[過去ログ] 大日本帝国海軍は世界に恥を晒しただけだった (514レス)
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449: 2015/10/09(金)17:08 ID:ftuGPMNK(2/2) AAS
黛治夫 - Wikipedia
外部リンク:ja.wikipedia.org黛治夫より
1946年3月、利根艦長時の捕虜虐殺事件、ビハール号事件により戦犯容疑で拘束された。1947年10月29日に香港法廷で懲役7年の判決を受け、1951年9月まで拘留された。
海軍退官後は極洋捕鯨に入社し捕鯨部にて捕鯨砲の開発や後進の育成に尽力した。その教え子の中には、大関朝潮の父親であった長岡友久も居た。
先輩の岡村徳長とは個人的に親交があり、戦後もその関係が続いていた。
なお、いわゆる「日本海軍の遠距離砲撃の命中率は『米軍の三倍』」という説は、戦前に米海軍の砲撃演習結果を入手した黛の分析に端を発している。
しかし、この分析は「昼間の晴天時、海面が穏やかな状態で、艦艇の砲や照準機器の稼動状態が万全で、将兵の心身が平常で興奮することなく冷静沈着に照準した場合」の話であり、
かつ「敵艦隊が回避行動をとらず、煙幕も展張せず、避退もしない。そして反撃もしてこないから、こちらも回避行動をせずに正確に照準できる」ことを前提とした、戦場の実情にまったく合致しないもの、
あるいは命中率低下を招く不利な条件を恣意的に排除した、机上の空論に近いものであった(米海軍の「三分の一」の命中率は、それらをすべて考慮した現実的なものであった)。しかし黛は敗戦後も、
そして自身がサマール島沖海戦で実戦を経験し「逃げる敵に砲弾は命中するものではない」という感慨を残した後でも己の分析が誤りであったことを認めず、「航空主兵への転換は間違い。戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきであった」と生涯主張し続けた。
ビハール号事件 - Wikipedia
外部リンク:ja.wikipedia.orgビハール号事件
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