あなたにとって大河ドラマ史上最高の父親は? (83レス)
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19: [] 2024/06/30(日) 12:24:31.97 ID:JeHZzW1t 同じ加藤でも、清正は知っていても嘉明のことは知らないという人は多いのではないでしょうか。「春や昔十五万石の城下かな」と正岡子規が詠んだ伊予松山のシンボルである松山城は彼が作ったといえば、多少は親近感が湧くでしょうか。 加藤嘉明は、代々徳川家康の家臣の家柄です。つまり三河武士の生まれですが、父が一向一揆に加担して出奔し、嘉明も放浪の身となります。その後、父はどうにか羽柴秀吉(当時、長浜城主)に仕えることになり、嘉明も秀吉の世話になります。 同じく秀吉子飼いの加藤清正とは、出自こそ違いますが、二人の加藤はある時点まで、非常に似た境遇でした。二人とも賤ヶ岳で七本槍として活躍したこと、朝鮮出兵で功を挙げたこと、秀吉の死後、石田三成と敵対したこと、などです。 朝鮮出兵で大活躍、清正を救った 加藤清正に比べると、加藤嘉明は地味な印象ですが、武将としての実力は相当なもので、特に朝鮮出兵では大活躍しています。文禄の役当時、加藤嘉明は淡路の大名でしたが、志摩の九鬼義隆を大将とする水軍の副将格として戦に参加しました。朝鮮水軍は名将・李舜臣(りしゅんしん)が率いており、日本の軍船は壊滅に近い打撃を受けますが、加藤嘉明の水軍は善戦し、秀吉から感状を受けています。 続く慶長の役では、加藤清正を救います。蔚山(ウルサン)城が包囲されたとの報を受け、清正は猪突猛進して城に乗り込みましたが、補給が途絶えて孤立。そのまま籠城とあいなりました。味方はわずか500。対する明・朝鮮連合軍は、あわせて5万7000人という大軍でした。加えて飢えと寒さに襲われ、さすがの清正軍も玉砕かというところに現れたのが、蜂須賀家正や鍋島直茂の救援隊であり、加藤嘉明の軍勢であったのです。しかし、我々が「蔚山城の戦い」として知るのは加藤清正の奮戦であって、加藤嘉明の功績は忘れられています。 ひとつ年上の清正は、やることなすこと派手でした。嘉明に対して清正のほうが何かにつけて目立ったことが、この実力派武将の存在を希薄にしています。 しかし、秀吉にとっては頼りになる存在だったのでしょう。伊予20万石を与えるとともに、形見として歯をもらっています。秀吉を祀る豊国神社には、加藤嘉明に預けおくという手紙とともに、その歯が納められています。この歯を調査した結果、上あごの左側の奥歯で、歯垢で覆われていたといい、この歯以外はすでになかったのではないかと推察されました。また、この歯から、秀吉の血液型はO型ということもわかりました。歯を形見にするというのも珍しいですが、秀吉が嘉明を信頼していた証なのかもしれません。 しかし、その嘉明も、関ヶ原の戦いでは東軍につき、大坂冬の陣、夏の陣でも徳川方について、豊臣家滅亡のために働きました。加藤清正が秀頼を守るため、いざとなれば家康と差し違える覚悟だったのとは大きな違いです。加藤嘉明は「沈勇の士」といわれます。文字どおり冷戦沈着かつ勇気凛々の武将だったのです。豊臣家を見限って終始家康方についたのは、彼の冷静沈着さゆえかもしれません。 加藤嘉明が開いた松山藩ですが、その後加藤氏は加増のため会津に国替えとなり、代わって蒲生氏が治めます。しかし蒲生氏も後継ぎがなく断絶。その後寛永12(1635)年、徳川家康の異父弟・久松定勝の次男である松平定行が松山城に入り、以来明治に至るまで松平氏が藩主として治めることになりました。現在の天守は加藤嘉明が作ったものではなく、ペリーが浦賀にやってきた翌年、安政元(1854)年に再建されたものです。 松山城は、江戸期に建てられた現存12天守のひとつに数えられますが、実は親藩の大名(松平氏)が作った唯一の天守なのです。そのため天守の紋章は葵の御紋となっています。 ちなみにですが、先の定勝や定行と名前が似ているのでお気づきかもしれませんが、私はこの久松松平家の傍流の末裔なんだす。 http://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1717308385/19
同じ加藤でも清正は知っていても嘉明のことは知らないという人は多いのではないでしょうか春や昔十五万石の城下かなと正岡子規が詠んだ伊予松山のシンボルである松山城は彼が作ったといえば多少は親近感が湧くでしょうか 加藤嘉明は代徳川家康の家臣の家柄ですつまり三河武士の生まれですが父が一向一に加担して出奔し嘉明も放浪の身となりますその後父はどうにか羽柴秀吉当時長浜城主に仕えることになり嘉明も秀吉の世話になります 同じく秀吉子飼いの加藤清正とは出自こそ違いますが二人の加藤はある時点まで非常に似た境遇でした二人ともヶ岳で七本槍として活躍したこと朝鮮出兵で功を挙げたこと秀吉の死後石田三成と敵対したことなどです 朝鮮出兵で大活躍清正を救った 加藤清正に比べると加藤嘉明は地味な印象ですが武将としての実力は相当なもので特に朝鮮出兵では大活躍しています文禄の役当時加藤嘉明は淡路の大名でしたが志摩の九鬼義隆を大将とする水軍の副将格として戦に参加しました朝鮮水軍は名将李舜臣りしゅんしんが率いており日本の軍船は壊滅に近い打撃を受けますが加藤嘉明の水軍は善戦し秀吉から感状を受けています 続く慶長の役では加藤清正を救います蔚山ウルサン城が包囲されたとの報を受け清正は猪突猛進して城に乗り込みましたが補給が途絶えて孤立そのまま城とあいなりました味方はわずか対する明朝鮮連合軍はあわせて万人という大軍でした加えて飢えと寒さに襲われさすがの清正軍も玉砕かというところに現れたのが蜂須賀家正や鍋島直茂の救援隊であり加藤嘉明の軍勢であったのですしかし我が蔚山城の戦いとして知るのは加藤清正の奮戦であって加藤嘉明の功績は忘れられています ひとつ年上の清正はやることなすこと派手でした嘉明に対して清正のほうが何かにつけて目立ったことがこの実力派武将の存在を希薄にしています しかし秀吉にとっては頼りになる存在だったのでしょう伊予万石を与えるとともに形見として歯をもらっています秀吉をる豊国神社には加藤嘉明に預けおくという手紙とともにその歯が納められていますこの歯を調査した結果上あごの左側の奥歯で歯垢で覆われていたといいこの歯以外はすでになかったのではないかと推察されましたまたこの歯から秀吉の血液型は型ということもわかりました歯を形見にするというのも珍しいですが秀吉が嘉明を信頼していた証なのかもしれません しかしその嘉明も関ヶ原の戦いでは東軍につき大坂冬の陣夏の陣でも徳川方について豊臣家滅亡のために働きました加藤清正が秀頼を守るためいざとなれば家康と差し違える覚悟だったのとは大きな違いです加藤嘉明は沈勇の士といわれます文字どおり冷戦沈着かつ勇気の武将だったのです豊臣家を見限って終始家康方についたのは彼の冷静沈着さゆえかもしれません 加藤嘉明が開いた松山藩ですがその後加藤氏は加増のため会津に国替えとなり代わって蒲生氏が治めますしかし蒲生氏も後継ぎがなく断絶その後寛永年徳川家康の異父弟久松定勝の次男である松平定行が松山城に入り以来明治に至るまで松平氏が藩主として治めることになりました現在の天守は加藤嘉明が作ったものではなくペリーが浦賀にやってきた翌年安政元年に再建されたものです 松山城は江戸期に建てられた現存天守のひとつに数えられますが実は親藩の大名松平氏が作った唯一の天守なのですそのため天守の紋章は葵の御紋となっています ちなみにですが先の定勝や定行と名前が似ているのでお気づきかもしれませんが私はこの久松松平家の傍流の末なんだす
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