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邪馬台国畿内説 part1934 (1002レス)
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700: [] 2024/01/21(日) 16:46:14.97 中華史書の行程記述には「道行き法」というルールがあり、漢書をまとめた班固もこれに従っている。 このルールで読めば完全解明! 則ち出発地(末盧=唐津中原)から主線行程の方角道里を順次述べ、まず東南伊都国=佐賀大和町川上に到る。、 以後、折々に傍線行程(至〇〇の行き止まり国(東南奴国=佐賀城一帯)の情報を付加する。 元の伊都国に戻って、東行100里の主線終点(不彌国=吉野ヶ里)に至らば、 四至(東西南北)の国々を、「〇至・・・」と、軽く紹介して終わる。 つまり「南至の投馬国=宮崎、(自郡至)水行20日」と、 同じく「南至の邪馬台国女王之所都、(自郡至)水行10日陸行1月」が、四至の並列説明となる。 これで主線行程は不彌国までの1万600里となり、自郡至女王国1万2000余里から差し引けば残り1400里。 則ち、不彌国=吉野ヶ里の南1400里=110?に女王の宮殿があったとなる。 倭人条を修正する必要全くなし。で、グーグルマップで南至の110?の地点を探せば、 驚くなかれ、ドンピシャの旧蹟が見つかる。それは阿蘇・高千穂の、天照大御神と日向三代の宮! http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1701687467/700
中華史書の行程記述には道行き法というルールがあり漢書をまとめた班固もこれに従っている このルールで読めば完全解明! 則ち出発地末唐津中原から主線行程の方角道里を順次述べまず東南伊都国佐賀大和町川上に到る 以後折に傍線行程至の行き止まり国東南奴国佐賀城一帯の情報を付加する 元の伊都国に戻って東行里の主線終点不国吉野ヶ里に至らば 四至東西南北の国を至と軽く紹介して終わる つまり南至の投馬国宮崎自郡至水行日と 同じく南至の邪馬台国女王之所都自郡至水行日陸行月が四至の並列説明となる これで主線行程は不国までの万里となり自郡至女王国万余里から差し引けば残り里 則ち不国吉野ヶ里の南里に女王の宮殿があったとなる 倭人条を修正する必要全くなしでグーグルマップで南至のの地点を探せば 驚くなかれドンピシャの旧蹟が見つかるそれは阿蘇高千穂の天照大御神と日向三代の宮!
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