
省21
159: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:42 ID:i1cWpF8u0(157/311) AAS
なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえ
たという説が有力で運営ある。かつては半島一帯に松が繁茂し、8
世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉
集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は
後鳥羽上皇など中央の権力者にアフィと組み合わされた景勝地とし
て認識され運営、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利
義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富
省21
160: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:43 ID:i1cWpF8u0(158/311) AAS
)写真歌川広重の浮世絵運営−37−写真三保松原の写真表法的保
護、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に
名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計画書を策定1977
年名勝地内の一部が指定解除1989年名勝「三保松原」保存管理
計画書を改定1運営990年名勝地内の一部が追加指定及び指定解
除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管
理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世
省21
161: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:43 ID:i1cWpF8u0(159/311) AAS
)・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須走拝所跡・須山拝所
跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村
山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5
号建物跡・8号建物運営跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道
・須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須
走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5
吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩賀懐
162: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:44 ID:i1cWpF8u0(160/311) AAS
植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・アフィの展望・富士
の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制
B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区?自然
地形(運営山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹
型等アフィ体・側火山からの噴出物による地形・アフィ原始林及び
青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖
風穴等)?森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等エムソ
省21
163: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:45 ID:i1cWpF8u0(161/311) AAS
らたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如
何なる旱にも水運営の涸れることはない」と記している。写真銀明
水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑?(高さ112×幅62?
)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年代が確認で
きる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑?(
高さ1運営62×下幅76×上幅63?)表面に龍が、裏面には文
字が刻まれている。(c)石碑?(未計測)「大正十三年八月償掘
164: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:46 ID:i1cWpF8u0(162/311) AAS
刻してある。写真銀明水の石碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、
白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、エムソ
゙ネ三島岳)山頂部の直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、そ
れぞれの峰に仏が住むとされた。文永年中(1264〜1275)
の作である『万葉集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とある
ことから、鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」運営に見立
てていたと考えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土
省21
165: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:46 ID:i1cWpF8u0(163/311) AAS
文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約
3運営,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居
が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約3,
748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社
の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の運営険
を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。
頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊
省21
166: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:47 ID:i1cWpF8u0(164/311) AAS
む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付
近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで
きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火
口運営を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山
スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている
鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在して
いる。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は運宗換
167: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:48 ID:i1cWpF8u0(165/311) AAS
大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『アフィ明細
図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろ
が池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、それぞれ
延徳2年(1490)、天文12年(1543)、運営寛永元年(
1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰
の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所
跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏
省21
168: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:48 ID:i1cWpF8u0(166/311) AAS
mである。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。
平坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている。
また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。運営江戸時
代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここか
らは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として
使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側には溝が東
西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡運営をたどれなくな
省21
169: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:49 ID:i1cWpF8u0(167/311) AAS
5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡
7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の運営位
置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の中
で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の
平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存して
おり、石段の東西には石垣が組まれている。また平運営場中央部よ
りやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つの北東
省21
170: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:50 ID:i1cWpF8u0(168/311) AAS
さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶エムソ
゙ネ岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩
は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1230
年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火時に噴出し
た可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、運営須山胎
内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められてお
り、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形成されていることが析嗣
171: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:50 ID:i1cWpF8u0(169/311) AAS
した。写真須山御胎内の写真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木
花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住運営の彫刻家、杉山
拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ
る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置され
ている。・鳥居須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の
鳥居が建てられている。・標柱鳥居脇運営に、「旧須山口登山道一
合目(須山御胎内)」と記された標柱が、アフィ須山口登山道保存
省21
172: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:51 ID:i1cWpF8u0(170/311) AAS
石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎運営久須志之神
社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山
道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御
嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されている。・
狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置運営されている。この場
所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目
付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高
省21
173: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:51 ID:i1cWpF8u0(171/311) AAS
、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわか
る。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周
辺の写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを
烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称運営される食行身禄
が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐国志
」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ
身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期
省21
174: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:52 ID:i1cWpF8u0(172/311) AAS
より西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿
入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い建
物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西運営宮本殿西宮
本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わ
る本殿として建立されたが、1615年、鳥居成次の本殿建立によ
り現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流
造であるが、両側面と背面は二間で一間の運営向拝をつける。痕途
175: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:52 ID:i1cWpF8u0(173/311) AAS
本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪
華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重
な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚
山社誌では、日本武尊がアフィを運営遙拝した地であり、ここを浅
間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、788年
には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武
尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をな
省21
176: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:53 ID:i1cWpF8u0(174/311) AAS
周辺のものB1アフィ本宮浅間大社図以下に示す要素が点在してい
る平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称される
。神立山及びアフィ本宮浅間大社の基運営盤を構成する地形は、新
富士火山旧期溶岩流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広
がる扇状地堆積物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあた
る。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見
される。また、当該地区は風運営致地区・保安林にも指定され、渋
省21
177: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:53 ID:i1cWpF8u0(175/311) AAS
例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は
桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧運営皮葺である。明治4
0年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に
指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本
殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む)
[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分運営で、桁行3間・梁間3間の両
下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれていない
省21
178: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:54 ID:i1cWpF8u0(176/311) AAS
流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町運営時代の初期には
すでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両
側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下池の境
部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれている。・神幸
橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への運営流出口に石造りの橋が架
けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発し
たとされる。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺期依
179: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:54 ID:i1cWpF8u0(177/311) AAS
ている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋
が架けられている。寛文10運営年の絵図には既に描かれているが
、大正4年(1915)に石造りに改められた。写真輪橋の写真図
輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年
の発掘調査により、護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣
と建物跡が検出され運営た。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正
方形となっている。また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物
省21
180: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:55 ID:i1cWpF8u0(178/311) AAS
側が神路枚橋であるが、寛文10運営年(1670)の絵図では西
側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図
B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・溶岩流
地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至るまでの区域
は北山溶岩流上に展開し運営ている。また、遥拝所が位置する小高
い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、
天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展
省21
181: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:56 ID:i1cWpF8u0(179/311) AAS
的に遺物を含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いら
れたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた1
2世紀から15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定さ
れる。写真石塁の写真図石塁運営の平面図・断面図・玉垣遥拝所の
周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦
後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門
扉が取り付けられている。・遥拝所アフィを直接拝礼し、祭儀を行
省21
182: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:56 ID:i1cWpF8u0(180/311) AAS
乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以前
はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀でし
め縄を張る。[大スギ]昭和31運営年5月24日に県天然記念物
に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内
の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17
.5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及
ぶ空洞がある。案内板で運営は約1,000年の樹齢とされる肖版
183: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:57 ID:i1cWpF8u0(181/311) AAS
実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸
高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジイ
1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹されたヒノキ
やスギである。運営富士宮市の保存樹林に指定されている。・浅間
神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境内社富士浅間
七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左座に大山祗命、
彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊
省21
184: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:57 ID:i1cWpF8u0(182/311) AAS
1857)造立と考えられる。周囲の正方形の石組みと中央の丸い
石組みは石材に違いが見られ、造成時期が異なっているものと思わ
れる。写真護摩壇の運営写真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−護
摩壇裏手の一段高くなったところに末代上人を祀る大棟梁権現社が
あったとされる。しかし、神仏分離令により廃され、代わりに村山
浅間神社社殿と大日堂の間から裏山に登ったところに大棟梁権現社
を遷し「富運営士大神社(祭神大己貴命)」として祀られた。現在
省21
185: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:58 ID:i1cWpF8u0(183/311) AAS
神輿を納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内
には、社殿前と石段手前運営の参道脇に計二対の狛犬が設置されて
いる。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は平成13年に
奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている
。登り口のものは平成13年に、階段を登ったところにあるものは
、それぞれ寛保運営2年(1742)、文政6年に奉納されたもの
である。・手水舎石段に至る参道の脇と、社務所西側の2箇所に、
省21
186: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:58 ID:i1cWpF8u0(184/311) AAS
県が南限である。県内ではま運営れな樹種である。・根上がりモミ
平成3年5月1日に小山町の天然記念物に指定された。樹齢約30
0年で、根回り4.61m、目通り3.07m、樹高27m。この
根上り群は約150年生のモミの根本にブナ、イヌシデの種子が生
え、宝永噴火の火山運営灰土が、降雨により流亡しながらモミが成
長したため、根が爪を立てた状態で生育し、根上がりになったと考
えられる。縁結びの木とも呼ばれている。・社殿平成18年8嘲裏
187: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)18:59 ID:i1cWpF8u0(185/311) AAS
在もアフィと密運営接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的
背景と相俟って、アフィ信仰を語る上で欠かすことのできない資産
である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠
点でもある本殿などの建造物群や境内地などがある。・社殿、鳥居
河口浅運営間神社創建は、平安時代の865年に遡る可能性がある
。建立目的はアフィの噴火を鎮めるためであり、当時のアフィ及び
噴火ということに対する当時の考え方を理解することができる。鳥
省21
188: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:00 ID:i1cWpF8u0(186/311) AAS
されたことが棟札から明らかにされている。大規模な入母屋造りの
一間社で棟の高さは9.3m、屋根は檜皮葺形の銅板葺である。蟇
股や軒唐破風妻などにも彫刻を飾るなど、桃山建築様式の特色が見
られる。内運営部の色彩も当初のものを良く残しており、建築年代
の確実なこの時期の遺構としては大変貴重な建造物である。写真本
殿の写真図本殿の図面B8御師住宅図御師住宅の位置図御師住宅は
、富士講徒の案内をし、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅兼宿
省21
189: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:00 ID:i1cWpF8u0(187/311) AAS
家住宅現状平面図B9山中湖図以下に示す要素が点在している平面
図アフィ周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒に
よって行われた運営が、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数
えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかり
が深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖
水)などがある。写真山中湖の写真B10河口湖図以下に示す要素
が点在運営している平面図アフィ周辺の湖を巡って修行する内娯百
190: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:01 ID:i1cWpF8u0(188/311) AAS
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず
巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多く
の芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素エムソ
゙ネとして、自然地形(湖水)などがある。写真河口湖の写真B11
忍野八海図以下に示す要素が点在している平面図忍野八海は、富士
山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る冨士
信仰に関わる巡拝地(霊場)であった。顕著な普遍的価運営値を構
省21
191: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:01 ID:i1cWpF8u0(189/311) AAS
剣丸尾第1溶岩流の東縁に所在する。本穴の側面では垂れ下がった
溶岩が肋骨のように見え、母の胎内に似ているため、浅間大菩薩(
木運営花開耶姫)出世の御胎内として信仰の対象となった。・洞内
の石祠、石造物群吉田胎内の本穴の奥には、石祠があって富士講に
とってのアフィの祭神である木花開耶姫が祀られている。樹型内に
入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠がある。B14運営人
穴富士講遺跡(人穴浅間神社)図以下に示す要素が点在している平
省21
192: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:02 ID:i1cWpF8u0(190/311) AAS
一番古い碑塔は寛文4年(1664)建立のものである。建立目的
によっ運営て大きく分類すると、個人の戒名や行名を記した墓碑・
供養碑である「墓碑供養碑」、修行による大願成就を祈願する「祈
願奉納碑」、個人の富士登拝や講の人穴参拝を記念する「顕彰記念
碑」の3種とそれ以外に整理される。「墓碑供養碑」が最も多いエムソ
゙ネ。−61−写真碑塔群の写真図碑塔群の配置図・参道洞穴入口や
浅間神社社殿のある平場へ至る参道が、境内地内を南から北へ伸び
省21
193: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:02 ID:i1cWpF8u0(191/311) AAS
層の境目に運営はマグマの急冷時に形成された粉砕部(クリンカー
)が発達している。また、溶岩流内部には、マグマが冷え固まった
際の収縮により形成された縦方向の割れ目(柱状節理)が存在する
。白糸ノ滝は、地質の特徴上、次のようなメカニズムで崩落を繰り
返運営していると考えられている。白糸の滝は、最近10年間の平
均で日量約15.6万トンの湧水量が見積もられており、この多量
の水の落下は、白糸溶岩流に比して軟弱な古富士泥流堆積物を願採
194: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:03 ID:i1cWpF8u0(192/311) AAS
に浸食する。やがて、下部が抉り取られることで上部の溶岩運営流
はオーバーハング状態となり、自重に耐えられなくなった時点で自
然崩落する。この作用が繰り返され、崖線が後退し続けていると考
えられる。また、白糸溶岩流内の柱状節理は浸食に弱く、滝の後退
を早める一因と指摘されている。白糸ノ滝は、1年運営に約2セン
チメートルの割合で北側に後退しているという計算もある。音止の
滝も、白糸ノ滝と同様の地質であり、同様のメカニズムで崩落−6
省21
195: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:04 ID:i1cWpF8u0(193/311) AAS
゙ネノ滝」には、江戸時代中期以降江戸で隆盛した富士講の祖長谷川
角行にまつわる伝承がある。角行は白糸の滝で垢離をとり修行を行
ったとされ、富士講の信者の中には白糸の滝を訪れる者や、白糸の
滝で修行を行う者がいたことが知られている。幕末の資運営料には
、白糸の滝で垢離をとり修行を行った富士講の信者の記録がある。
指定地内には富士講の信者が建てた石碑があり、「仙元大神」と記
されたもの(市道沿い)や、「食行身禄」と記されたもの(白糸の
省21
196: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:04 ID:i1cWpF8u0(194/311) AAS
幅広く分布している。図三保松原の地区区分図表地区区分詳細表地
区境界?特別規制A地区真崎灯台の内海側の第2種規制地区との境
界は、隣接する特別規制B地区と第2種規制地区との境界(運営松
が途切れる所)の延長線上とする。?特別規制B地区特別規制A地
区との境界は防潮堤外側とし、その他の規制地区との境界は、羽衣
参道は道路外側、それ以外は平成元年4月1日現在において松原を
形成している地区、ただし、真崎先端の境界は真崎運営灯台と建設
省21
197: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:05 ID:i1cWpF8u0(195/311) AAS
になっており、横渡と呼ばれる。登山道はここで日沢の左岸から右
岸に渡る。写真日沢の写真A3須山口登山道起伏に富んだ自然地形
をなし、粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩運営を繰り返し多量
に噴出したため、テフラに覆われている。A4須走口登山道起伏に
富んだ自然地形をなし、粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩を繰
り返し多量に噴出したため、テフラに覆われている。A5吉田口登
山道二合目から三合目にかけて見られ運営る古富士火山からの泥流
省21
198: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:07 ID:i1cWpF8u0(196/311) AAS
までの区域が亜高山帯にあたり、コメツガ・シラベ・オオシラビソ
の森林を形成している。火山礫の露出した日当たりの良いところに
は、ダケカンバが生えている。・焼山部分の植物標高2500m付
近から上の区域は高山帯に当たり、森林は形成され運営ない。植物
はほとんどみられない地域であることから、かつては「焼山」と呼
ばれた。植物の遷移の過程を見ることが出来る場所としても、学術
的価値が高い。ここには、カラマツが匍匐状に生育し、乾燥に味湧
199: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:07 ID:i1cWpF8u0(197/311) AAS
ミヤマハンノキ・オンタデ・メゲツソウ・運営フジアザミ・ムラサ
キモメンズルなどが生育する。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖
A8精進湖A9本栖湖水辺植物群、沈水植物群にそれぞれ特徴が挙
げられる。イ信仰B1アフィ本宮浅間大社構成資産の土地には、丘
陵を構成する社叢林・境内林など運営のほか、敷地内において植栽
された樹木等が存在している。−68−B2山宮浅間神社構成資産
の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内に
省21
200: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:08 ID:i1cWpF8u0(198/311) AAS
標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案内標識等
の整備が進められている。A3須山口登山道なしA4須走口登山道
アフィにおける標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一さ
れた案内標識等の整備が進められてい運営る。A5吉田口登山道富
士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一され
た案内標識等の整備が進められている。A6北口本宮冨士浅間神社
A7西湖A8精進湖A9本栖湖・2006年3月22日より、自然
省21
201: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:08 ID:i1cWpF8u0(199/311) AAS
して整備され、さらに平成6年から7年にかけて親水広場を備えた
「神田川ふれあい広場」として再整備された。現在は、同時期に改
修された神田川護岸も含め、中心市街地の運営親水空間として市民
の憩いの場となっている。広場内には、トイレ、各種遊具、ベンチ
、時計、水飲み場等の施設・設備が設置されている。・御手洗橋神
田川ふれあい広場の南東側には、長さ7.3m、幅11.5mの御
手洗橋が架けられている。『大宮運営町誌』には、明治26年(1
省21
202: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:09 ID:i1cWpF8u0(200/311) AAS
居が建てられている。・燈篭コンクリート製の鳥居から籠屋へ至る
参道の両側に氏子等が奉納した燈篭が並んで設運営置されている。
また、籠屋北側鉾立石の左右にも1基ずつ設置されている。・駐車
場乗用車3台程を駐車できる駐車場が、県道から入って境内地を横
切る道沿いに設けられている。・石碑山宮浅間神社の由緒を記した
石碑が、駐車場の北側に設置されてい運営る。・石造物参道沿いに
は、道祖神、青面金剛、観音等の石造物が置かれている。B3娘鳴
203: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:09 ID:i1cWpF8u0(201/311) AAS
浅間神社・社務所境内西側に、社務所が建てられている。・宝物殿
社殿の南西側に、宝物殿が建てられている。・村山公会堂社務所の
西側には、元村山地区の住民運営が、会合等で利用する公会堂が建
てられている。・トイレ社務所北側に、トイレが設置されている。
・参道手すり氏神社へと登る参道脇には、アルミ製の手すりが設置
されている。・御神木柵県指定天然記念物のイチョウの周囲には、
樹木保護のための柵運営が設置されている。・御神木指定証県天然
省21
204: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:11 ID:i1cWpF8u0(202/311) AAS
梨県・富士吉田市教育委員会により設運営置されている。B14人
穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・説明板、案内板洞穴の入口に、人
穴の由緒や市指定文化財であることを記した説明板、碑塔群や洞穴
内の危険に対して注意を促す旨の案内板が4本建てられている。B
15白糸ノ滝なしウ眺望C三運営保松原なし?道路とその他人工物
構成資産の土地には、日常生活を営む地域住民が使用する生活道路
や、富士スバルラインやアフィスカイラインなどの観光道路をはじ
省21
205: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:11 ID:i1cWpF8u0(203/311) AAS
側に位置する水力発電用取水口は、(株)日本軽金属蒲原製造所の
工場群に電力を供給する自家用水力発電所の一つ、本栖発電所のも
のである。イ信仰B1アフィ本宮浅間大社指定地の南西部分には、
自動発券機(料金収受機)を設置運営した第1駐車場が整備されて
いる。B2山宮浅間神社乗用車3台程を駐車できる駐車場が、県道
から入って境内地を横切る道沿いに設けられている。−75−B3
村山浅間神社境内地西端に、参詣者用の駐車場が整備されてい朗湧
206: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:12 ID:i1cWpF8u0(204/311) AAS
B4須山浅間神社裾野市運営と須山振興会によって、須山口からの
登山道の案内図が設置されている。B5須走浅間神社社務所東側に
は、参拝者用の駐車場乗用車6台分が設けられている。B6河口浅
間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅国道139号に面した敷
地入口には、御運営師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)の内容
を示す解説板が設置されている。B9山中湖B10河口湖B11忍
野八海B12船津胎内樹型河口湖フィールドセンターの開設に伴い
省21
207: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:12 ID:i1cWpF8u0(205/311) AAS
盤岩類、斑レイ岩、黒い玄武岩質スコリアなどを降らせた。記録に
よれば約100?離れた江戸にまで火山灰が到達したが、溶岩の流
下はなかった。活火山であり、今後も噴火活動の可能性がある。・
アフィ特定地理等保運営護林8合目から標高約2,400m付近に
かけて展開する約927haの保護林である。アフィの国有林にお
いては第3次国有林野施業実施計画、自然環境の維持、動植物の保
護が図られ、あわせて遺伝資源の保存を図ることを目的として設定
省21
208: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:13 ID:i1cWpF8u0(206/311) AAS
)、アザミ塚(1,626m)などの側火山が見られる。宝永4年
(1707)の宝永の噴火により須山口旧登山道は崩壊し、その後
、宝永山を東に迂回する運営形で復興した。・鳥類相アフィ域で観
察された鳥類は約160種である。固有種は存在しない。・陸生哺
乳類アフィの山域には、6目14科35種程の陸生哺乳類が生息す
る。その中には、特別天然記念物に指定されているニホンカモシカ
や天然記念物に運営指定されているヤマネが含まれる。また、ツキ
省21
209: (ワッチョイ 4e0c-DGJA [175.177.5.40]) 2018/06/10(日)19:13 ID:i1cWpF8u0(207/311) AAS
山は御坂層基盤により構成されている。北側から西側にかけては、
標高1100m〜1300m運営前後の山が連なっている。また南
側には標高1485mの竜ヶ岳が位置している。イ信仰B1アフィ
本宮浅間大社・神田川−78−湧玉池の湧水を水源とする神田川が
、約1,000mを流れ潤井川に注いでいる。かつては禊所より下
流(下池)の部分も運営含めて御手洗川と呼ばれていた。現在、護
岸の一部は、神田川ふれあい広場から下りる親水護岸として整劾果
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