[過去ログ] ´ω`)ノ こんぬづわ10 (1002レス)
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(1): 奈良学園大学はブラック企業ですか?「はい、もちろんブラック企業です」の続報 2017/05/06(土)19:36 ID:F/nXiKFU0(1/3) AAS
C■~ ☆久々に革命政党奈良県委員会のHPを覗いたら、動きがあったので転載します。
数年前に天理大学で同様のことが起きたときはマスコミが結構取り上げたが、今回は皆無ですな。さすが教育界の重鎮を学長にしてただけのことはあります。

 しんぶん赤旗奈良県ニュース 4月28日付け

       奈良学園大学を提訴

 奈良学園大学教職員組合の川本正知執行委員長はじめ組合員8人は25日、学校法人奈良学園大学に対して地位確認・賃金支払請求訴訟を奈良地方裁判所でおこしました。
 この問題は、同大学が今年の3月末で原告らを解雇、雇止めし、その理由として、同大学が、2014年からビジネス学部及び情報学部の学生募集を停止したことから「過員」となるためと主張しています。
 これに対して、川本氏らは、同大学が学部再編計画時に、既存学部の大学教授の所属先として「現代社会学部」を作る条件で学生募集を停止したのに、現代社会学部が設置認可申請過程の不備で、設置できないことが決まったとたん、約束を反故、整理解雇計画をもちだし、教員の退職を迫ったと経過を説明しました。
 川本氏らは、同大学の対応は、法的にも、道義的にも許されないと奈良県労働委員会に同大学の不当労働行為の「救済」を申し立てています。今度は、強行された整理解雇の不当性を訴え裁判でたたかうと訴えました。
814: 読書 2017/05/06(土)19:40 ID:F/nXiKFU0(2/3) AAS
C■~ *内田樹「女は何を欲望するか?」(角川oneテーマ21 2008年)

☆氏の著作はタイトル関係無しに縦横無尽にいろんな話題に話が及ぶが、本書に限ってはそうではなかった。テーマはフェニミズム。前2/3は言語論で難難(むずむず)でさして興味もないし、理解もさほど。一転last1/3は映画論で「エイリアン」を60頁にわたって考証しこれがナカナカ。あの映画のそんなメッセージが込められていたとは、驚き。

p7
威信というのは、言ってしまえば「世俗」の話であり、それはある理説の内的な価値や深みとは関係がありません。

p13
というのも、私くらいの年齢の人間は、何十年か前に、物語の解釈において、マルクス主義的でない解釈が「ブルジョワ・イデオロギーに汚染された解釈」であるというラベルを貼られてシステマティックに退けられる時代があったことを覚えているからである。
 マルクス主義批評家もまた物語の解釈に新しい切り口を導入したし、状況と主体、政治と文学、前衛と大衆、理念と実感……といった多くの刺激的な問題群を提供した。これはすばらしい文化的貢献だ。けれども、今日、マルクス主義的な批評理論を掲げて、物語作品を「ブルジョワ的である」とか「階級的自覚が欠如している」とかいうことばづかいで批判する批評家はほとんどいなくなった。
 その理由は「理論の過剰適用」にあったと思う。マルクス主義批評理論をもって説明しなくてもよい事例。それを持ち出すことで物語の「滋味」が損なわれるような事例というものが存在する。〜。そういう場合は、「手を出さずに放っておく」というやり方もあったはずだし、それがたぶん節度ということだったのだ。しかし、マルクス主義の理論家たちは全能感を手放すことを惜しんだ。そして、「黄金律」を破ってしまった。
 別に「黄金律」を破ったからといって、何か劇的なことが起こるわけではない。天空から神の雷撃が下るとか、そういうスペクタキュラーなことは何も起こらない。ただ、「節度を失った思想」はゆっくりと、でも確実に飽きられるだけである。別にどこが間違っているからということではなく、私たちは「そういうことばづかい」で何かを説明されることにしだいにうんざりしてくるのだ。「うんざり」された思想はかつての知的威信をリカヴァ―することができない。どれほど努力して戦線の立て直しを呼号しても、どれほど喉を嗄らして意識の覚醒を説いても、それをは人々をいっそう「うんざり」させることしかできない。
 マルクス主義に起こったのと同じことがフェニミズムにも起こりつつあると私は思っている。
省2
815: 読書 2017/05/06(土)19:41 ID:F/nXiKFU0(3/3) AAS
p30-32 言葉の檻
 この「出口のない」ループの中に私たちは閉じ込められている。この閉じられた存在の仕方の元型を私たちはプラトンが『国家』で引いた「洞窟の比喩」に見ることができる。
 洞窟の中に生まれ、手足を縛られて、洞窟の奥のスクリーンに繰り広げられる「影絵人形芝居」だけを眺めて育ってきた人間がいるとする。その人は、影絵の世界こそが真実の世界だと思い込んでいる。だから、かりに無理に洞窟の外に引きずり出されて現実の陽光を示されても、眩しく眼は痛み、陽光から目を背けて、踵を返して洞窟の中に帰ろうとするに違いない、とプラトンは書く。

  彼は、苦しがり、引っぱっていかれることに苦情を言い、いざ太陽の光の見えるところに来たとしても、眼は光輝に満たされて、いまや真実であると言われているものは、一つも見ることができないのではなかろうか。

 私たちそれぞれの言語は私たちそれぞれの洞窟であり、私たちが真実の経験であると思い込んでいるものはそれぞれの穴居生活に固有の「影絵芝居」なのかもしれない。だからといって、「地下の住居から、力ずくで」誰かに引っぱり出されても、私たちにはそこで輝いているのが「陽光」であるのか、別の洞窟で演じられている「眩しい影絵芝居」であるのかを判定する権利を持たない。
 おそらく、心の弱い人間は、陽光から眼をそらして、もとの洞窟に戻してくれと泣訴するだろう。洞窟の中の暗闇は、ある意味では、母の胎内にも似た居心地のよい場所でもあるからだ。そこにとどまる限り、自分の見ているものが「現実」であるのか「影絵」であるのかの判定に苦しむ必要もないし、果たしてその真偽を判定する権利が自分にあるのかという答えられない問いを引き受ける必要もない。
しかし、人間は「洞窟の外」へ引き出されるという宿業を負っている。というより、そのような苦痛を引き受けるものだけが「人間」と呼ばれるのである。
 「洞窟の外へ出ること」をヘーゲルは「自己意識」を呼んだ。
 自己意識とは、自分が何ものであるのか問うこと、つまり、「自分の外」にいったん逃れ出て、想像的に確保された視座から自分を「振り返る」ことである。人間の人間性は、この「自分の外へ出る」という根源的趨向性に担保されている。

p182-183
省6
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