何も無いロレンシア (83レス)
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70: ◆SbXzuGhlwpak 2019/06/01(土)03:29 ID:zJUkddjZ0(70/82) AAS
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 冷たい水が頬をうつ。左目はつぶれ右目はかすみ、何が起きているか視界で捉えることはできない。耳朶を打つ振動と独特の匂いが、雨が本降りになったことを教えてくれた。

 雨に遮られてもなお鼻をつく、すえた匂い。ここは路地裏。この街の路地裏は今日踏み入ったばかりだが、どの街であっても似たようなものだ。ゴミの掃きだめで、物の腐った匂いが充満する。そこでしか生きられない者と、そんな場所を利用しようとするクズのたまり場。耳と鼻がなんとか機能さえすれば路地裏で何年も過ごした経験から、何があるのかある程度はわかる。

 応急処置をしなければならないが、それは人目がつかないところで行わなければならなかった。俺に恨みのある奴など吐いて捨てるほどいる。そんな奴らの中には、俺の首に賞金をかける者もいた。十億にはとても及ばないが、一生遊んで暮らせる金のために俺を狙う奴はいくらでもいるのだから。

 毒はどうしようもない以上、しなければならないことは止血だ。魔に心を呑まれたモノであるア―ソンの毒を解毒する薬など、この世には存在しない。しかし毒の本体であるア―ソンを殺したからには、あとは体内の毒に抗う体力がありさえすればいい。誰に説明されるわけでもなく、アレと直接対峙してわかること。つまり必要なのは体力を失わないことだ。

 視界を失いさらに毒が回っているおぼつかない足取りで、なんとか誰も住処としていない廃墟に転がり込む。天井に穴が開いた建物で、かろうじて雨が及ばない壁に倒れこむように背を預けた。

「……動かないな」

 出血が激しいのは瞬刺殺にえぐられた脇腹だ。しかし止血しようにも、両腕がどちらも動かない。

 右腕は傷ついた状態で全力を出した反動で折れ、さらにその手は脱臼と骨折で指が変形してしまっている。左腕は解毒されるどころか悪化しているようだ。

 生き残る方法は一つしかなかった。移動中に解毒が終わり、動くようになった左腕で変形した右手を無理矢理矯正し、止血する。そして息をひそめながら体力を回復させる。それなのに最初の一手目でつまづいてしまった。

 誰かに助けを求めるべきだっただろうか?

 あり得たかもしれない方法が、ふと頭をよぎる。そしてすぐに否定された。

 今の俺のあり様を見て、応急処置ができる胆力をもつ者が偶然見つかっただろうか。見つかったとして処置を受けている間に、誰かが俺の首に懸賞金がかけられていることに気づかないとも限らなかった。見ず知らずの他人に命を預けるにはあまりに人に疎まれた経験が多すぎて、最初に思い浮かばなかったし、思い浮かんだとしても選ばなかっただろう。

「これで……終わり、なのか?」

 気が付けば諦めの言葉が漏れていた。

 打つ手はもう無い。いや、最初から無かった。そしてこうなってしまうことは、イヴにも警告されていた。

 あの“深緑”のア―ソンと“血まみれの暴虐”フィアンマと殺し合えば、たとえ勝てたとしても待ち受けるのは無残な死であることはわかっていた。それなのに、彼女を守ることを選んでしまった。俺の生きるための願いは、まだ叶えられていないというのに。

 もうこの目にはろくにモノが写らない。雨で冷えた空気に熱を奪われながら、自然と目の前の光景ではなく遠い過去のことを思い出す。

 今よりも寒い冬の時。雪がしんしんと降る中を、二人の若い男女が俺に背を向けて歩いている。俺は小さな手を伸ばすが、遠ざかっていく二人を止めることはできない。追いかけようにも、俺はまだ歩けない。

 二人は曲がり角に差し掛かり、その姿を消そうとしたその時。一度だけ女の方が立ち止まり、こちらを振り返ろうとして――男の方に手を掴まれ、結局振り返ることなく立ち去っていった。

 俺の父であった人と、母であった人。
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