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【スクスタ】ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS ★277 (679レス)
【スクスタ】ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS ★277 http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/
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573: (茸) [sage] 2020/09/13(日) 23:39:19 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降りて、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出るさ 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/573
574: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.137.120]) [sage] 2020/09/13(日) 23:39:35 ID:Uq5dAnahr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/574
575: (茸) [sage] 2020/09/13(日) 23:39:37 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降りて、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出るさ 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/575
576: 名無しで叶える物語(しまむら) (ワッチョイ 1954-CURo [60.111.199.167 [上級国民]]) [] 2020/09/13(日) 23:39:38 ID:arcZooi00 初期ことりと果南は一度も編成から外した事ない http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/576
577: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.137.120]) [sage] 2020/09/13(日) 23:39:40 ID:Uq5dAnahr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/577
578: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.137.120]) [sage] 2020/09/13(日) 23:39:45 ID:Uq5dAnahr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/578
579: (茸) [sage] 2020/09/13(日) 23:40:02 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降りて、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出るさ 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/579
580: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.161.83.108]) [sage] 2020/09/13(日) 23:40:03 ID:gMyZTpzMr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/580
581: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-vvZu [126.204.194.129]) [sage] 2020/09/13(日) 23:40:06 ID:gC8/rg5lr そういや今日の虹のアンコールゲージ貯める所でヨハネパワーって言ってる奴いたな http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/581
582: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.161.83.108]) [sage] 2020/09/13(日) 23:40:08 ID:gMyZTpzMr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/582
583: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.161.83.108]) [sage] 2020/09/13(日) 23:40:13 ID:gMyZTpzMr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/583
584: (茸) [sage] 2020/09/13(日) 23:40:20 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降りて、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出るさ 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/584
585: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.194.80.223]) [sage] 2020/09/13(日) 23:40:32 ID:+MlJAFljr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/585
586: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.194.80.223]) [sage] 2020/09/13(日) 23:40:38 ID:+MlJAFljr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/586
587: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.194.80.223]) [sage] 2020/09/13(日) 23:40:42 ID:+MlJAFljr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/587
588: (茸) [sage] 2020/09/13(日) 23:40:45 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降りて、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出るさ 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/588
589: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.194.80.244]) [sage] 2020/09/13(日) 23:41:02 ID:1Vny0kHar 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/589
590: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.194.80.244]) [sage] 2020/09/13(日) 23:41:35 ID:1Vny0kHar 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/590
591: 名無しで叶える物語(もこりん) (ワッチョイ f188-m1Uj [106.165.14.247]) [sage] 2020/09/13(日) 23:41:59 ID:Z6mUZhT50 水ゴリラと属性タイプが被っているせいで、初期URの話になるとだいたい空気になるマリー http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/591
592: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.194.80.244]) [sage] 2020/09/13(日) 23:42:06 ID:1Vny0kHar 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/592
593: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.255.30.45]) [sage] 2020/09/13(日) 23:42:33 ID:/5I7TfJZr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/593
594: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.255.30.45]) [sage] 2020/09/13(日) 23:42:40 ID:/5I7TfJZr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/594
595: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.255.30.45]) [sage] 2020/09/13(日) 23:42:46 ID:/5I7TfJZr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/595
596: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.255.129.223]) [sage] 2020/09/13(日) 23:43:04 ID:AEDYVQ7Jr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/596
597: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.255.129.223]) [sage] 2020/09/13(日) 23:43:09 ID:AEDYVQ7Jr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/597
598: 名無しで叶える物語(たこやき) (ワッチョイ 8bac-Ss5D [153.178.139.124]) [sage] 2020/09/13(日) 23:43:12 ID:zzRGomsb0 どうせならニジガクUR確定にしろよ 初期アクティブSKちかっち来ちゃったぞ http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/598
599: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.255.129.223]) [sage] 2020/09/13(日) 23:43:14 ID:AEDYVQ7Jr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/599
600: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.155.79]) [sage] 2020/09/13(日) 23:43:32 ID:B6wq/nftr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/600
601: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.155.79]) [sage] 2020/09/13(日) 23:43:37 ID:B6wq/nftr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/601
602: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.155.79]) [sage] 2020/09/13(日) 23:43:42 ID:B6wq/nftr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/602
603: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.165.25]) [sage] 2020/09/13(日) 23:44:01 ID:iETxOmrEr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/603
604: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.165.25]) [sage] 2020/09/13(日) 23:44:07 ID:iETxOmrEr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/604
605: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.165.25]) [sage] 2020/09/13(日) 23:44:11 ID:iETxOmrEr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/605
606: 名無しで叶える物語(らっかせい) (ワッチョイ f9bc-daHa [118.86.235.121]) [sage] 2020/09/13(日) 23:44:14 ID:60Bbxdmk0 初期ヨハネ使うのはフェスエマ切替だから フェス愛使って切替せずにアピールで殴るなら初期まきちゃんの方が強いと思う 最近SK優遇多いからVOクール3人埋まってもまきちゃんの方が適任になる可能性もあるし http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/606
607: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.201.173]) [sage] 2020/09/13(日) 23:44:30 ID:IVtTweKcr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/607
608: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.201.173]) [sage] 2020/09/13(日) 23:44:35 ID:IVtTweKcr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/608
609: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.201.173]) [sage] 2020/09/13(日) 23:44:40 ID:IVtTweKcr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/609
610: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.165.27]) [sage] 2020/09/13(日) 23:44:58 ID:gb4dLSMvr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/610
611: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.165.27]) [sage] 2020/09/13(日) 23:45:03 ID:gb4dLSMvr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/611
612: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.165.27]) [sage] 2020/09/13(日) 23:45:08 ID:gb4dLSMvr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/612
613: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.196.164]) [sage] 2020/09/13(日) 23:45:30 ID:wrjlZK/Lr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/613
614: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.196.164]) [sage] 2020/09/13(日) 23:45:35 ID:wrjlZK/Lr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/614
615: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.196.164]) [sage] 2020/09/13(日) 23:45:40 ID:wrjlZK/Lr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/615
616: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.212.174.126]) [sage] 2020/09/13(日) 23:45:57 ID:OLGznVikr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/616
617: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.212.174.126]) [sage] 2020/09/13(日) 23:46:02 ID:OLGznVikr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/617
618: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.212.174.126]) [sage] 2020/09/13(日) 23:46:07 ID:OLGznVikr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/618
619: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.165.29]) [sage] 2020/09/13(日) 23:46:24 ID:Zj1h0Gkar 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/619
620: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.165.29]) [sage] 2020/09/13(日) 23:46:29 ID:Zj1h0Gkar 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/620
621: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.165.29]) [sage] 2020/09/13(日) 23:46:33 ID:Zj1h0Gkar 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/621
622: 名無しで叶える物語(もんじゃ) (ワッチョイ 9191-VPDg [122.210.83.17]) [] 2020/09/13(日) 23:46:40 ID:LRDHCBga0 森鴎外の雁か 連投はやめな 鬱陶しいよ http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/622
623: 名無しで叶える物語(もんじゃ) (ワッチョイ 8954-pr12 [126.234.190.15]) [sage] 2020/09/13(日) 23:46:46 ID:tVBzHno40 そろそろ埋まりそう http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/623
624: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.212.174.146]) [sage] 2020/09/13(日) 23:46:51 ID:w6MAvZMer 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/624
625: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.212.174.146]) [sage] 2020/09/13(日) 23:46:56 ID:w6MAvZMer 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/625
626: 名無しで叶える物語(しまむら) (ワッチョイ 3310-YTwU [165.100.183.207]) [sage] 2020/09/13(日) 23:47:09 ID:yX92HZfB0 初期組は真姫・果南・曜で鉄板だった とゆうかGGSの語源ってこのメンツだっけ? http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/626
627: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-9LdI [126.200.126.36]) [sage] 2020/09/13(日) 23:47:14 ID:n2n5wHy7r ソフバン回線がすまんな http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/627
628: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.196.168]) [sage] 2020/09/13(日) 23:47:19 ID:ZE9ctwQ9r 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/628
629: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.196.168]) [sage] 2020/09/13(日) 23:47:29 ID:ZE9ctwQ9r 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/629
630: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.196.168]) [sage] 2020/09/13(日) 23:47:34 ID:ZE9ctwQ9r 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/630
631: 名無しで叶える物語(なっとう) (ワッチョイ 8954-rhKQ [126.39.129.225]) [sage] 2020/09/13(日) 23:47:36 ID:5n/jllp20 初期希はACSP特技曲完全放置周回する時のスタミナタンク&基本特技上昇による回復力安定要員に使えるから…(小声) http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/631
632: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.194.109.233]) [sage] 2020/09/13(日) 23:48:00 ID:qYi0Kt4Ir 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/632
633: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.194.109.233]) [sage] 2020/09/13(日) 23:48:06 ID:qYi0Kt4Ir 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/633
634: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.194.109.233]) [sage] 2020/09/13(日) 23:48:10 ID:qYi0Kt4Ir 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/634
635: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.133.221.144]) [sage] 2020/09/13(日) 23:48:27 ID:q2/x8h90r 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/635
636: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.133.221.144]) [sage] 2020/09/13(日) 23:48:32 ID:q2/x8h90r 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/636
637: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.133.221.144]) [sage] 2020/09/13(日) 23:48:37 ID:q2/x8h90r 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/637
638: 名無しで叶える物語(もんじゃ) (ワッチョイ 8954-gufp [126.66.74.100]) [] 2020/09/13(日) 23:48:39 ID:7prTRI+70 UR出ないからって荒らすな雑魚 嫌なら辞めろ http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/638
639: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.186.46.77]) [sage] 2020/09/13(日) 23:48:53 ID:c6if9pjHr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/639
640: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.186.46.77]) [sage] 2020/09/13(日) 23:48:59 ID:c6if9pjHr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/640
641: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.186.46.77]) [sage] 2020/09/13(日) 23:49:03 ID:c6if9pjHr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/641
642: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.255.74.72]) [sage] 2020/09/13(日) 23:49:20 ID:uJbS4aZqr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/642
643: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.255.74.72]) [sage] 2020/09/13(日) 23:49:25 ID:uJbS4aZqr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/643
644: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.255.74.72]) [sage] 2020/09/13(日) 23:49:30 ID:uJbS4aZqr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/644
645: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.195.241]) [sage] 2020/09/13(日) 23:49:46 ID:ytgHU1CIr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/645
646: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.195.241]) [sage] 2020/09/13(日) 23:49:51 ID:ytgHU1CIr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/646
647: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.204.195.241]) [sage] 2020/09/13(日) 23:49:56 ID:ytgHU1CIr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/647
648: 名無しで叶える物語(もんじゃ) (アウアウエー Sae3-m1Uj [111.239.48.36]) [sage] 2020/09/13(日) 23:49:59 ID:6Gw3jD7Na ID無し対策されたから仕方なくワッチョイID表示やってるのが哀れで笑える http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/648
649: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.164.46]) [sage] 2020/09/13(日) 23:50:16 ID:y8Xo7CfSr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/649
650: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.164.46]) [sage] 2020/09/13(日) 23:50:21 ID:y8Xo7CfSr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/650
651: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.164.46]) [sage] 2020/09/13(日) 23:50:26 ID:y8Xo7CfSr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/651
652: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.159.38]) [sage] 2020/09/13(日) 23:50:43 ID:5QvTUhiVr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/652
653: 名無しで叶える物語(SB-Android) (オッペケ Src5-dHv0 [126.208.159.38]) [sage] 2020/09/13(日) 23:50:48 ID:5QvTUhiVr 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。 その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。 時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。 部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。 然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。 それは美男だと云うことである。 色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。 血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。 強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。 あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。 あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。 尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。 容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。 学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。 遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。 夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。 日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。 競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。 誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。 上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。 周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。 上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。 それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。 「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。 「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。 此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。 岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。 寂しい無縁坂を降り、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。 それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。 しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これは一つの道筋である。 或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。 鉄門は早く鎖とざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599991215/653
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